第二話 夏の色は、私の色 前編・中
・鏡花の(意図せぬ)夏休み その1
鏡花は意識が朦朧とする中で、ぼんやりと聞こえる会話に自然と耳を傾けていた。
「おい、一通り終わったのか?」
「とりあえず。処置と言っても、ちょっとした擦過傷程度だしね。あとは安静だね」
「そうか。熱発しているようだから受け入れられるか心配だったんだが、良かった。……最近はちょっと熱があるからってすぐ患者を断るからねぇ、看護部は」
「私はあまり断らないけどね」
「みんなお前みたいなナースだとありがたいんだが。……てかお前までなにかと理由つけて断り始めたら、俺の立場がなくなる。あの医事課長に詰められるとか勘弁してくれ……」
「総務課長は大変だねぇ」
「ヨメが看護師長じゃなかったらもっと楽なのになぁ」
「そのヨメが看護補助者の頃に言い寄ってきたのは、どこの誰ですか?」
「…………そういえば、先生は?」
「戻った」
「相変わらずだな……。ちゃんと診たのか?あの先生」
「検査結果見て病名付けたんだから、診たんでしょ」
「良いご身分だことで。そしたら入院か」
「そう。だから入院書類よろしく。ご家族は?」
「もうしばらく掛かると。……しっかしまぁ、世の中分かんねぇもんだな」
「そうね。あなたが騒がなければ気づかなかったけど」
「仕方ないだろう。総務課長になってから事務当直なんて久しくやってなかったのに、欠勤に次ぐ欠勤でお鉢が回ってきたと思ったら、第一号のお客さんが娘の上司なんて。あるか?普通」
「でも、この患者さんが本当に華音の上司の方なの?間違いなんじゃない?」
「寡聞にして、保険情報で氏名と事業所が間違ってる、なんて最近は滅多に聞かないけどな」
「ならこの人が……」
「華音が言ってた『色々とすごい人』、ってことだな」
そこで、鏡花の記憶は途切れた。
・鏡花のいない夏 その1
「…………どうするかね…………」
名越は頭が真っ白になっていた。
何も考えつかない。
「水本部長、昨日、一昨日と顔色が悪かったですからね」
総務課長の一言は、名越を更に追い詰めた。
「……いや、本当にマズいな」
何も考えつかないのに、気ばかりはやり始めた。
「……社長?」
星野の声も聞こえていないようだった。
「これはいかんな。アレとか確か期限近かっただろ、いやそれにそもそも……」
名越は、鏡花がいない現実がどうなるのか、想像できなかった。
「そういえば、この間鏡花さんにお願いしてた件どうなった?あとこの間決まった役員登記とかどうするんだ?立花さんから来てた件もそうだ。どうするんだべ……」
明らかに名越は独り、狼狽えていた。
「社長、大丈夫ですか?」
「社長、とりあえず今は落ち着きましょう」
星野や総務課長にそう声を掛けられても、
「いや、これのどこが落ち着いていられるんですか。マズいですよ、本当に。こらマズい」
総務課長はなだめているが、星野は徐々に感情が別の方向に向かっていた。
(動揺するのは分かるけど、元々自分の撒いたタネじゃないの?)
その間にも名越の考えはどんどん飛躍しているようだった。
(この間私には偉そうなこと言ったくせに、何なの?)
今にも、どこか明後日の方向へ走り出しそうになっている名越を見て、
(何なのこの人は?なんで鏡花さんの心配じゃなくて、自分の心配をしてるの?)
そして、
「いや、これで落ち着いていられないでしょう?どうするんですか?どうするんだ?」
情けなく狼狽える名越を見た星野の中で何かが吹っ切れた。
「社長なんだから落ち着きなさい!部下が一人いないくらいでガタガタ騒ぐんじゃないの!」
全力だった。
弟妹以外の他人を、本気で叱ったのは初めてだった。
そして、その全力は一瞬だった。
周囲の視線が全て自分に集まっている。
瞬時に血の気が退いていくのが分かった。
(終わった………………)
星野は真っ青になり、固まった。
最初は総務課長だけで名越をなだめていた。
そのうち時間とともに人事課長と管理課長も出勤して来たので事情を説明して、とにかく狼狽えている名越を総務部三課長総出で落ち着けようとしていたが、なかなかどうして動揺している者同士だと効果は薄かった。
これは手に負えないと感じた刹那、誰かの一喝が三階大部屋に響き渡った。
すわ、鏡花か?
しかしその姿は、星野だった。
当の本人は、自分が何をしたか周囲の視線を一身に受けて理解したのか青ざめている。
だが総務部三課長には、一瞬だが確かに鏡花の姿が重なって見えた。
なにやら周りが騒がしい。
取材で疲れ切って家に帰る気力すら使い果たして、拠点に椅子を並べて泥のように眠っていたタバサは、その喧噪でフラフラと起き上がると、ぼやけた視界ながら仕切り越しに騒ぎのする方を覗いた。
(なんなの…………?)
誰かが何か騒いでいるようだった。
そうしてぼーっとしていると突然、
「社長なんだから落ち着きなさい!部下が一人いないくらいでガタガタ騒ぐんじゃないの!」
誰かの声がタバサの眠っていた脳みそをたたき起こした。
「うぉおう!」
びっくりして変な声を上げてしまったが、誰もタバサのことは気にしていなかった。
視線はある一点に集中していた。
(星野……さん?)
その周囲には総務部三課長と名越。
(んん……?)
何があったか分からない。
ただ、理解できたのは、
(星野さんが、名越さんを叱り飛ばした?)
その事実だった。
未だお休み中のタバサの脳内に、今見た事実だけが染み渡る。
(……スクープだ)
水を打ったように静まり返った。
名越は口をぽかんと開けて、間抜け面をしている。
総務部三課長は、鳩が豆鉄砲を食ったような表情だ。
タバサは仕切り越しに目をこすりながら、矯めつ眇めつしている。
そして他の社員も、大なり小なり怪訝な表情をしたり、驚いたりしていた。
総ての視線は、三階大部屋の一点に注がれていた。
「………………うん、まぁ、そうだね。落ち着くって大事よね。うん」
夏の珍事を目の前にして、ようやく出てきた名越のその一言が、止まっていた時間を朝の喧噪に引き戻した。
「……あ、あの、いえ、分かって頂けたなら良かった……です……」
真っ青だった星野は、今度は顔を真っ赤にして、消え入りそうだった。
「そうそう。別にね、部下の一人や二人ね、いなくても。ねぇ管理課長」
「いや、私に言われても……」
「……すいません」
暴走から戻った名越が取り繕うとして無事失敗したところで、総務課長が手を叩いて、
「ほらー、終わりだぞー」
と三階大部屋中に響くように宣言すると、他の社員達とタバサは各々仕事に取りかかり始めた。
「さて、社長。どうしますか?」
名越を落ち着けても、問題は解決していなかった。
「鏡花さんがぶっ倒れたってのは、ご家族から?」
「ええ、水本部長のお母様から。入院といっても大病ではないから、二、三日で退院だろうと」
その話を聞いた名越は、うーん、と唸ると、
「ただ、倒れたのは事実ですからねぇ……。退院即復帰、とは行かんでしょう。そういえば、昨日ちょっと様子がおかしかったですからねぇ……」
「それは……」
(それは、社長がトドメを刺したからじゃ……)
そう総務課長は言いかけて止めたが、
「社長が過負荷を掛けたからです」
代わりに星野が名越を袈裟斬りにしてしまった。
何かが吹っ切れてしまったのだ。
(この人は、はっきり言わないと分からないから仕方ないんだ。教育実習を思い出せ。言葉は簡単かつ明快に、弱気は最大の敵!)
ただ無敵ではなかった。
星野の中で、なにか覚悟が決まった無敵だった。
「あ、はい。すいません……」
心当たりしかない名越は、謝るしかなかったが、
(俺、社長だよな?)
そんなことを考えつつも、この場で抗う愚を犯す勇気は無かった。
(星野君、いつの間にか一皮むけたなぁ……。想像とは違うけど)
新卒の頃から星野を見てきた総務課長も、部下のあらぬ方向への成長に複雑な心境だった。
もし鏡花がこの場にいたなら、こう評したのだろう。
「星野さん……。貴女、やはり先生ですわね。小学校一年生の」




