番外編 わたしのあおぞら~プライド~
「私が、ですか?」
「ああ。三月に書いてもらったコラムが結構評判だったんでね。ウチの記者と交代で担当してもらえれば助かるよ」
「ですが」
「……元々報道写真が専門なのはわかってる。だが成り行きとは言え、同じような記事ばっかり書いていると視点も固定されるだろ。まぁ気楽に、とは言えないけど、頭の体操だと思って、ひとつよろしく頼むよ」
南方日報社水本支局に呼び出されたタバサは、一応その所属として活動しているのだが、取材拠点はベイローレルの三階大部屋に構えているため、あくまで便宜的なものと言えた。
元々は世界を飛び回っていたフリーランスの報道カメラマンであるため、顔を見せるのは経費の精算か、このようにデスクに呼ばれたときくらいのものだった。
そして今回は、後者の呼び出しだった。
何事かと思って出向いてみれば、南方日報全国版に掲載されている社会面のコラムの執筆依頼、というより指示だった。
各地にある支局が持ち回りで担当していて、水本支局には概ね二、三週に一度の頻度で順番が回ってきて、所属の各記者が分担していた。
以前にも一度だけ執筆を依頼されたことがあったが、その時は災害発生直後の『超』が付くほどの人手不足だったので、一も二もなかった。
だが、現在は『普通』の人手不足。
しかもタバサの本業はカメラマン。
なのに、タバサにお鉢が回ってきたのには訳があった。
その一度だけ書いた記事が、思いの外好評だったのだ。
これはタバサも想定外のことで、言い方は悪いが、タバサにとっては片手間でやった仕事が評価されてしまったのだ。
その後ろめたさもさることながら、もっと根本的な理由があった。
(記事を書くのは苦手じゃないけど……)
普通の記事なら書ける。
写真なら当然撮れる。
だがそもそもこのコラム欄は、見た目ほど気楽には取り組めないクセ者だった。
短い紙幅に、場所、出来事、理由を入れ、最後に少しだけ肩の力を抜く。硬い新聞記事の形を保ったまま、題材だけを軽くしなければならない。
報道するほどではないが、社会面に載るだけの意味はあり、そして社会問題として掘りすぎるとコラムの趣旨から外れる、執筆者にはそんな繊細な力加減と技術が求められる。
タバサはこの手の技術を、大の苦手としていた。
しかも災害後のこの街で、コラム欄に適した話題を探して、何か良かった話へと変えてしまうことへの後ろめたさも感じていた。
つまりタバサとしても、渋るには十分すぎる理由があったのだが、結局は断り切れなかった。
(参ったな……)
普段からあまり表情変化が豊かではないタバサは、眉間に皺を寄せたまま、声を掛けることも憚られるほど、それはそれは怖い顔で水本支局から自らの『拠点』に引き揚げていった。
すれ違う人が、ギョッとして思わず振り返るような顔をしながら拠点に帰ってきたタバサを正面玄関で迎えたのは、仕切りを隔ててお隣さんの席の鏡花だった。
「どこへいらしたのかと思えば、随分と怖いお顔をされてどうなさいましたの?」
「……何でもない」
「なんでもないなら、お約束した時間を忘れるなんて珍しいことは起きませんわ」
時計を見て、はて何のことやらと思案するタバサを見て、鏡花はため息をついた。
「……お願いですから、タバサさんまで名越さんのようなこと、なさらないでくださいまし」
その言葉を聞いてタバサは、失礼な、と言いかけて思い出した。
「そう言えば約束してたね……」
ハァ……、と再びため息をついた鏡花は、最近小言を言う機会がとみに増えたせいか、
「一体どうなさいましたの?そんな怖い顔は似合いませんわ。ひとまずお顔をほぐしていただきませんと、ウチの社員に『また夫婦喧嘩か』と笑われますわよ」
なんてうっかりいつもの調子でぼやいてしまったが、時既に遅し。
(マズいですわ!)
一言余計だったと気付いてさすがの鏡花も焦ったが、タバサは何事か思案しながら上の空で自らの顔をこねくり回し続けていた。
「……本当にどうしたのですか?」
様子のおかしいタバサを、鏡花が心配するのも無理はなかった。
「いや、ちょっと、ね……」
「ちょっとじゃ済まないですわ。本当にどうなさいましたの?詳しくお聞かせくださいな」
そう鏡花に言われては説明しないわけにも行かず、タバサは水本支局でコラム欄の執筆を指示されたこと、自分はカメラマンであって繊細な力加減と技術が求められる記事は大の苦手なことを、かい摘まんで説明した。
「……なるほど、それでそんなおどろおどろしい顔をなさっていたと」
「おどろおどろしいとは、なによ」
「……でもつい最近のことなのに、なんだか懐かしいですわ。そのコラム欄を読んでわたくしはタバサさんに出会い、この会社に潜入し、いつの間にか総務部長になって、そして……」
鏡花はそこまで言うと、少し遠い目になった。
「なんかあったの?」
「名越さんが出張に行っている件ですわ……」
「あぁ……」
タバサは先日、呼び出されていくつか質問をされたことを思い出した。
他人には、『しなくていい苦労はしない方がいい。人間が曲がる』とかいう割りに、どうも名越は自ら苦難の道を進んで行くらしい。
詳しくは聞かなかったが、タバサはそう考えていた。
「それよりも、タバサさんですわ。既に立花部長と入江さんがお待ちですわ。……あと、いつまでもお顔をこねくり回していないでくださいな」
「……おお」
鏡花のため息は、留まることを知らなかった。
「今度の南方日報全国版の特集、『途切れた旅路』の件ですが……」
鏡花と立花そして入江に、今度予定している特集記事の説明をしていた。
タバサの顔は、いつも通りの表情変化があまり豊かではないが、先程までとは打って変わって至って真面目そのものだった。
「……以上が特集企画の概要です」
説明し終えて、二、三質疑応答の後、鏡花が突然話題を差し込んできた。
「そうですわ、良い機会ですから、タバサさんが悩んでらっしゃるコラム欄のお話も、伺ってみればよろしいのでは?」
突然の方向転換についていけなかったのは立花と入江も同じで、
「コラム……?」
なんのことやらといった表情で顔を見合わせていた。
でも、とタバサが言いかけて、それを制するように鏡花が話を進めてしまう。
「そう。南方日報の社会面のコラムを今度タバサさんが執筆なさるそうなのですが、如何せんネタ不足だそうですの。ですからお二人からなにか良い知恵を拝借できればと考えましたの」
「記事のネタ、ですか……」
立花が、難しい顔、というより、もはや怖い顔で唸り始めた。
「その、コラム欄はどういった内容なんですか?」
何事か考えている上司はさておいて、入江が至極当然な疑問をタバサに投げかけた。
「簡単に言えば、大きな記事にするほどでもないことを拾い上げる、そう言ったものです」
自分で簡単と言いながら、その簡単が難しいとタバサは身にしみていたが、そう説明するのが妥当と感じていた。
「大きな記事にするほどでもないこと、ですか」
立花ほどの沈思黙考ではないが、入江もいくつか心当たりを考え始めていた。
「ちなみにそのコラム欄、ウチの本部長もよく読んでいるようですわ。星野さんによると、『名越さんは、新聞は一面とスポーツ面、といっても主に野球とラグビーの試合結果ですけれど、それとラテ欄以外は流し読みなのに、いつも社会面のコラムだけは欠かさず熱心に読んでいる』そうですわよ。よほど気に入っているのか、たまに気に入った話題があるとわたくしにもその記事を見せてきますの。大抵家畜に関するお話なのは気になりますが……。でもタバサさんが以前コラム欄を執筆していたこともご存じでしたわ。ずいぶん偉くなりやがって、ですって」
と鏡花は笑っていたが、そのことはタバサにとって余計にプレッシャーだった。
その話が入江にはなにかのヒントになったらしかった。
「あぁ、なら手前味噌かもしれませんが、あの話が丁度良いかもしれませんね」
ずっと考え込んでいた立花の体を入江が、「部長、部長」と突っついて、こちらに引き戻した。
「入江、どうした?」
「部長。この間の白花川橋梁百年の話はどうです?」
「…………記事にするほどのことじゃないだろう。もう少し真面目に考えろ」
「いや、だから、タバサさんが言ってたじゃないですか。大きな記事にするほどでもない出来事だって」
「まぁ、確かに世間的には大きなことではないが……」
そのやりとりを聞いていた鏡花は何事か思い出したようだった。
「そういえば先日の社内報に載ってましたわね。たしか明治時代に造られたものが当地に転用されて丁度百年。……先日の地震でも損傷しなかったんですわね」
「……ええ、おかげですぐにあの辺りは運転再開できたので、偉大なるご老公です。春になると桜並木に良く映えるんです。最近は防風柵が設置されたのでだいぶ人は減りましたが、水本方の半径の大きなカーブと合わせて昔から撮影の名所なんです」
我が意を得たりという表情で入江が語った。
「俺の指導係だった人がよく言っていたのは、昔はあの辺りでよく、」
「その話は止めましょう」
立花がなにか不穏な話を始めようとしたので入江が強制終了させたが、地域を支える裏方の、そのまた裏方の話はタバサの頭の中で有機的に繋がり始めていた。
「その話、もう少しお伺いしても?」
「まぁ、こんなところ、なのかな」
実際に掲載された記事を読んだタバサは、とりあえずノルマはクリアした、と一安心していた。
先日入江から聞いた橋梁百年の話は、タバサにとってはクモの糸にも等しかった。
その日のうちに、入江の熱いマニアトークや立花の聞かなかった方が良かった話などを聞き取り、データや参考資料を貰い、それらを蒸留してなんとか記事に仕上げた。
総じて話の内容は良かった。
だが記事にするまでの過程が、タバサにとってはプライドとの戦いだった。
(今回は偶然、トントン拍子に入江さんと立花さんの話が聞けたけど、必要なデータもほとんど提供してもらった。実質的には何もしていない。そして次も同じように進むとは思えないし、こんなやり方したくない)
結果、むしろ不満が残り不本意といった具合だった。
そして、リベンジの機会はすぐにやって来た。
「次も私、ですか」
「ああ。次に担当する予定のヤツがぶっ倒れたんだ。管理できていなかった俺の責任なんだが、次の異動で来るヤツと本社からの増援を早めてもらっても、そっちまで手が回らなそうなんだ。この間の記事も良かったし。頼む」
そうデスクに頼み込まれると、タバサも断るとは言えなかった。
「……なんとか、やってみます」
リベンジに燃えていた。
訳ではなかった。
(今度こそ、参ったな……)
普段からあまり表情変化が豊かではないタバサは、眉間に皺を寄せたまま、声を掛けることも憚られるほど、それはそれは怖い顔で水本支局から自らの『拠点』に引き揚げて行く途中、喫茶店「さくら」の前を通りがかり、ふと先日出会ったある人物のことを思い出した。
その人物は自分のことを開口一番『記者は怖い』と言いながらも、『南方日報の美人カメラマン』だとか言ったりと、下げたり上げたり忙しい人だった。
そういえば鏡花とは知り合いのようで、
(確か名前は、牛深だったはず……)
鞄の中の名刺入れを探るとすぐに出てきた。
『南海証券水本支店法人第二部 本渡あすか』
「……惜しい」
長年名越の小ボケの悪影響を受けていたタバサは、静かに、だが着実に蝕まれていた。
その名刺を見て本渡と鏡花の会話を思い出した。
「一応、礼儀として名刺をお渡ししましたが、呼ばれたら困ります」
「本渡さん」
「はい」
「名刺を渡すということは、連絡先を示すということですわ」
「……そういう解釈もできますね」
「できますわ。つまり、何かあったら連絡ください。そういう意思表示ですわ」
「ですよねぇ……」
なんとなく。
本当に気まぐれに近かった。
(鏡花もああ言ってたし、連絡してみるか)
「…………南方日報のタバサ・クライスタールと申します」
たまには寄り道したくなる。そんな気分だったのだ。
その日の本渡は、何かとツイていなかった。
未だ二年目の若手である本渡は、前日の一斉退勤時刻のギリギリまで担当顧客の分析や日報作成、自宅に帰ってからは夜遅くまで新規開拓に向けたいわゆる『巻物』作りに勤しんでいた結果、晴れて今朝は寝坊した。
気を抜いた自分を呪いながら、死ぬ気で走って何とか支店の幹部が出勤する前には到着したが、当然先輩からは鬼のように詰められた。
解放されてからは、すぐに客先訪問のローラー作戦に向かい、そして新規開拓の訪問先ではけんもほろろに断られて、既にライフはゼロに近かった。
そして悪いことは続くもので、知らない番号からの着信に脊髄反射で出ると、
「はい。南海証券、本渡です」
「南方日報のタバサ・クライスタールと申します。……以前お会いした、怖い記者です。今よろしいですか?」
(Oh……No……)
このタイミングで、予想だにしない人物からの電話だった。
「あぁ……、えぇ……」
思考が停止した。
理由は?目的は?
いくら考えても分からなかった。
もう、ヤケクソだった。
タバサが二の句を継ぐ前に、
「ええ。ええ。全然大丈夫ですよ。どちらに伺いましょうか?どこでも伺います!」
電話越しに伝わる本渡の勢いに圧倒されて、タバサは思わず喫茶店「さくら」の前にいると伝えると、
「五分で伺います!」
とだけ言うと電話は切れてしまった。
(えっ……。えぇ……)
話について行けずに困惑していると、五分と経たず本渡は全力で走ってきてタバサの目の前で急停止した。
その場で膝に手を突いて肩で息をしている本渡に、タバサはなにか言葉を掛けようにも事態が全く飲み込めず、あ、え、と口をパクパクさせていた。
「…………ぜぇ、はぁ、ぜぇ………………、ご希望は…………投資……信託……ですか?……それとも…………新発の……社債ですか?…………」
商魂たくましいのか、会社員の悲哀なのか、タバサには判断が付かなかったが、これだけは言えた。
「…………ごめん、取材、なんだ……」
その場で本渡は文字通り、崩れ落ちた。
未だ立ち直り切っていない本渡は、ふくれ面で黙々と『ペタサイズアイスフロート』と格闘していた。
その姿をタバサは若干引き気味で見つめていたが、とりあえず投資信託や新発社債を買わされずに済んで良かった、とぼんやり考えていた。
「それで、色々訳ありお姉さんが……、私みたいな町娘に……、何のご用ですか……」
『ペタサイズアイスフロート』を既に半分ほど攻略した本渡の、唐突なビーンボールに思わず仰け反った。
「……何のことかな?」
「……鏡花さんにタバサさんの事情は他言無用とキツく厳命されているので、……ご心配なさらずにどうぞ」
「……食べるかしゃべるか、どちらかにしたら?」
今更ながら頭痛に襲われたのかこめかみを抑えている本渡が、新聞記者以上の情報収集能力の片鱗を見せたことに戦慄したが、勘づかれないようにひとまず先日から気になっていたことを尋ねた。
「それでどうして、鏡花さんが出てくるの?この間会った時も知り合いのようだったし、貴女、何者?」
「……私の曾祖母が水本家に出入りしていたんです。……そのご縁で昔からの顔見知りです」
どうりで、と納得しつつも、なにか核心からは上手く逸らされた気がしたが、本渡が食べ終わる前に本題に入った。
「実は今、記事を任されているの。社会面のコラムなんだけど、大きな記事にするほどじゃない。でも、社会面に置く意味はある。できれば写真も撮れて、誰かを良い話にしすぎないもの。そんなものがあれば記事にしたい。そう考えてるの」
「……あぁ、その件ですか。華音が言ってましたよ、タバサさんの顔がいつも以上に怖いって」
痛いところを突かれて、タバサは思わず「うっ……」と声にしてしまった。
「で、あまりにも苦しそうだからなにか手伝えないかって、鏡花さんに聞いたら、『触らぬ神にたたり無し』って言われるし、名越さんは、『あいつは表情筋をおっ母さんの腹の中に忘れて来たんだから、しょうがない』って言ってるしで、困ってましたよ」
言い方に遠慮はなかったが、悪意もなかった。
「私が取り扱っているのは、金融商品です。……と言いたいところですが、親友が恐怖におののく姿は放っておけませんね」
そう言うと、スプーンを弄びながらしばらく考える素振りを見せ、
「……ベイローレルさんの話では駄目なんですか?今なら、いくらでもありそうですけど」
なるほどそう来たか、とタバサは思ったが、すぐには答えられなかった。
名越の姿、鏡花の顔、星野の気遣い。
そして三階大部屋の、自分の『拠点』。
「……それは、今は……違う」
本渡の提案は、しっくりこなかった。
「なるほど。やっぱり色々訳ありお姉さんですね」
「その呼び方、やめて」
「では、訳あり記者さん」
「……ちょっと水本部長に電話するから、席を外しても?」
「ホントに、勘弁してくださいぃ……」
本渡はストローで『ペタサイズアイスフロート』の氷を押し沈めながら、ふと窓の外へ目をやった。
「……あ、まだいる」
「何が?」
「猫です。あそこの軒下」
タバサも視線を向けた。
喫茶店さくらの入口脇、鉢植えの陰に、痩せた白地に黒ブチの猫が座っていた。
客が出入りしても動かない。
店に入るわけでも、さりとて逃げるわけでもない。
ただ、そこにいた。
「この店の猫?」
「違います。誰の猫でもないです。……たぶん」
「たぶん?」
「でも、誰も知らない猫ではないんです」
本渡は、少しだけ声を落とした。
「この辺りでは、もう二十年近く見かけるって聞きます。だからおそらく、今年で二十歳くらいだとか」
「二十歳、ねぇ……」
本当かどうか分からないが、野良にしては随分と長生きだ。
飼い猫でもそうそういない長寿猫、なんとなく興味が湧いてきた。
「看板猫とか化け猫とか呼ぶ人もいますけど、本人、この場合は本猫なのかな?……とにかく店の中には入らないんです。店の人も、飼ってるとは言わない。でも、寒い日は段ボールの猫つぐらが出て、暑い日は水が出ます。調子が悪ければ動物病院にも連れて行くみたいですよ?」
本渡はそこで、少し笑った。
「誰のものでもないけれど、誰も放ってはおけない。水本駅の辺りって、そういうものが案外残ってるんです」
「ふぅん…………」
周囲と絶妙な関係性を築いている長寿猫。
興味は湧いた。
本渡からヒントを得たお陰で、なんとなくだが書けそうな気はしている。
だが、何かが引っかかっていた。
その引っかかりが解消されないまま、六月末を迎えた。
もうすぐ原稿の締め切りだが、小骨が喉に引っかかったような違和感が、写真の撮影と下書きまで進めた段階から先に進めることを躊躇わせていた。
「いい加減にしてくださいまし!」
そして、今日こそは、と言うときに限って邪魔が入るものらしかった。
確かに朝から何やら、三階大部屋は騒がしかった。
ここ三日ほどは、ベイローレルの人事異動に伴い物の移動や名越の抵抗などすったもんだはあったが、さすがに鏡花が怒り出すほどの騒ぎではなかった。
立ち上がって仕切り越しに声のした方を見ると、また名越がやらかしたようで鏡花がまさに怒髪天を衝くという風に、名越に迫っていた。
巻き込まれないように遠巻きに見ていた星野に、何事かと尋ねると、
「本部長が、『社長になるのは致し方ないが、あの部屋には行きたくない』って言い出したんです」と上を指差した。
その指につられて上を見た先にあるのは、
「……社長室だっけ?」
「はい。水本部長が本部長に移動前の最終確認をお願いしたら、あんな感じになりました」
星野の目線の先では、あんな感じの人が、今度は総務部三課長に説得されていた。
「……あれはダメだね。動かないよ」
「……ダメなんですか」
「うん」
タバサの即答に、星野の名越を見る目は、非常にかわいそうなものを見る目つきになっていた。
そうしてしばらく総務部三課長に説得される名越を星野と二人で眺めていると、
「……あらあら、随分と呑気そうで良いですわね。星野さん、それにタバサさんも」
いつの間にか視界から消えていた鏡花が、二人の背後を取っていた。
「………………!」
声にならない驚きと同時に、二人は三白眼の鏡花から非常に不穏なものを感じ取った。
「タバサさん。ひとつお願いがありますの。是非お聞き入れ願いたいのですけれど」
「……ごめん、これから取材なんだ。急がないと、本当に」
だが静かに鏡花の左手がタバサの肩に添えられると、
「残念ですがその取材は諦めてくださいな。……わたくしは今、YESかはい以外のお返事は聞きたくありませんの」
蛇に睨まれた蛙のように固まるしかなかった。
「星野さん、貴女もよろしいかしら?」
鏡花の右手が星野の肩に添えられると、もはや抵抗は無駄だった。
水本総司令官の突撃命令を受けた決死隊(タバサ+星野)は、未だ頑強に抵抗を続ける敵軍(名越)を武装解除して連行(引っ越し)すべく、ついに接触を図った。
しかしながら敵軍(名越)の抵抗すさまじく、一時は撤退寸前(心が折れそうになる)まで追い詰められたが、タバサ隊長の放った一撃(詳細は伏せる)が見事急所へ入り、ついには降伏せしめることに成功した。
平たく言えば、恥ずかしい過去の出来事を持ち出されて、降伏したのだった。
「わしを何やと思うとる……」
半べそになりながら段ボールを抱えて社長室へ向かう名越は、タバサに護送されながら敗者の弁を述べていた。
星野は先に残りの荷物やらを社長室に移動するために動いていたので、二人だった。
「名越さんが悪い」
「……だからって、アレは反則だろう……」
「……名越さんが悪い」
「うっさいボケ!」
「……なら、社長になんてならなければいいのに」
「……うっさいボケ……」
瀕死状態の名越とは対照的に、タバサはなんだかいつも通りの風景過ぎて、じわじわと笑いがこみ上げてきていた。
(…………これは、書けないな)
これまでずっと感じていた違和感は、小さな笑いと共にどこかへ去ってしまった。
名越の護送から戻ったタバサの目に映ったのは、記事の下書き画面、そして白地に黒ブチの長寿猫。
その日のうちに、タバサは長寿猫の記事を一から書き直した。
かわいい、という言葉は消した。
健気、という言葉を消した。
街に愛されている、という言葉も消した。
そう書いてしまうと、何かが少し違う気がした。
誰の猫でもない。
でも、誰も知らない猫ではない。
寒い日には段ボールの猫つぐらが出る。
暑い日には水が置かれる。
調子が悪ければ、誰かが動物病院へ連れていく。
それでも店の人は、飼っているとは言わない。
それで十分だった。
良い話にしなくても、書ける話はある。
そう分かっただけで、少しだけ指先が軽くなった。
画面の中では、白地に黒ブチの猫が、店の入口脇に座っていた。
タバサは最後まで使うか、使うまいか迷っていた「良かった」という言葉を、結局使わなかった。
そして七月一日も、既に夜を迎えていた。
フラフラやって来た名越は、いつものように机の横の丸いゴミ箱に腰を掛けると、それを支点に体を前後左右にユラユラ揺らし、タバサは相変わらずラップトップPCから目を上げなかった。
(この人は何を考えているんだろう……)
ふと口をついた質問は、名越には唐突に聞こえたかもしれなかった。
「本当に、これで良かったの?」
「……………………………………良かぁ、ないわな……」
しばらく、ぼーっと虚空に視線を彷徨わせていた名越から返ってきた答えは、それだけだった。
「……そう」
タバサも、何か答えがあるとは思っていなかった。
「反省すれども、後悔せず。……やせ我慢しないと色々と立たんのよ」
「……そう」
視線の交わらない二人の、まとまりのない会話は、いつまでも途切れ途切れのままだった。




