第一話 夏への扉 前編
株式会社ベイローレル 総務部付主任 星野華音。
特段仕事が好きでもなければ、さりとて嫌いというわけでもない、極めて一般的な会社員である彼女の日々は、ある日を境に多少、激変した。
多少なのは、ここ最近はその二人に仕事の内容が大きく左右されていたから。
激変なのは、総務部付主任という掴み所のない役職が付いたことと、業務内容が新たに『社長秘書兼総務部長の補助』なってしまったことだった。
だがそこは会社員。
今まで通り、与えられた仕事を軽んじることなく黙々と片付けて、それに対してなにか異論を挟むことはしなかった。
しかし肩書とは裏腹に実感はなかった。
業務内容が新たになったことでそれに伴う席替えなどがあった訳でもなく、変わらず三階大部屋の総務部総務課に席があるので体感が薄かったこともある。
ただ彼女も当然一人の人間なので、一連の出来事に不満や不安を感じていた。
少なくとも星野は今回の人事をただの昇格や抜擢などではなく、二人の上司が仕組んだ『不意打ち』と捉えていた。
心に秘めたる目標が遠のいてしまう、ありがた迷惑なもの。
それが星野の隠しようのない本心だった。
(だから私の人事面談が後回しにされていた……?)
そう疑心暗鬼に陥るのも無理はなかったし、その感覚はあながち間違いでは無かった。
七月一日。社長室で予期せぬ辞令を受け取った星野は、その足でまずは係長に報告した。
悲壮感を纏った星野からその理由を聞いて面食らった係長は、慌てて総務課長にことのいきさつを説明すると、
「そうか……。星野君、すまないがひとまず現在担当している業務と、手持ちの仕事の引き継ぎをしてくれないか?仕事の振り分けはこちらで考えるから」
その何かを知っているような言い方と、どこか申し訳なさそうな態度で、星野と係長は察した。
(多分、課長は知っていたんだ……)
その日の夜、引き継ぎ資料を作成していた星野の姿は、やり場のない怒りをあたかも仕事にぶつけているかのようだった。
数日後、引き継ぎが一段落した星野が真っ先に行ったことは、新しい業務への準備より先に色々とはっきりさせることだった。
「水本部長、お時間よろしいですか?」
「あら、星野さん。なにかご用かし……ら……」
鏡花が声のする方を向くと、普段とは違うオーラのようなものを纏った星野が仁王立ちしていた。
「私の四半期面談、なぜ最後なんですか?」
星野の問いの切れ味は鋭かった。
「それは、確認窓口の開設でしたり、名越社長とわたくしの異動もありましたし、それにこの状況ですから、みなさんとお話しする機会を取ることが難しかったのですわ」
それを受け止める鏡花は遅かれ早かれこうなるだろうと想定済みだったので、淀みなく事実だけを伝えたが、
「では、人事異動の内示が私だけ無かったのはなぜですか?」
「なにぶん役員人事の変更が急遽決まったことでしたから、四半期面談が間に合わなかったのですわ」
「なら、個別に呼び出してそのことを説明して頂ければ良かったのではないですか?」
「それは……」
事実、鏡花は星野の思いまでは計算しきれていなかった。
固唾を飲んで見守っている総務部三課長を始め、異変を感じたタバサまで仕切りの向こうからこちらを見ている。
「なぜですか?なぜ私は後回しにされたんですか?その程度の扱いで問題ないと考えたからですか?」
「いえ、決してそのようなことはありませんわ。ただ……」
「なら、面談の機会を頂けるんですね?」
その言葉に込められた強い意志に気圧された鏡花は、黙って頷くしかなかった。
(やはり、策を弄する者は、策に溺れるのね……)
鏡花は、いささか近視眼的過ぎた六月末の自分を今更窘めたくなった。
希望通り、星野華音の四半期面談の場は、その日の午後に設定された。
「で、総合的な人事評定ですが、今年度の第一四半期も変わらず良好です。クロス評価でもそれは変わらずですね。本人評価が少し低いのは性格なんですかねぇ。とにかくこれからもこのまま頑張ってください」
名越は、星野を前にして人事考課表に目を落としながら、通り一遍の人事評価とその説明をしていた。
「………………どうやって頑張れって言うんですか」
星野の真っ直ぐな目と真っ直ぐな言葉。
鏡花は困った表情になるが、その隣に座っている名越は対照的に、人事考課表を手にしたまま、なにか不満でも?というように片眉を上げて、その真っ直ぐな目を受け止めていた。
「……なにか仰りたいことがあるようですね。そりゃ私も鏡花さんも、星野さんからしたら『奇襲』を仕掛けてきた相手ですから、さもありなん、としか言いようが無いんですが」
「……………………………………」
「確かに気持ちとしては理解できます。いきなり『今日から社長秘書をやれ』なんて言われて、素直に『はい』と言える人間はそこまで多くないでしょうね。だから私は一計を案じた、と言うより『だまし討ち』ですね、星野さんからしたら。そういう手段に出ました」
「…………私は、こんな状態でちゃんとした仕事ができるとは思えません」
「なら社長秘書兼総務部長の補助はやりたくない。そういうことですか?」
「そういう訳ではありません。私もこの会社の社員ですから、仕事はやります。ですが、」
「なぜ、先に話をしなかった、ですか?」
「……………………………………」
「分かっているならなぜ、とでも言いたげですね。その件に関してはこの通り申し訳ありませんでした」
名越が静かに頭を下げると、話の行方を伺っていた鏡花も慌てて名越に倣って頭を下げた。
「確かに、本来であれば決まった時点で速やかに人事異動の内示を本人に伝えるのが筋でしょう。ですが私の考えは少し違いました。この件を星野さんに内示したとしましょう。十中八九星野さんは辞退する。そう考えました」
「……それはあくまで社長のお考えであって、私の考えではありません。……決めつけです」
「…………そうでしょうね」
なら、と星野が言いかけて、名越はそれを遮るように続けた。
「ですが。……ですが、私も鏡花さんも今後は今まで以上に助けがいることは間違いないんです。そんな時に最近私達の動きによく付き合ってくれて動いてくれている若手がいる。そして『年次的にもそろそろ役職を』と曲がりなりにも上に立つ者は考えるんです。だが一方でただ役職を上げるのも骨が折れる。みんな、なんだかんだで他の同じような人間のことが気になるんです。だから私は鏡花さんに相談しました」
いきなり話の主役が自分に回ってきた鏡花は、少し驚きつつも話の続きを引き取った。
「……そうですわね。名越社長、当時は本部長でしたわね……、とにかく名越社長とわたくしの意見は珍しく一致していましたわ。星野さんになんとか秘書の役割をしていただきたい。けれど懸念すべきは本人の意志。その点に関しても、わたくしと名越社長は同じ考えでしたわ。このままでは星野さんは辞退する。ですからわたくしが考えて名越社長にお話したのは、総務部の課長にまではお話をして、当日に星野さんにお伝えする。役職は総務部付主任。業務内容は秘書。前例が無いから他の皆さんとは比べようがない。これで乗り切りましょう、と。……星野さんにはわたくしの身勝手な考えを押しつけてしまい申し訳ありません」
「水本部長のお考えだったんですか……」
少し落胆したような星野に、名越は、これだけははっきりさせたいと、語りかけた。
「まぁ、確かにその案を考えたのは鏡花さんです。ただそれに乗って、決めて、進めたのは私です。星野さんもご存じのように人事権を持っているのは水本部長です。ですが決裁権者は私です。つまりは私の責任です。それは誤解しないでください」
あくまで責めを負うべきは自分、名越にとって譲れない一線だった。
だが星野にとっては、瑣末なことだった。
どう足掻いても、その立場と仕事からは逃れられない。
その事実は覆りようがなかったから。
でも、せめて自分の話は聞いてほしかった。
今後どうなるか分からないが、二人が自分たちの都合を押しつけてきた分、せめて自身の思いの丈をぶつけたかった。
「……私、以前から小学校の先生が夢だったんです。そのために短大で小学校教諭二種免許も取りました。でも努力が足りなかったんですね。採用試験では結局不採用になりました」
星野が話し始めた自身のことを、名越と鏡花はただ静かに聞いていた。
「でも諦めていません。今でも通信制の大学で勉強して、今度は一種免許を目指しています。社会で色々経験した方が先生としての引き出しは多くなる、そう信じているんです。でも最近は色々と忙しすぎて、その勉強もなかなかできていないんです。でも私はベイローレルの社員です。まずは仕事。それは分かっているつもりです。けどこれ以上自分の夢、目標が遠のいていくのは嫌なんです!」
そんな星野の心からの叫びを聞いていた名越と鏡花は、再び頭を下げた。
「……それでも、今はその夢を私達に預けてほしいんです。星野さんの業務についてはその点も考慮します。ですから申し訳ないが、しばらく私達の身勝手に付き合ってほしい」
「わたくしも、……どうかお願いします」
言いたいことを言って、この会社のトップの二人に頭を下げられてもなお、自分を押し通すことはできない、と星野は観念するしかなかった。
「私なんかにそんな軽々しく頭を下げないでください。…………どこまでできるか分かりませんがお手伝いします」
その一言で、名越と鏡花の空気が和らいだ。
やり方がマズかったせいで大分遠回りしたが、やっとスタートラインに立てた。
名越と鏡花の胸中は、とりあえず一安心、その気持ちで一杯だった。
「……星野さんの夢は素晴らしいと思いますわ。一度の失敗でも心折れず目標に向かってひた走る。わたくしはとても良いことだと思いますわ。是非その夢、わたくしにも応援させてくださいまし」
ただ純粋に部下を思う上司の言葉だった。
そしてその純粋に部下を思う上司の言葉を聞いた名越は、文字通り動きが止まった。
過去の苦い記憶が一瞬でフラッシュバックしてきてしまった。
暗い水の底へ投げ出されたような感覚は抑えられず、その苦い記憶が外にあふれ出ることを止められなかった。
「……これは、あくまで私個人の意見となるんですが」
自分が思った以上に低い声に名越自身も驚いたが、止められなかった。
「夢ってのは、夢であるからこそ輝いて見えると思うんですよ。先程夢を預けてほしいと言った以上、反対はしません。それは約束します。ただ……、賛成はできません」
社長室は静まり返った。
名越の言葉は鏡花と星野の頭にすーっと、冷たく、染み渡った。
鏡花はみるみるうちに青くなった。
「ちょっと社長、一体何を……。ご自身が何をおっしゃっているか分かっておられるのですか!」
鏡花は感情をあらわにして名越を咎め、星野は目を見開いて唇をわななかせていた。
だが俯き加減の名越は、苦い記憶、暗い感情の激流に飲み込まれていた。
「……夢でメシを食うのは大変ですよ。仮に夢が叶ったとしても、現実に耐えられなくなるかもしれないんです。それにです。言い方は悪いですが、資格を取るとどうしてもその資格に人生が引っ張られるんです。……若いうちから人生の選択を狭めるようなこと、しなくても良いじゃないですか。なによりウチの方が聞き及ぶこの辺りの教師の平均給与から見ても上、労働時間もマシです。…………別に今のままでも悪い話じゃないですよ」
「私の何が分かるんですか!」
バンッ!と応接テーブルを叩くと星野は社長室を飛び出していった。
残されたのは、相変わらず俯き加減の名越と、青い顔をした鏡花。
「……水本部長。あまりこんなことは言いたくはありませんが、貴女は人事労務の責任者です。そんな方が軽々しく人材流出に繋がるようなことを言わないでください。…………これは忠告ではありません。警告です」
すっくと立ち上がると、先程までとは打って変わってしっかりとした足取りで、名越は社長室を出て行ってしまった。
「………………なぜ………………?」
僅かの時間での猛烈な風向きの変化に鏡花は理解が追いつかず、その場で呆然と、ただ嵐に飲み込まれていった。
どのようにして席に戻ってきたか定かではないし、いつからそうしていたのかも定かではない。
だが鏡花は自分の席に戻ってきていたようだ。
少なくとも目の前にぼんやりと広がっている景色から判断すると、そうなんだろう。
そういえば、星野が戻ってきていないことも確認した気がする。
断片的に今の自分を認識していたものの、いまだ意識は嵐の中にいるような感覚だった。
(…………なぜ…………?)
まるで幽霊のような青白い顔、そして覚束ない足取り。
わずか数十分前とは変わり果てた姿の鏡花が、フラフラと三階大部屋を自席へ向かう姿をその場にいた全員が一様に何事かと見つめていた。
ある者は声を掛けようとして止まり、またある者はその異様な光景に声を失っていた。
途中鏡花は星野の席を見ていたような気もするが、定まらないその視線は何を捉えていたか判然としなかった。
そして音もなく、崩れ落ちるように鏡花は席に座り込むと、そのまましばらく力なく項垂れていた。
そんな鏡花を総務、人事、管理の総務部三課長は見過ごせなかった。
だがあまりにも鏡花が纏う空気が異様だったため、声を掛けられずにいた。
そして躊躇われた理由がもう一つ。
『一体何があった』
その一点だった。
事情が分からないから、動けない。そうして時間だけが過ぎて行く中、こうしていても仕方ないと三課長で最年長の総務課長が、
「……部長。どうしましたか。なにがあったんですか?」
と意を決して鏡花に声を掛けるも、
「…………別に…………」とか「…………なぜ…………」と繰り返すだけだった。
もはやこれ以上見ていられないと人事課長と管理課長が代わる代わる声を掛けるも、その声は届いていないようだった。
困り果てた三課長の目は、自然とある方向へ向いていた。
先程までそれなりに騒がしかった三階大部屋から音が消えた。
そう感じて席から立ち上がり、タバサが目にしたものは、崩れ落ちるようにして席に座り、力なく項垂れている鏡花だった。
(な…………に…………?)
今朝までの、凜とした姿で「タバサさんはコーヒーの飲み過ぎですわ。一日に十数杯も飲む人がどこにいらっしゃるのですか!」と小言を言っていた姿は微塵もなく、まるでその出来事自体が幻だったかのようにも思えた。
浮かんでは消えて、出てくる思いは、
(鏡花もやっぱり崩れちゃったのか……)とか、
(みんな必死に鏡花に話しかけてるなぁ……)とか、
遠くの出来事を見ているような感想ばかりだった。
その内、ぼんやりとその光景を見ていたタバサは、目の端で動くものと視線に気づいた。
いつの間にか総務部三課長がものすごい形相でこちらに視線を送りつつ、こちらに向かって手を合わせていた。
(………………無理!巻き込まないで!)
何も見えなかった振りをしてすぐさま一度席に着いたが、中腰になってもう一度三課長へ目を向けるとまだ必死の形相でこちらを拝んでいた。
(………………そういう役回り、なのかなぁ…………)
見てしまった。そして見えてしまったものを無視できるほど、タバサも強い人間ではなかった。
席に戻ってきてから、どれくらいの時間が経ったのか。
一体何が起きて、なぜ自分はこうしているのか。
それすらも分からなくなってきた。
自分は一体何をしていたのか。
鏡花の思考はまとまらず、立ち尽くし、そして迷子になっていた。
(あぁ…………。わたくしは、失敗したんだ……)
そうして、更に奥深く沈み込むような感覚に囚われつつあった鏡花は、刹那、頬に軽い衝撃を受けた。
それも何度も。
そしてそれは止まることなく二度三度と続いている。
その衝撃で、ぼやけていた視界が徐々にはっきりすると、目の前には机越しに身を乗り出して、鏡花の頬を何度も軽くはたいている誰かがいた。
(一体何なのです……)
未だぼんやりとした頭を上げようとすると、「元気ですかー」とか「お嬢様、コーヒーはいかがですかー」とか、妙なことを言いながら、タバサがいつもの変化の乏しい表情に少しだけ心配が乗ったような顔で、頬をはたき続けていた。
「…………なん…………なのですか?」
「どうも」
タバサの表情が少し緩んだ気がした。
「………………どうも」
よく見るとタバサの背後には、心配そうにこちらを見つめる三課長の姿、そしていつも通りの高藤の姿もあった。
「あの……、わたくし……」
「……高藤さんが、鏡花に用だって」
そう言うとタバサは後ろに退き、高藤が鏡花の視野の中心に立っていた。
「……これ、月次の売上速報です」
そう言うと鏡花の机の上に、紙の束を無造作に置いた。
「……ありがとう、ございます……」
理解の追いついていない頭でとりあえず高藤に礼を言うが、まだ現実と夢の境界線が溶け出したように、はっきりしなかった。
「それと、もう一つ。……星野さんがさっき一階の通用口から出て行く所を見かけました」
その言葉を聞いた鏡花はハッとして、席を立とうとしたが、
「…………今はそっとしておいた方が良いでしょうね、星野さんのことは。そして鏡花さん、あなたも。……少し時間が必要でしょう」
その一言で、再び背もたれに寄りかかり項垂れて、
「そう……ですか……」
そう返すのがやっとだった。
「…………現実に打ちのめされるのもいいけど、タバサさんがなにか用があるみたいよ?」
そう言うと、高藤は経理部に戻ってしまった。
だが去り際の表情には、どこか慣れない環境で奮闘する者へのエールのような思いが込められていた。そして小さな声で鏡花の耳元で、
「がんばれ」
確かにそう言っていた。
聞こえた時にはその背中はすでに大部屋から去りゆくところだった。
「どうも」
ぼんやりと高藤の背中を見送っていた鏡花を、再びタバサが呼び戻した。
「……なんですの?」
「…………こちらのお父様方が、娘のような年頃の上司が茫然自失となっているのを見て、娘のような年頃の私に、『助けてくれ』って言うものだから」
そう言うと、先程から心配そうにこちらを見つめる三課長の姿がようやくまともに視界に入ってきた。
「助けてくれとはお願いしましたが、頬をはたいてくれとまでは言ってません」
総務課長がやっと一安心といった表情でタバサにそう言うと、
「そうだったんですか」
なんともとぼけた返事だった。
「………………また、名越さんがなんかやった?一発やっとく?」
タバサが、軽くシャドーで鋭い右フックを入れながら物騒なことを言っているが、鏡花は首を横に振って否定した。
きっとタバサなりの心配なのだ。
「…………わたくしが至らなかった。ただそれだけですわ……」
「…………話、聞こうか?」
なんだかタバサには世話になってばかりだな、鏡花はそう思いつつもこっそりと目尻を拭った。
さすがに鏡花の席では目立ちすぎるので、移動することにして外に出たが、
「丁度良いかは分からないけど、良い場所がある」
とタバサは行き先を教えてはくれず、何となくどこかへ向けて歩いていた。
タバサは鏡花に何があったか聞くこともなく、鏡花からタバサに話しかけることもなく、二人は無言でスタスタと歩いていた。
本社から歩いて水本駅へ。
更に電車で二駅。
そこで降りて今度は住宅地の中を歩く。
その間全く会話はなかったが、その分ぼーっと景色を眺めていた。
電車から見える景色には、未だ屋根にブルーシートの掛かった住宅も多く、復旧の途上なのだと感じさせられた。
そして住宅街をどこかへ歩いている途中、恐らくは最近まで住宅が建っていたのであろう空き地や、災害救援活動のテントの並んだ小学校の校庭横を通ると、復旧の途上なのかすら分からなくなってきていた。
自分の仕事はどこに繋がっているのだろう。
そんな感想が湧いてきて、先程の出来事を思い出し始めたとき。
「ここまで来ればいいでしょ」
タバサの声で、目的地に着いたことは分かったが、
「……川、ですの?」
「そう見えてるなら大丈夫だね。……何川だったかな?」
「……白花川ですわ。どうしてこのようなところに?」
あれ、と言ってタバサが少し先にある鉄橋を指差した。
「鉄橋、ですわね。あれが一体?」
「この間、記事を書いたときに教えてもらった鉄橋。白花川橋梁。御年百歳だそうです」
いまいちタバサの話について行けていない鏡花は、
「……そんなお話もいたしましたわね。ですが……」
遠目に白花川橋梁(百歳)を見つめていた。
「あの鉄橋の記事を書いた時、一応現地取材もしたの。それでこの場所を見つけた」
「この場所って……」
周囲を見回すと、今立っている場所の堤防天端の遊歩道、左手には少し遠くに件の白花川橋梁、前の河川敷にはグラウンド、振り返って堤防下すぐの堤内地には、今は青々とした桜並木。
取り立てて見所があるような景色には感じなかった。
「……特に何もありませんわね」
「でも、平和でしょ」
改めて見回すと、先程までのような災害の痕跡もなく、遊歩道を行く人やベンチで休んでいる人も、平日昼間なので、それほど多くない。
水の音、風の音、時折混じる鉄橋上を走る列車の走行音。
それは確かに、仮初めかもしれないが『平和』だった。
「心の平穏を取り戻すにはまず環境から、ってね」
「……そうでしたの」
タバサは、そそくさと堤防の斜面に腰掛けて、いつの間にか買っていた缶コーヒーをあおっていた。
「お嬢さん。話、聞こうか?」
珍しく、少しだけタバサはしたり顔だった。
そんなタバサに、
「カフェインの摂り過ぎはあれほどよくないと……」
小言を言いつつ、タバサの横に腰掛けた。
「なるほどねぇ…………。星野さんの夢を否定して、返す刀で鏡花を一喝する名越さんかぁ」
これは面倒なことになった、と言わんばかりのタバサは、缶コーヒーを片手に、膝に頬杖をついて空を見つめていた。
「…………少なくとも『誰が正しい』とは軽々しく言えないねぇ……」
「でも…………」
「まぁ、星野さんの言うことも、鏡花の考えも分かるんだけどねぇ……」
「なら」
「例えば、さ、よく『正義の反対は、また別の正義』って言うでしょ?みんな抱えている物、守りたい物があるから、考えも違ってくるって思うんだ」
鏡花は曖昧にうなずくが、タバサが何を言いたいのか判然としなかった。
「何て言うのかな、みんな考えは間違っていないと思うし、時と場合をわきまえた対応って考えるとむしろ、星野さんと鏡花の反応が正常で、名越さんがだいぶアレなんだけど……」
話せば話すほどしどろもどろになる。
そんな、らしくないタバサに、鏡花は違和感を覚えていた。
「……わたくしは正しいとか正しくないとか、今更議論はいたしませんわ。ただ、わたくし自身がこの会社で何をどうすべきか、何というか、迷っているのですわ」
その言葉に、タバサの表情が曇った。
「迷っている人に言うと余計に迷うから、言うべきじゃないんだろうけど……。鏡花には話しておいた方が良いのかな」
逡巡の末だった。
「……私の時も同じ反応されたんだよね」
らしくない理由は、どこか諦めたようなタバサの口から明かされた。
「あら……」
思わず声が漏れた。
ああ、なるほど。
それが鏡花の素直な思いだった。
「私の時は、外務省を辞めてカメラマンになるって話だったけど……」
そうしてタバサの、自身が今に至るまでの出来事と、その途中での名越との衝突をかいつまんで語り、そして、
「詳しくは言えないんだけど、名越さんはアレでも結構苦労して嫌な思いも相当してるの。……話には聞いてるけど、正直私には想像もつかないほど。しかもそれが昔からの夢での出来事だった。だからなのかな、名越さんは他人の夢とか希望の話を聞くと、余計なお世話なのに厳しいことを言ってしまうの」
その姿には「あの時話してくれていれば」という後悔が垣間見えていた。
「……名越さんに、事情があるのは分かりましたわ。けど、」
「私が言うことでもないんだけどさ」
そこでタバサは、そういう役回りなのかなぁ、と呟くと、
「理解してあげて、とは言わないけど、せめて静かにしておいてあげてほしいんだ……」
言い終わると同時に、大きなため息と共に複雑に重なり合った感情を吐き出していた。
正しいことだけが全てではないという、迷い。
自身の取るべきことを見失っている、迷い。
そして、タバサの思いを乗せた、迷い。
「そう、ですか……」
そう言うと、鏡花は力なく堤防の草むらに背中からパタリと倒れた。
水の音、風の音、列車の音、全てが遠ざかっていく。
川も、風も、列車も、そして人も、何も止まってはくれない。
どこへ向けばよいのか。
誰から考えればよいのか。
思いや感情が鏡花の足下で複雑に絡み合っていて、はじめの一歩を踏み出せないでいた。
結局その後は他愛もない話に終始し、水本支局に向かうタバサとは途中で別れて本社に帰ってきた頃には夕方だった。
三階大部屋に戻ると真っ先に星野の席に目が向くが、すでに帰宅していたようだった。
「おかえりなさい」
総務部三課長は帰ってきた鏡花を見て、少し心配だがとりあえずは一安心といった具合に声を掛けた。
「……ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
三課長に頭を下げる姿は、まだ少し本調子とは言い難いようだった。
「色々、ありますからね……。三時半くらいだったかな。部長がタバサさんと出て行ったあと星野が戻ってきたんですが、とりあえず帰しました。……あまり顔色が優れなかったので、明日は出られるようなら出社するように言っておきました」
「そう、でしたの。ありがとうございます」
総務課長の気遣いに感謝しつつも、更に一歩なにかから遠ざかったような気がした。
「名越さんもさっき電話がありまして、今日はこのまま帰らないとのことでした」
「……わかりました。ありがとうございます」
人事課長の言葉を聞いて、どこへ向けばよいのかますます分からなくなっていた。
「何があったか詳しくは聞きませんが、少なくとも私達は部長を心配しているってことは忘れないでください」
管理課長のその言葉は、少なくとも独りではないと思わせるには十分だった。
「ありがとう……ございます……」
三課長の心配りに感謝しつつも、鏡花も今日はこれ以上何かを考えるのは限界だった。
「……戻ってきて早々に申し訳ありませんが、わたくしも今日は上がらせていただきますわ。……少し疲れましたの………………」
三課長は何も言わずにうなずいた。
「鏡花さん」
大部屋を出ようとしたとき、総務課長の声が追いかけてきた。
「うちの娘にもよく言うんです。『明日はきっと、良い日になるよ。だから落ち込んだ日はメシ食って風呂入って早く寝るんだ』って。……あんまり考え込んだらダメですよ」
その言葉は子煩悩な父親のもので、とても上司に掛ける言葉ではなかったが、今はそれがなんだかありがたかった。
「……そうさせていただきますわ。お父様」
『お父様』は、自らのお節介に居心地悪そうにしながら、
「ええ。……お疲れさまでした」
そう言って『娘のような上司』を見送った。
外に出ると、すでに梅雨の合間の夕空が広がっていた。
世間より少し早く帰路につく鏡花はつぶやいた。
「明日はきっと、良い日になる、か」
はじめの一歩を踏み出せず、何もできなかったし、何も変わらなかった。
でも、根拠のない能天気な言葉が、少しだけ鏡花の力になっていた。




