第四話 ひとひらの重み 後編・下
六月末。
鏡花は机上の書類と向き合っていた。
一つは、人事課長より提出された七月一日に発令される辞令。
もう一つは、総務課長から提出された七月一日発効の役員名簿。
もはや覆ることのない二つの書類の中身を事務的に確認していると、感慨とは違うなんとも言えない複雑な思いを抱いていた。
(わたくしが役員、ね。なんだか、子供の頃に思ってた大人からどんどん離れて行くわね……)
そして確認が終わる頃には、それは、別の感覚へ変わっていった。
(わたくしの夢って何だったのかしら……)
多忙な日々に突如現れたエアポケットのようなそれは、鏡花の意識を思考の沼へ陥らせかけた。
だがそんな時間は長く続かず、他の仕事によってすぐに現実に引き戻された。
鏡花から回送された七月一日発効の辞令と役員名簿を、名越は四階社長室の応接セットの上に広げていた。
(いんや、しかし。いよいよ揃っちまったなぁ……)
書類を前に、そんなことを考えながら名越は黙々と辞令に捺印してゆく。
(……はい、あなたはOK。……君もがんばってね、っと。……あらぁ、あんたこっちに異動か。まぁ頑張れや、っと)
幾人か見知った社員も含まれているが、名越に出来るのは、決定事項を覆すことではなく、朱肉と辞令書の間で手を動かすことだけだった。
本社系の人事異動と違って運輸系の現場の人事異動は、ダイヤ改正の時期に当たる春は避けられて行われる。よって、夏前のこのタイミングが人事の季節だ。
そのため目を通すことになる辞令の数は、春と同じかそれ以上の枚数になる。
(今後はハンコ押しも誰かにお任せしないとっ、と。さすがに多いからな……)
そんな事を考えながらの辞令書への捺印は、やがて今回は少ない本社系社員に差し掛かった。
(で、これが鏡花さんの言ってた隠し球、ってヤツですかい)
一枚の辞令を前にして、名越の手が止まった。
(まぁ確かに、前二年間の人事評定は良好、年次的にも、これまでの業務内容的にもおかしくはない。本人評価が少し低いのは、まぁ性格だわね。……しっかしなぁ)
発令対象者の名前と内容を見て、名越の顔は半分苦笑いのような、半分悪いことを一緒に考えているような顔になった。
(本当にやるとは、鏡花さんも人が悪いねぇ……)
七月一日はあっけなくやって来た。
変わったことと言えば、名越がイヤイヤながら社長室に引っ越しさせられたことくらい。
鏡花に説教され、総務部三課長に説得され、星野に手伝ってもらい、最終的にタバサに付き添われて社長室へ引っ越しするまで、足かけ三日の大立ち回りだった。
三階大部屋は、前日までの荷物や什器の移動での阿鼻叫喚はどこへやら。
打って変わって、比較的穏やかな月初の朝だった。
出勤してきた鏡花は、何かが変わるのではと身構えていたが、自分の席に着いても何かが変わった実感はなく、肩透かしを食らった気分だった。
左側の人がいなくなり、少し、いや……大分穏やかになった。その程度だった。
(初日はこんなもの、ですわね)
そう思いながら、星野に声を掛けて、四階社長室に向かった。
代表取締役社長・名越一馬の初日は、応接セットから始まった。
(ついにこの日が来ちまったなぁ……)
名越の体調はすこぶる悪かった。
元々プレッシャーに弱いのもあるが、自身でもここまで大分ムリを押し通してきた自覚があるからこそ、逃げられない重圧が辛かった。
(あぁ、帰りたい………………)
そうして応接セットの前でしばらく座して固まって何事か考えていたが、ドアをノックする音でふと我に返った。
「……どうぞー」
どこか間の抜けた返事をすると、ドアを開けて鏡花と星野が社長室に入ってきた。
そして名越が応接セットに座っていることに何かを察した鏡花は、開口一番。
「……名越『社長』?そちらは社長の席ではありませんわ」
妙に圧の高い声で、社長の席に座るよう促したが、名越は「いや、しかし」とこの期に及んでも渋っていた。
「あの椅子はケツの据わりが……」
「椅子も人も、使わなければ育ちませんわ!」
そう鏡花に一喝されて、ようやっと名越は諦めたように社長席に腰掛けた。
(イヤイヤ期だ……)
星野はなんだかかわいそうな物を見るような目で『社長』を見ながら、そう思った。
「それで、こちらが本日付の役員名簿と、人事異動一覧ですわ」
対面から差し出された書類はこの数週間で見慣れたものだった。
「今日から私は、何の因果か社長ですか……。鏡花さんは取締役総務部長。そして……」
「もちろん長屋さんの名前もありますわ。……社長がお決めになったことですから」
「……そう、ですね……」
名越はそれ以上何も言えなかった。
「それと社長、辞令のお話をしたいのですが」
突然の鏡花の言葉に、名越は急に何の話かと思ったが『例の辞令』のことと気づくと、先程までとは打って変わって、おもむろに何か企んでいるような顔になった。
「……はいはい。ええ、ええ。そうでした、そうでした。調子が悪すぎてすっかり忘れてましたよ。早く言ってくださいな。取締役総務部長の水本鏡花さん」
(この人は……。情緒不安定なのかしら……)
内心思っていることが表に出てしまって、鏡花は若干引きつった笑顔になるが、
「良い話は取っておくタイプですの。さ、早くその辞令書を渡して差し上げてくださいな」
(……え?)
その一言で星野は先程からの不穏な会話が、名越と鏡花以外、つまり自身に向けられているものだと察した。
「いやぁ。私は貴女のような優秀な社員を部下に持つことが出来て、実に幸せですよ。ねぇ、水本部長?」
「ええそうですわね、名越社長。わたくしも着任以来星野さんには助けられてばかりですもの。ですからこのくらいは当然かと」
ものすごくわざとらしい会話で星野は、既に退路は封じられている、そう直感した。
「あのぉ、何のことだか私にはさっぱり……。心当たりがないので、人違いではないでしょうか……?」
そういう星野の目は露骨に泳いでいた。
「いんや。星野さん、貴女ですよ」
「いえ。星野さん、貴女ですわ」
ここまで綺麗に揃うものかというくらい、タイミングが合っていた。
(……………………やられた……)
星野の顔からサッと、血の気が引いた。
「では、さっさと任命しましょうか。……総務部総務課所属、星野華音」
「……はい」
返事は、蚊の鳴くような声だった。
「本日付で、総務部付主任を命ずる。……頑張ってください」
その直感的に分かりづらい職名に、星野は戸惑いを隠せなかった。
「あの、具体的な仕事内容が分からないのですが……」
「要は、社長秘書ってヤツですよ。前も長屋さんに付いていたから、何となく分かりますよね。それにやってもらうことは、今とさして変わりません」
辞令を受け取った星野は、今にも辞世の句でも詠もうかというほどの悲壮感が漂っていた。
「……あ、でも。総務部長の補助業務もあるから、変わるか」
「え……」
星野は絶句した。
「総務部長補佐ではなくて、総務部長の補助ですから、安心してくださいな」
鏡花のそのよくわからないフォローがトドメだった。
(さようなら。私の平和な人生……)
笑顔の名越と鏡花に、もの申す気力すら星野には残されていなかった。
七月一日も既に夜を迎えて、三階大部屋に残っているのは僅かな社員と、猛スピードで引き継ぎ資料を作成している星野、職責は重くなったが補助として『星野を確保』できて幾分心の余裕ができた鏡花、そしていつも通り『拠点』で資料整理と記事の作成に勤しむタバサ位のものだった。
そんな中を真っ直ぐに拠点に向かう人の姿があった。
それに気づいた鏡花は横目で見て、いつものこと、と実につまらなそうに視線を戻した。
「どうも」
言いながら、いつも通り、名越はタバサの机の横にある丸いゴミ箱に腰を掛けた。
(言うだけ無駄か……)
それについてはもはやなにも言うことはなく、タバサはラップトップPCから視線を外すこともなく、
「どうも」
とだけ、ぶっきらぼうに答えた。
「何か用?」
「いや、別に」
「あ、そう」
会話にもならない会話はすぐに途切れるが、いつものことだった。
「なんだか疲れたねぇ……」
「寄りかかれるものがないから?」
「……随分辛辣だな。最近はあんまりなにもしてないだろ?」
「昨日」
「……申し訳ないとは思ってる」
そこでまた会話は途切れた。
名越は座っているゴミ箱を支点に体を前後左右にユラユラ揺らし、タバサは相変わらずラップトップPCから目を上げなかった。
だからその質問が名越には唐突に思えた。
「本当に、これで良かったの?」
「……………………………………良かぁ、ないわな……」
ぼーっと虚空に視線を彷徨わせて行き着いた答えは、それしかなかった。
「……そう」
タバサも、何か答えがあるとは思っていなかった。
「反省すれども、後悔せず。……やせ我慢しないと色々と立たんのよ」
「……そう」
視線の交わらない二人の、まとまりのない会話は、いつまでも途切れ途切れのままだった。




