第二話 夏の色は、私の色 前編・下
・鏡花の(意図せぬ)夏休み その2
目が覚めた鏡花は、少々の頭痛、それに猛烈な気怠さと熱っぽさで、ぼんやりとしていた。
(ここは……?)
なんとか少し頭を左右に振って周囲を見たが、右には窓とその向こうに広がる空、左はカーテンらしき布。
(確か、夜遅くに会社を出た後に電車に乗って、その後は、…………その後は?)
記憶が途切れていた。
途切れた記憶を思い出そうにも体が言うことを聞いてくれない、確認しようにも誰もいない。
目についたのは、枕元のベッド柵らしきところにぶら下がっている、オレンジ色のボタンがついたもの。
そのどこかで見覚えのあるものと、今まさに悲鳴を上げている体を総合すると、
(わたくしは、病院にいる)
そう結論づけた。
そう言えばここ数日、特に昨日くらいから体調は優れなかった。
(………………ダメね……)
自己管理がなっていない。
これでは部下に顔向けができない。
名越と星野は衝突していないだろうか?
心配事は尽きなかったが、今の鏡花にはどうすることもできなかった。
(とりあえず、自分がどうなっているのか確かめないと)
おもむろにオレンジのボタンを押すと、遠くでかすかに呼び出しの電子音が鳴り、しばらくするとパタパタと誰かの足音がした。
「はーい、水本さん、どうされましたか?」
カーテンの向こう側から鏡花のぼんやりとした視界に、よく見知った顔の人物が現れた。
ここが病院ならば、あり得ないはずの人。
「…………星野……さん?」
「水本さん、起きられたんですね。頭痛いとか気持ち悪いとかありますか?」
「……ええ。かなり……」
いるはずのない人は、鏡花に質問しながら、点滴スタンドに取り付けられた機械と輸液バッグを手際よく確認していた。
ちょっと待っててくださいね、と言うとその人はどこかに行ったと思ったらラップトップPCの乗ったカートを押して戻ってきた。
「あの……」
「えーっと、お名前答えられますか?」
「……水本……鏡花です」
「はい、ありがとうございます。あと生年月日も答えられますか?」
生年月日、身長体重や今の気分などいくつか質問をやり取りしながら、その人はラップトップPCに入力していた。
聞いた内容を総合すると、
昨日、鏡花は帰宅途中に電車内で倒れて、この『睦月総合病院』に救急搬送された。
その後鏡花の両親が飛んできて、即入院になった。
病状としては過労によるものだろうが、発熱していて衰弱もしているので、経過観察も兼ねて入院中。
そして時間は、倒れた翌日の朝九時を少し回ったくらい。
「……はい、ありがとうございます」
しかしもう一つ、さっきから気になっていた。
見れば見るほど目の前の人が、自身の部下にそっくりなのだ。
「……あの失礼ですが、貴女は……」
もはや自身の体調より、目の前の人物が気になっていた。
「……ウチのダンナもよく言うんですよ、娘とそっくりだ、って。……星野晴名と申します。いつも娘がお世話になっています、でいいのかしら。星野華音の母親です」
「…………!」
やはり、という気持ちと驚きのあまりベッドから飛び起きそうになるが、それは衰弱した体が許してくれなかった。
「安静にしてください、水本さん。貴女はご自身で感じている以上に消耗しているんです」
その要所でのはっきりとした物言いも星野華音にそっくりだった。
「………………世の中狭いですわね」
「私も二十年くらい看護師をやってますが、娘の上司の方が来られたのは初めてです」
その顔は、見れば見るほど自身の部下そっくりだった。
「ご存じ、でしたのね……」
「ええ、娘からお話は伺っていましたので。……娘の夢の話も、ありがとうございます」
「……いえ、わたくしはなにも……」
少しだけ、居心地の悪い雰囲気になりかけて、
「その……、星野さんのお母様は看護師さんだったのですね」
奇縁になんだか不思議な気分になりつつも、昨日、一昨日の出来事もあったので、ちょっとした好奇心だった。
「そうですよ。この病院の、水本さんが今いる病棟の看護師長です。ちなみに今日は夜勤明けなんでもう帰りますが、明日からは私が水本さんを担当しますので、ちゃんと安静にしていてくださいね」
そう言う微笑みも母娘そっくりだった。
「……ええ、分かりましたわ」
「……そうだ。入院中にもし、総務課長を名乗る変な中年が来たら、容赦なくこのナースコールを押してくださいね」
思い出したかのように、星野の母親は妙なことを忠告した。
「……?」
「お恥ずかしい話ですが。この病院には娘離れできない親バカがいるんです。……つまり華音の父親で、私のダンナです」
「あらあら……」
娘離れできない親バカ。
そう聞くと、二人ほど鏡花には心当たりの顔が浮かんだ。
「わたくしの父も似たようなものですわ。それに星野……華音さんの上司の総務課長さんも」
その言葉を聞いた星野の母親は、苦虫を噛み潰したような表情で、
「水本さんのお父さんはともかく、ウチの娘の周りには親バカだらけなんですか……。しかも総務課長な所まで一緒なんて……」
「ええ。どうやら星野さんは、親バカな総務課長から逃れられないようですわ……」
クスクスと鏡花も少し弱々しいながらも笑みをこぼした。
目の前に立つ人物は看護師という職業人であって、年頃の娘を持つ母親でもあった。
「……安静にと言いながら、私がお邪魔してしまいましたね。ご家族はまたすぐにいらっしゃるとのことでしたので、安心してください。私も患者さんに関することは守秘義務があるので娘にも話しませんが、水本さんの回復が遅れると娘に顔向けできませんので、今はちゃんと休んでくださいね」
そう言うと、星野の母親は病室から去って行った。
(良いご家族なのね……)
相変わらず少々の頭痛、気怠さと熱っぽさはあったが、少しだけ気持ちは楽になり、鏡花はいつの間にか眠りに落ちていた。
・鏡花のいない夏 その2
どうやら水本鏡花はしばらく計算が立たない。
そう判断した名越は、臨時の措置として鏡花が来る前の体制、つまり三月三十一日までの名越&総務部三課長での事務処理に切り戻すことを考えた。
が、僅か三ヶ月ほど前、されど三ヶ月ほど前。そう上手くいかないのが仕事の妙味。
つまり、言うは易く行うは難し、である。
発案者である名越自身、その背景には長屋の不在など数々の運要素があったとはいえ既に総務部長から、事業統括本部長を経て、社長となり長屋の仕事を引き継いでいた。
肝心の四月一日以降の水本総務部体制も、当の本人が過労で倒れるほど奮闘していたため、だいぶ形になっていた。
つまり、
「……やべぇ、わがんね」
それが総務部三課長と相談した結果、名越が得た感想だった。
三ヶ月間で新しく生まれた業務、そして消えた業務。
多くはないが無視もできない。
仕方ないので、最初はとりあえず鏡花の仕事をそのまま自身にスライドさせようとした名越だが、総務部三課長に全力で止められた。
曰く、
「社長、気持ちは分かります。自分が全部やればいい。確かにその方が早いこともあります。ですが、それでまたゴミ箱を『ホームラン』したら、どうなるか分かりますよね?」
このまま名越&総務部三課長での事務処理に戻しても元の木阿弥となる。
さすがの名越も黙るしかなかった。
とりあえずは、鏡花が戻ってくるまでの総務部長業務の代行は名越、それ以外の日常業務は通常通り、そして鏡花が退院するまでに名越は業務の把握、総務部三課長は業務の一時的な組み替え、それによって溢れる仕事のうち機密には当たらない物は、応援要員を確保してお任せする、ところてん式とすることになった。
業務の把握といっても最初は大したことはできないので、ひとまず鏡花に依頼していた業務の中でも元々自身が担当していた業務の処理から手を付けようとした。
したのだが、少しだけ問題があった。
「いやぁ、星野さんすいませんねぇ……」
名越と星野は、社長室の応接セットに向き合いながら面談……ではなく、名刺整理に勤しんでいた。
(私は何をしているんだろう……)
星野がそう思うのも無理はなかった。
鏡花の代行業務の最初の仕事に手を付けようとして、いきなり壁にぶち当たった。
その仕事で連絡を取るべき連絡先が分からないのだ。
名越の携帯にも連絡先の登録はなく、記憶を辿っても、
「なんか、やたらイラッとするおっさんだった」
「一度しか会ってないからもう要らんと思った。すまんかったと思ってる」
その程度の情報だった。
思わず脱力しかけた星野に追い打ちを掛けるように、たぶん重要じゃない名刺はこの箱にあると思う、と小箱にぎっしり几帳面に詰められた紙の束を見せてきた。
一応名越なりにルールがあるらしく、小箱にはいくつか仕切りが入っており、『業者、行政他、前職の繋がり、その他』と分かれているとのこと。
強いて言うなら、今回必要な名刺がどこにあるかは分からないのが欠点だった。
仕方ないので二人で総当たりで探し始めて既に小一時間、作業は遅々として進んでいなかった。
(子供のランドセルから学年便りを探すって、こういう気持ちなのかな……)
脱力からの半ばヤケクソで名刺を探し始めた星野は、教育実習では分からなかった、親の気持ちを追体験していた。
更に悪いことに、目の前にいる社長さんはどうやら掃除の時にアルバムを見返してしまう人種のようだった。
「星野さん見てくださいよ、コレ。この間の選挙で落ちた人の名刺」
「おお、懐かしいなコイツ。なんか横領して捕まってたなぁ……」
「この営業がまぁひっでぇヤツでね。完全に自分が悪いのに、ネチネチ嫌味を言ってきたんだわ」
(……子供だ。この間私の夢に文句を付けてきた人とは思えない……)
対照的に、星野は黙々と作業に勤しんでいた。
「口より手を動かしてください」
教育実習を思い出し、言葉は簡単かつ明快に、弱気は最大の敵、と目覚めた星野に躊躇は無かった。
「……へーい」
そうして名越をようやく作業に集中させて、更に小一時間が経とうとしていた時、
「……え……」
思いがけないものを見つけた星野は、素直に驚いていた。
「どうしました?宝くじでも入ってました?」
「……いえ。何というか……」
星野の手元には一枚の名刺。
「……それ、なんですのん?」
名越と手元の名刺を交互に見比べるが、手元にある名刺と、目の前で適当な日本語を操る人間が全く繋がらなかった。
「あの……、社長はこの方と面識があるんですか?」
質問の意図が分からなかった名越は、
「どちらさんですか?知らないですよ。有名な方なんですか?」
何のことだか分からない顔をしていた。
星野には確信があった。
(そんなことはない。……なぜなら私もこの名刺を持っているから)
黙って名越に名刺を見せた。
その名刺には、
『医療法人社団白水会 睦月総合病院 総務課長 星野直行』
星野華音の父の名前が刻まれていた。
その名刺を見た名越は何事か思い出そうとして、ブツブツ言っていた。
「病院……。はて病院さん……?睦月市って言うと、隣の隣町か……。あー……?ん?」
名越が徐々に思い出していく姿を、星野はいつの間にか固唾を飲んで見つめていた。
「アレかな?二水会」
「二水会、ですか?」
なにやら聞き慣れない単語が出てきた。
どうやらこの辺りの公共機関などの事務責任者の異業種交流兼情報交換のような場らしく、名越は以前に総務部長として参加していた。災害の発生以来開催されていないが、次回があれば鏡花の担当だろう、とのことだった。
「……そういや、いましたねぇ。なんだか思い出してきましたよ。そうそう。私が顔出す度に仕事の話そっちのけで、やたら娘の話ばかりする人でねぇ。すごいんですよ。携帯の待ち受けは奥さんと娘の写真だし………………」
真夏が近い社長室は今、冬の空気が支配していた。
「その娘、私です…………」
星野は顔を真っ赤にして俯いていた。
名越は目を点にして固まっていた。
「のんさん……あんた……」
いくら察しの悪い名越でも、さすがに分かってしまった。
「……のん、さん……?」
だがそれとコレとは別問題。うっかり気を抜くと真っ逆さま。
腹の底から出たのであろうドスの効いた良い声は、星野の逆鱗に触れた合図。
「……あ、いや、失礼……」
知らぬ間に踏み抜いていた地雷の上で踊れるほど、名越の神経は太くなかった。
「………………………………す、素敵なお父さんですね」
そう言うのが精一杯だった。
「父とは他にどんな話をしたんですか?」
「話をしたと言うより、聞かされたんですけど……」
「どんな話をしたんですか?」
さすがの名越も、星野のえもいわれぬ圧に抵抗するほど愚かではなかった。
「えーっと、確か……。高校時代の一時期、それまでずっと先生になりたいと言っていた娘さんが、突然看護師になりたいと言い始めたので、現実を突きつけて理詰めで反対したらケンカになって、一年くらいまともに会話してくれなかった、とか?」
ハァ……。
星野のため息が聞こえた。
「あとは、事務方の情報交換として待遇面のお話もしましたね。給与とか。私も一応事務屋なんで、余所さんの待遇面は気になりますからね。……そういやなんか公務員給与の話で、なぜか教員の給与水準の話をやたらと聞かれましたよ。他の地域はどうだとか」
ハァァァ…………。
星野のもう一段に深いため息が聞こえた。
「……社長、分かりました。ありがとうございます。父にはよーく言い聞かせておきます」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないです……」
「なんか、こう、思い出して気付いたんだけどよ。綺麗に踏み抜いていたのね、地雷」
「ええ……。社長は『父と同じように、私の夢を一般論でぶった切った』ってことを理解して頂けて良かったです……。とにかく社長は私の父と面識があった、と思い出していただけでも、今後のためになります」
「……なんか、申し訳ない」
色々あったが、その後目当ての名刺は無事見つかった。
鏡花の代わりに、星野からひとしきり『ありがたい言葉』こそ頂戴したが、
(……結局、先に手ぇ動かした方が早ぇんだわな……)
今日一番の学びはそれだった。




