第四話 ひとひらの重み 中編・下
平年並みならそろそろ梅雨入りする時期。
雨の日や曇りの日が多く、パッとしない天気が続いていた。
名越は立花から現場の状況報告で、
『出水期に差し掛かるので、ある程度の作業遅延は工程表では織り込み済みだが、それでも遅延が目立ってきている』
とか、
『復旧工事事務所から予算の再検討を要望する声が出ている』
などと聞く度に、パッとしない表情になっていた。
必要なものは目を通して決裁をするが、胸中は鈍色だった。
「頑張っているのに、上手くいかないですね」
「頑張っているからこの程度で済んでいる、と思うしかないですよ」
そんなやり取りが名越と立花の間で定番になりつつあった、ある日。
その日は今にも雨が降り出しそうな天気だった。
歴史を感じさせる邸宅を訪れた名越が通されたのは、応接室ではなく、その家の主の居室だった。
四角い鉄筋コンクリート造の建物の二階に位置する、そこだけ丸く切り取られたような部屋。
第一印象は、『上品』だった。
(四角い躯体を丸く使い、木材の内装で温かみと上品さを演出する。曇りの日でも光を取り入れやすいよう二面の窓は工夫して配置してある。これが本当の贅沢ってヤツってところかね……)
本題を忘れて場に呑まれ、何か美術品を見ているような気分になっていた。
「名越さん」
呼びかけられて、ようやく自分が水本家を訪問していることを思い出した。
「……失礼しました。見事な意匠なもので、つい」
「文化財級に古いだけで、住み心地は町場のお宅にも劣りますよ」
名越の感心ぶりに、さしもの鏡花の父も、苦笑していた。
「ご謙遜なさらなくても。この建物に比べれば、私の住んでるマンションなんぞ、ただの箱と言っても差し支えないくらいです。……いやしかし、大理石のマントルピースを美術館以外で見たのは初めてです」
「タバサさんのご実家にもあるそうですわよ?」
「……アレは少し、アレなんですよ」
「でしたらアレですので、アレの話をしていただければなりませんわね」
そんな社会科見学状態の名越を、鏡花はもはやいつものこととばかりに、慣れた調子で引き戻した。
「……重ねて失礼しました。今日は休日にも関わらずお時間いただき、申し訳ありません。何分時間があまりないものですので」
「いえ。娘の話となれば話は別です」
そうキッパリと言い切った鏡花の父に若干の違和感を覚えつつも、本題を切り出した。
「本日お伺いしたのは、株主総会の議案そのものの説明ではありません。娘さんである水本鏡花さんを、当社の取締役候補として指名したくお話に上がりました」
鏡花の父、すなわち水本氏は、その言葉を聞いて、安心したような、心配が増えたような複雑な表情をしていた。
「…………娘が同席しているということは、当然娘にはお話しされたのでしょう?」
「ええ。ご本人には了承はいただいています」
「……了承はしましたが、同意したわけではありませんわ」
「そうだろうな」
水本氏の淡々とした声は、さざ波のように円形の部屋に広がった。
「名越さん。鏡花の父親としてではなく、ルピナス重工の支店長として見ると、『水本家という刺さるところには深々と刺さる名前を使うために、若い娘を傀儡として立てた』、そう見えますな。もしくは、水本家がベイローレルに肩入れした、そう見えるでしょうな。そして娘が既に在籍していることを知れば、ただの肩入れではない、余人はそう考えるでしょう」
「そう見えてしまうのは致し方ないことだとは思いますが、水本家の名前をお借りする話ではありません。鏡花さんに既に担っていただいている責任を、管理職とはいえ社員の判断としてではなく、役員の、会社の判断として残すために、取締役候補として指名したいのです」
「……名越さんは娘を、『水本』ではなく、『鏡花』として必要としていただいている。そう理解しているつもりです。しかし、いくらあなたが水本家の名が目当てではないとおっしゃっても、外はそうは見てくれませんよ」
「……ええ、覚悟はしています」
「なら、どう説明するのです」
「『水本』の名で、家として保証していただくのではなく、鏡花さん本人が止めたもの、差し戻したもの、通したものを、会社の判断として記録し、積み上げてゆくため。そこにベイローレルの『水本鏡花』としての名が必要。そう説明します」
名越は、そこまでを淀みなく言い切った。
「では、なぜ私に説明に来たのです」
だが水本氏の静かな問いの前には、為す術がなかった。
「水本家の名を借りる話ではない。娘本人を必要としている、そして本人は了承している。そうおっしゃるなら、本来、私への説明は要らないはずです」
「……法的には、そうです」
名越は、逃げ道のない答えを選ぶしかなかった。
「……本人が了承し、その影響も承知しているのであれば、大人が選んだ道です。そこは、私が止める話ではありません。ですからこれから先は条件の話です」
「……はい」
水本氏の声は、どこまでも、静かだった。
「名越さんのおっしゃったとおり、水本家としては、娘の判断に対してなんら保証をすることはありません。若かろうが、一人の人間として会社を背負うなら当たり前のことです」
その言葉は名越だけではなく、鏡花にも向けられていた。
「はい」
「承知しておりますわ」
「鏡花。保証しないということは、誤解もお前が背負うということだ」
その顔は父ではなく、一人の社会人だった。
「それでも……、わたくしの名前で説明いたします」
「……なら、反対はしない。だが、水本家のお墨付きだと思われた瞬間、その説明は失敗だ」
水本氏は社会人としての顔を通しきった。
ただその裏には、娘の決断を手放しで応援できない父親の苦しさが隠れていた。
(……あぁ、帰りたい……)
初めての訪問から一週間足らず。
特急列車とは思えないのんびりとした速度と、本線を名乗っているとは思えないほど左右に揺れる軌道に、自社がだいぶ恵まれた環境なのだと改めて感じながら、ようやく着いた駅。
(これが恵まれた環境を作った人間に対する仕打ちなのかねぇ……)
そんな事を考えながら、名越は再び曇天のホームに降り立った。
少ない乗客の内、数えるほどの乗客が名越と同じように降りてゆき、改札口に吸い込まれ、駅舎の前の急な階段を降りて、迎えに来ていた家族の車で足早に去って行くが、他の乗客とは違い、名越は徒歩だった。
遠くからは、乗ってきた列車が、先日とは違い少し軽やかに、気動車特有の重低音だけを残して終点に向けて去って行った。
真っ直ぐに長屋家に向かう道中、前回の訪問前にタバサと話したことが脳裏に浮かんだ。
「…………私の経験上、一度や二度なら胃痛と吐き気としばらくの自己嫌悪でなんとかなる。それ以上は……、どこまで自分の心を殺せるか、そして耐えられるかの問題」
「…………なるほど。貴重な経験談だ。あたしゃ経験したくないがね」
「でも、経験しに行くんでしょ」
「鉄の拳で叩いて砕く、私がやらねば誰がやる、ってな」
前回とは違い、行くかどうかの迷いはなかった。
「私がやらねば誰がやる、か……」
あるのは罪悪感と義務感だけ。
「……やりたかねぇよ」
長屋家の玄関を前にそう呟いた。
前回と同じく、広めの和室に通された。
座卓を挟んで上座に名越、下座に長屋の妻と両親が並び、対面していた。
事前に連絡していたとは言え、平日なので長屋家側が三人だけなのはやむを得なかった。それでも名越には、前回の方がまだ楽だったように思えた。
上座とか下座とか、もはや名越には気にする余裕がなかった。
「単刀直入に申し上げます。先日伺った時に奥様から、長屋さんを『仕事から解放してあげてほしい』。そう伺って、一旦引き取らせていただきました」
名越は確認するように、長屋の妻、長屋の両親の三人と目を合わせた。
三人は黙ってうなずいた。
「これが、私からのご返答です」
座卓に一枚の書類が名越から長屋の家族に向けて差し出された。
その紙には、
『株式会社ベイローレル 株主総会第三号議案・取締役三名選任の件(最終案)』
とあり、表題の下には
『取締役事業統括本部長 名越一馬』
と自身の署名捺印、そして、
『取締役候補者として、以下の三名を提案する。』
との一文。そして、
『代表取締役社長:名越一馬、取締役総務部長:水本鏡花、取締役相談役:長屋浩』
『※代表取締役社長:長屋浩はその任を解き、新たに取締役相談役に選任する。但し非常勤、無給、代表権と決裁権無し、対外署名などの実務は無し』
と無機質な文字が連なっていた。
その文言を見た長屋の家族の反応を直視することができず、名越は静かに畳へ額を近づけるほど頭を下げた。
「帰しては、いただけないんですね……」
長屋の妻のその言葉が、刃となって名越を切りつける。
「改めて、力不足、役者不足の自分のために、三年だけで良いので、長屋さんには力を貸してほしいのです」
だが、切りつけられても退くわけにはいかなかった。
誰かを傷つけながらでも、名越は進んでゆくしかなかった。
「……働かせたいわけではありません。代表権はありませんし、非常勤で、無給です。日常の決裁や対外署名などの実務には関わりません。けれど、それでも、今の私では、完全に長屋さんを外すだけの力が無いんです」
下げた頭をさらに低くして、なんとか言葉を絞り出していた。
「奥様が『仕事から、解放してあげてほしい』とおっしゃったこと、娘さんが『まだ、こっちに帰してもらえないんですね』とおっしゃったことは理解しています。その上で、もう一度お願いしています」
もう一段、名越は姿勢を低くした。
その耳には、座卓の上に置いた書類のこすれる音と、長屋の家族の息遣いが聞こえるのみだった。
「三年だけ、なんですね」
長屋の父の声が、やけに大きく感じた。
「はい。三年で必ず名前を外します」
「その約束は、会社としてですか?それとも、名越さんとしてですか」
長屋の妻の問いは、会社より、名越個人への問いに思えた。
「私として、です」
「では、必ず、三年経ったら名越さんの責任で帰してください」
「はい」
名越は深く、深く頭を下げたまま、答えた。
しばらく、頭を下げていたが、長屋の母に促されてようやく名越は頭を上げた。
二言、三言交わして、
「……忘れ去られずに、求められる内が花ですから。」
そう言葉をかけられた。
長屋の母の気遣いの一言は、重かった。
重いだけならまだ耐えられた。
だが長屋の妻がポツリとこぼした一言が、家族の総意だったのかもしれない。
「……私は忘れ去られて欲しかったです。もうすぐ帰ると約束したんです」
それは、名前だけ残された上で働かされる、愛する人を悲しむ一言だった。
行きと同じく、やたら揺れる特急列車の中、長屋家を辞去する前に聞いた長屋の妻の言葉が、名越の頭の中で何度も繰り返されていた。
『反省すれども、後悔せず』
自身の考え方を、これほど苦しく感じたことはなかった。
後悔したら、自分の勝手で今まで傷つけた全てに申し訳が立たない。
その一心が今の名越の最後の心の支えだった。
「皆さん、ご苦労様です。多忙の中急遽集まっていただき申し訳ないです」
そう言って立ち上がって一礼した名越の声は、妙にはっきりとした通る声だった。
出席者は、名越、鏡花、立花、高藤、小早川。
そして書記役として参加している星野が、資料を配っていた。
本社の会議室にはこの会社の主立った面々が集められていた。
立ったまま、名越は話を続けた。
「時間も無いので、結論から言います。今度の株主総会議案の第三号、取締役選任の件ですが、これを差し替えます」
どよめきなどはなく、出席者一同が沈黙していた。
「先日皆さんに示した案では代表取締役は二名でしたが、長屋さんには、代表取締役社長から外れていただきます」
皆さすがに動揺まではいかないが、明らかに表情が変わった。
ある者は渋い顔に、ある者は困惑を浮かべ、またある者は薄く怒りをにじませ、それぞれ違った想いが胸に去来しているようだった。
「ただし、ただしです。役員名簿からは外しません。三年間だけ、無給の非常勤取締役として残します。職名は相談役です。代表権はありません。日常決裁にも関わりません。対外署名などの実務にも関わりません」
そんな変化を押し流すように、朗々と語る名越のその姿は、傍から見れば演説のようだった。
「要するにです、代表取締役社長に私、名越が、取締役総務部長に水本さんを、そして取締役相談役として長屋さん、以上の案で株主総会に諮ります」
だが、出席者の中で唯一名越だけが無表情だった。
口火を切ったのは、渋い顔をしていた高藤だった。
「……無給。非常勤。代表権なし。日常的な決裁もなし。そして対外署名もなし。その条件でしかるべき手続きを踏み、株主総会に諮り、役員名簿に明記する、という理解でよろしいですね?」
「ええ、その通りです」
「曖昧に残すなら通せません。名簿の端に置くなら、書き方はあります。それでよろしいんですね?」
「はい」
「……長屋社長の代表取締役退任に伴う特別功労金については、別議案、または付帯事項として規定通りに整理します」
「よろしくお願いします」
「代表者としては、名越『社長』になる。その説明は容易です。ですが、外から見れば結局長屋社長の名前は残っている」
苛立ちを抑えるようにゆっくり資料から目を上げた小早川は、自らを落ち着かせるように、一呼吸置いた。
「聞かれますよ、なぜ残っているのか。なぜ完全に外さなかったのか、と」
「ええ。聞かれるでしょう」
「その時に、長屋社長への敬意だとか、社内感情だとか、そういった話が見えた途端に、説明として弱くなります」
名越は小早川の言葉を聞いていた。
「三年という期限も同じです。なぜ三年なのか。なぜ一年でも、二年でもなく、三年なのか。そこに会社としての説明がなければ、ただ感情で動いたように見えます」
言葉こそ選んでいたが、小早川には思うところがあり、抑えきれないものがある。
そう感じさせるには十分だった。
「…………感情、ですか……」
長屋の家族とのやり取りを思い出しそうになったが、名越は、ぐっ、とこらえた。
「外では、そう見られます。こちらの事情は関係なく、どう見えるかという話です」
「ええ」
「外部資料は、必ず会社としての説明にしてください。長屋社長を代表職から外す理由。名簿にだけ残す理由。三年で外す理由。権限を持たせない理由。それを分けてください」
「分ける、ですか……」
「はい。長屋社長を会社に残したい理由と、残してよい理由は別です」
いつもの軽さを微塵も感じなかった。
「前にも言いましたよね。使う理由と、使ってよい理由は、別の紙で、と。今回も同じです。長屋社長の名前を残したい理由と、残してよい理由を混ぜたら、外には通用しません」
「通用しない……」
「理由が分かれていれば、通用させます。……だからこそ長屋社長の名前を、弱い説明の中に置かないでください」
小早川は、そこでようやく名越を正面から見た。
「……分かりました」
名越は目の前の小早川に、長屋の家族と交わした会話が重なった。
今後のことを考えていた立花が、困惑した顔のままおもむろに口を開いた。
「外部への説明は、小早川部長の仕事ですから、そこに、私から言うことはありません。確認ですが、長屋社長の名前は役職を変えた上で役員名簿に残る。けれど、代表権はない。日常決裁にも関わらない。対外署名もしない。つまり、現場の判断には関わらない。そういう理解でよろしいですね?」
「はい。そう理解していただいて差し支えありません」
「ですが、現場には、長屋社長が残ったと受け取る者もいるでしょう。……逆に、社長では無くなることで、消えたと受け取る者もいるでしょう」
「……どちらの受け取り方も、間違いではありませんね」
名越の発言に、さらに立花の困惑は深くなる。
「困りましたね。それは、非常に説明しづらい……」
長屋は、その存在感と仕事故に現場からの信頼も篤かった。
「……なら、現場で何かを止める時、誰の責任で止めるんですか」
「私です」
「再開する時は」
「もちろん、私です」
「臨時の対応が必要で、無理を通す時も」
「当然、私です」
「……長屋さんならこうした、とは言わせませんよ」
名越もその一言に、一瞬言葉が詰まった。
「……分かっています」
「長屋社長の名前が残る以上、現場は必ず考えます。あの人ならどうするか、と。あの人の名前が残っているなら、まだどこかで見ているんじゃないか。そう思う者も出るかもしれません」
「……そう、でしょうね」
「その時に、長屋さんの名を使って現場を動かすなら、私はこの案には乗れません」
会議室の空気の質が変わった。ただの言葉ではない、その場にいた全員がそう感じた。
「長屋社長に、現場を預けていただいていました。それだけ信頼してもらっていた。少なくとも、私はそう受け取っています。だからこそ言わせてもらいます。あの人の名前を残すなら、名越『社長』はどう現場を動かすのですか?」
その問いは重く、名越の覚悟を試しているようだった。
「……私の言葉で、私の責任で、動かします」
「………………分かりました。では、現場にはそう下ろします。『長屋社長の名』で動かす会社ではなく、『名越社長の責任』で動く会社になった、と」
名越を見る立花の顔は、困惑ではなく、なにか別の、もっと重々しいものへ変わっていた。
「異議はありません。ただ、わたくしの職務は、社長の補助ではなく、会社としての判断の記録と差し戻し、そう議事録には残してくださいませ」
「分かりました」
それだけ言って、鏡花は再び手元の資料に視線を戻した。
高藤、小早川、立花、鏡花。
それぞれの考え、それぞれが見ているものが出揃った。
(……もう、いいだろう?)
名越は、これ以上は立っていられる気がしなかった。
「……では、この案を会社側提案として株主総会へ送ります。代表取締役社長・名越一馬、取締役総務部長・水本鏡花、取締役相談役・長屋浩。以上でよろしいですね?」
ゆっくりと名越はその場を見回した。
誰も、頷かなかった。
けれど、誰も止めなかった。
沈黙を同意と見た名越は、長いため息をつきながらゆっくりと席に着いた。
「………………それが『約束』、ですからね」
漏れた言葉は、そんな小さな声だった。




