第四話 ひとひらの重み 後編・上
二十時過ぎの三階大部屋。
残っているのは、数名の社員と名越、鏡花、そして会社の制度の外にいる人、いわば制外の人であるタバサ。
その中で星野は一人、昼間の会議の決定事項をまとめていた。
『株主総会議案の第三号、取締役選任の件を差し替える。変更点は、次の通り。
・代表取締役社長候補として、取締役事業統括本部長:名越一馬氏を指名する。
・代表取締役社長:長屋浩氏は今次株主総会を以て退任する。
・ただし同総会にて別途、取締役相談役として選任する議案を諮る。
・予定する待遇は次の通り。非常勤。無給。代表権は無し。日常的な会社運営に関する決裁権並びに対外的な署名などには関わらないものとする。
・任期は概ね三年を上限として、退任時期については別途審議する。
なお、次の点に変更は無い。
・取締役候補として、水本鏡花氏を指名。
・水本鏡花氏の取締役としての職務は、会社としての判断の記録と差し戻し。総務部長としての職務に変更無し。』
そこまで文字にして、星野は昼間の会議で聞いた言葉たちを思い出していた。
確かに会社は前に進んだはず。
だが、文字に起こしていない、否、起こすことのない小さな一言が、星野にはどうしても重く感じられた。
(約束、か……)
キーボードを叩く手を止めることなく、思い出す。
(迷いがあるなら、止めればいいのに。……なんて考えるのは、さすがに簡単に考えすぎかな)
誰も何も声を発しない三階大部屋。
ちょっとした物音やささやかな作業音のみが聞こえる空間に、誰かが帰り支度を始める音が混じり始めた。
時計を見ると、もう二十時半を過ぎていた。
(このくらいにして、遅くなり過ぎる前に帰らなきゃ……)
意識が帰宅に向いた途端に、学生時代の歴史の授業で出てきた言葉を思い出した。
『帰ろう。帰ればまた来られるからな』
星野が帰り支度をしているときによく思い出す言葉だったが、こと今日だけは、一瞬だけ別の意味に思えた。
(……奇跡を信じることも、機をうかがって待つこともできなかったら、進むしかない、のかな)
星野が作った議事録案は、立花、高藤、小早川の手により急ピッチで資料へと磨き上げられていった。
「星野さん、この『取締役相談役として選任』という文言だけだと、現場は長屋社長が残った、と読みます。だから、その横に必ず権限なしを並べてください。現場が見る紙では、離さない方がいい。離すと、長屋社長の名でまだ動ける、と都合よく読まれます」
立花は、現場向けの説明文書に赤を入れた。
「『待遇』という言い回しは少し曖昧です。報酬、勤務形態、権限の有無に分けましょう。報酬は無給。勤務形態は非常勤。権限は代表権なし、日常決裁なし、対外署名なし。ひとまとめにすると、あとで読み手によって解釈が割れます」
高藤は、議事録案の「待遇」という語の意味に線引きをした。
「主要株主向けの資料には、長屋社長を残したい理由は載せません。載せるのは、残してよい理由です。無給、非常勤、代表権なし、三年を上限とする。この四つがあるから通せるんです。外部向けは、そこからさらに薄くします」
小早川は、主要株主向け資料の表紙を軽く叩いた。
立花、高藤、小早川と、矢継ぎ早に修正が入ると、さすがに星野一人では重いため、直属の上司である総務課長に相談しながら、修正内容をどう資料として入れ込めば良いのか試行錯誤すること数日。
苦労の末、ひとまず一連の資料は形になった。
議事録案。現場向けの説明文書。主要株主への説明用資料。
同じ会議から生まれたはずの紙は、その行き着く相手ごとに、まるで別物のような姿になっていた。
あとは総務部長であり、この資料の当事者でもある鏡花に確認するのみだった。
「水本部長。株主説明用の資料をご確認いただけますか」
だが資料を受け取った鏡花の表情は、困った末の笑顔に緊張が混じったような複雑なものだった。
「わたくしは選任される側ですから、資料本文の修正には深入りできませんわ」
「ですが、部長の職務のところは……」
「そこと、あとは大枠の文意の確認はいたしますわ」
それだけ言うと、鏡花は書類に目を通し始め、星野は一旦席に戻った。
「……『会社としての判断の記録と差し戻し』ですか。この表記なら、会議の趣旨から外れてはいませんわね」
それからしばらく、鏡花は慎重に書類に目を通していた。
そして小一時間ほど経った頃、星野は鏡花に呼ばれた。
「資料としての筋は通っていますわ。けれど、わたくしに関する文言に、わたくし自身が触るべきではありませんわね。もし他に修正を加える際には、わたくしが社長補佐のように読める表現だけは避けてくださいまし。……あとは、皆さまにお任せするしかありませんわ」
その声にはどこか、もどかしさが滲んでいた。
星野はその手に戻ってきた資料に目を落とした。
鏡花はただ目を通しただけで、修正の手は入っていなかった。
恐らくは、手を加えたかったのかもしれない。
だが、鏡花自身がそれを許さなかったのだろう。
(進むしかない、のかな……)
「俺が?」
思わず立花は口に出してしまった。
俺が行く話じゃないだろう?
水本家の株主総会における立場への説明に同行してほしいと、名越から依頼された立花は素直にそう感じた。
自分の出る幕じゃないと思って断ろうと思ったが、
「少なくとも、私がこの間『寝ぼけたことを言って』役員をやってもらおうと思うくらいには、立花さんは重みが違うんです」
と、名越は食い下がる。
だが、話がいまいち飲み込めなかった。
「それに長屋さんの名前を会社に残す以上、長屋さんから現場を任されてきた人として、説明の場から逃れられないんです。私も、立花さんも。そしてこれからも、現場を預かるのは立花さんなんです。ですから、お願いします」
そう言って頭を下げられては、同席せざるを得なかった。
梅雨のそぼ降る雨の中。
その日の水本家への訪問は、株主総会での会社案への賛成依頼ではなかった。
株主は原則として平等に扱われる。
当然、株主総会に出す資料は、他の株主に示すものと同じだった。
ただ、その資料に水本鏡花の名がある以上、同じ紙でも、水本家だけは別の傷を負う。
水本邸。正面玄関横の応接室。
名越と立花と相対した水本氏は、前回の訪問時とは違った雰囲気を纏っていた。
名越が差し出した資料を、水本氏はすぐには開かなかった。
目次の議案を見て、それから一枚目をめくった。
代表取締役社長の変更。
取締役総務部長候補。
取締役相談役候補。
そこには、長屋の名前と、名越の名前、そして鏡花の名前もあった。
水本氏は、鏡花の名前で手を止めなかった。
長屋の欄まで読み、そこからもう一度、冒頭へ戻ったところで、口を開いた。
「名越さん。私だけ別の議案をいただく、そういう訳ではありませんね?」
「株主総会に出す議案は、他の株主の皆さまへお示しするものと同じです。今日お伺いしたのは、特別な依頼ではありません。水本家の名がどう見られるか、その説明は直接させていただかなくてはと思い、伺いました」
「随分とウチに肩入れして頂いているようですね」
「……水本さんがウチに肩入れしているように見える。その危機管理の一環、と言ったところです」
「では今日ここで聞くのは、私に総会屋の真似事をしろ、という話ではないと」
「勿論です。あくまで議決は株主の皆さんの自由意志に依るものです」
水本氏が感じた疑念を消し去ろうとするように、名越は少し大げさな手振りで否定した。
「……水本家の名がどう見られるか、というお話でしたね」
「ええ。お示しする議案は皆さん同じでも、水本さんだけは別の形で傷を負う、そう考えております」
その言葉を聞いた水本氏の目が、すうっと細められた。
「傷、ですか……」
「はい。議案には娘さん、いえ、水本鏡花さんの名前が挙がっています。外からは水本家がベイローレルに必要以上に助力している、ないしは水本家の名前を会社が借りた。そのように見える可能性があります」
「だからせめて筋は通す、と?」
「はい」
「議案は同じ。だが説明する理由だけは違う、といったところですか……」
「そう考えて頂いて差し支えありません」
「……分かりました。ではあくまで、株主総会の議案として話を伺います」
ひとまず訪問理由に納得した水本氏は、この場に二人を案内したときから感じていた疑問を口にした。
「つかぬ事を伺いますが、立花さんは取締役でも無ければ、今回の候補者でもありませんね」
「はい」
「失礼ですが、なぜ今回名越さんとご一緒に?」
「私にも、分かりません」
いつもの鋭い眼光、朴訥とした話しぶりでそんなことを言ったものだから、名越は立花の横で固まるしかなかった。
「ですが、弊社の長屋の名前を役員名簿に残す話と聞いております。その長屋から現場を任されてきた者として、知らないふりはできないと考えています」
「自分のこととして、知らないふりをしないためにいらした、と」
水本氏は薄々、勘づいていた。このいかにも油断ならない風貌の人物の意図に。
「はい。名越さんの説明を保証しに来たわけではありません」
「つまり……」
「長屋の名前が、都合よく使われないかを見届けに来ました」
「長屋については、今回の株主総会にて代表取締役社長から退任とします。ただし、別途取締役相談役として選任する議案を提出します」
高藤が削った曖昧な語、小早川が薄くした説明、立花が離すなと言った権限の行。
全てが整って、紙の上にあった。
「完全に外すわけではないのですね」
「はい。ただし、非常勤、無給、代表権なし。日常決裁および対外署名には関与しません。任期は三年を上限として、退任時期を別途審議します」
「三年、ですか」
「ええ」
「……その三年は、誰のための、何のための数字ですか?」
名越は、少しだけ答えに窮した。
「……会社のため、ですね。何のためと言われますと、どこかで限界が来るでしょうから、そのための線引きとして、ですね。……私からはそう説明することしかできません」
「そう説明するしかない数字、ですか」
「……はい」
「立花さんは、この案をどう見ていますか」
「全面的に賛成、と言えるほど軽い話ではありません」
「では、どちらかと言えば反対ですか」
「いえ。条件つきの賛成です」
「条件」
「ええ。長屋の名前で現場を動かさないことです」
「長屋さんの名前で動かす……」
「残念ながら便利なんです。『長屋さんならこうした』という発想は」
名越はその言葉を聞いていることしかできなかった。
「現場は、長屋の名前を見ると、まだどこかで判断してくれているんじゃないかと思います。言うなれば『甘え』です。だから、名簿に残すなら、残した名前で動かしてはいけない」
「では、誰の責任で動くのですか」
「名越社長の責任です」
それを聞いた名越は、五臓六腑が締め付けられるように感じた。
だが、逃げるわけにはいかなかった。
「……社長としての責任で、動かします。ええ、私の責任です」
自分に言い聞かせるような一言を、何とか絞り出した。
「そう仰るかどうかを、私は見に来ました」
水本氏の前であえて『名越社長』と呼んだ甲斐はあった。立花はそう思っていた。
「名越さん。長屋さんの名前を残したい理由は、別にあるのでしょう」
名越は、この時間は永遠に続くのでは、と錯覚し始めていた。
だが説明をしに来たのだから、質問には答えなければならなかった。
「……ええ、あります」
「それは、この資料には載っていないのですね」
「そうですね。載せていません」
「では、この文言は何物なんですか?」
「……『残してよい理由』です。条件は先ほど申し上げた通りです。その範囲なら、外へ説明できる。そう判断しました」
「すると、『残したい理由』は、外へ説明できないものなのですね」
「……できません」
「載せない方がよいからですか。それとも、載せられないからですか?」
「……両方、とだけ」
目を見て話しているが、歯切れの悪い言葉を並べるしかない。
それが今の名越には精一杯だった。
「……鏡花は取締役候補でしたね」
「はい」
事前に話は聞いていたが、やはり水本氏には未だ実感が伴わないことだった。
「社長の補佐、ではありませんね」
「違います」
「では、もちろん長屋さんの代わりでもない」
「それも違います」
「水本家から貸し出した名前でもない」
「違います。あくまで会社が必要とした人材です」
名越は、水本氏から立て続けに繰り出される疑念を、明確に否定した。
「会社が必要とした人材、ですか」
「水本鏡花さんがいなければ、会社として残せない判断があります。誰が決めたのか。どこで差し戻したのか。何を会社の判断として扱うのか。そこを曖昧にしないための人です」
あまり納得が行っていないのか、水本氏は少し思案しているようだった。
「名越さん。娘にそれを背負わせる理由を、もう少し伺ってもよろしいですか」
だがその質問に答えたのは立花だった。
「水本さん。それ以上は、名越が一人で明快な答えを出せる話ではないと思います」
その一言は、これ以上の口八丁は許さない、と言う意味に名越は感じた。
水本氏も、これ以上はただの娘の心配をしているだけになると思ったのか、切り口を変えた。
「……では立花さんは、どう見ていますか」
「困ります」
立花は考える素振りを見せて、言い切った。
「必要ではない、と」
「いえ。困るから、必要なんです」
その言葉の意味を水本氏は測りかねていたが、
「痛いところを、痛いと言う前に手当てする人ですから」
と立花が補足すると、言わんとすることは理解したようだった。
「長屋さんの代わりとして、ですか?」
「違います」
即答だった。
「長屋の代わりなら、要りません。あの人の代わりを作ったら、また同じところへ戻るだけです」
低い声での重たいその発言には、さすがの水本氏も返す言葉が見つからなかった。
そして名越も、自らが発した説明に重しを付けられたようだった。
立花の言葉を咀嚼するように、水本氏はしばらく資料を見ていた。
「議案としては、承知しました」
「ありがとうございます」
名越は一安心しかけて、慌てて取り繕った。
「礼を言われることではありません。会社側が説明として必要と考えたならば、株主として都度判断します。娘の選択とは、別です。家の判断とは考えないでください」
「申し上げにくいことですが、……同じに見られるとは思います」
「見られるでしょうね。ですから、扱いで示してください」
「……承知しました」
(扱い、か……)
水本邸を辞去した名越は、受け入れられたわけではないと分かっていた。
それでも、その感触を確かめるように、立花に尋ねた。
「何とか、理解してもらえたんでしょうか」
だがその答えは立花らしく飾り気のないものだった。
「頭では理解してもらえたと思います」
感情の読めない表情で、立花は水本氏の心中を慮っていた。
「ただ、心となると別でしょう」
梅雨時の帰りの道、その言葉の重さが足跡と共に残っていた。
名越と立花を送り出した水本氏は玄関を閉めると、そのままドアを背にしてもたれかかった。
(どうか全ての不幸から、あの娘が守られますように)
それは水本氏としてではなく、水本鏡花の父としての隠しきれない愛情、そして切なる願いだった。




