第四話 ひとひらの重み 中編・中
出張から戻った名越は、纏う空気の重さと、眉間の皺の深さに拍車が掛かっていた。
そして出張先を知るものにとっては、結果が芳しくなかったことが想像に難くなかった。
(ああ言われると、中々にしんどいな……)
長屋の妻の言葉は、未だ名越を長屋の故郷に心を縫い付けられたままにしていた。
『夫は、もう十分すぎるほどやったと思います。仕事から、解放してあげてほしいんです』
ただ、そう言われた帰りの途中で、新たな役員案自体はすぐに考えついていた。
行きと同じくやたら揺れる特急列車の中でメモ紙に走り書きしたためか、読み取りづらい文字だった。
その文字が読み取りづらかったのは、名越の心情が多少なりとも乗っていたからかもしれない。
一見すると新たな役員案は、ほぼ完成形と言っても良かった。
なのに、纏う空気の重さと、眉間の皺の深さに拍車が掛かっていたのは、
(家族のもとに帰したい、だが今は帰ってもらう訳にはいかない)
という、相反する感情を未だに引きずっていたことと、なによりその案は名越の退路を断つ案だったことが原因だった。
『代表取締役社長:名越一馬、取締役総務部長:水本鏡花』
『代表取締役社長:長屋浩はその任を解き、新たに取締役相談役とする。但し非常勤、無給、代表権と決裁権無し、対外署名などの実務は無し、期限付きが条件か』
結局名越はいくら考えてもこれ以上の案を出せず、鏡花に打診することになった。
本社四階社長室。
名越と鏡花は応接テーブルを挟んで向き合っていた。
「いやぁ、三ヶ月ほど前を思い出しますねぇ」
「ええ、本当に。随分名越さんには手を焼かされていますわ。このようなことに巻き込まれると分かっていたら、お断りしていましたのに」
「ははは……、トゲのある言葉ですね」
「わたくしの名前の話をされるのですから、少々のトゲも出ようものですわ」
鏡花にここまで言われると、名越は引きつった顔で乾いた笑いを漏らす他なかった。
「……さて、本題ですが、先日お見せした案に少し手を加えましたが、結論としては変わりありません」
そう言いながら、シワだらけのメモ紙をテーブルに置いた。
「……名越さんのお考えが表れているように見える紙ですわね」
「苦悩の跡、とでも思ってください」
テーブルの上に置かれた紙を睨みつけるような鋭い目で見つめて、書かれた文字をなんとか読み解いて行くと、なるほど確かに苦悩の跡かもしれないと、鏡花は感じた。
「代表取締役社長名越一馬、取締役総務部長水本鏡花、ですか……。随分思い切りましたわね」
「私はともかく、鏡花さんは実力ですよ、というと誤解されそうですね。制度の方が、追いついていないだけですよ。名を実に寄せるんです」
「そうですか……」
その言葉を聞いて、鏡花は小さく笑うしかなかった。
(自分のような若輩者が役員とは。悪い冗談に聞こえますわね……)
鏡花がそう感じたのも無理はなかったが、名越が残念ながらそんな器用な人間ではないと思い直した。
「しつこいようですが、わたくしが、三つ、ご提示したこと覚えておいでですか?」
「覚えてますとも」
「わたくしは、長屋さんの代わりにはなりませんし、名越さんの逃げ道にもなりません。そして水本の名前を無闇に差し出すつもりもありません。わたくしの名を、何のために加えるのかを決めて頂けましたか」
「ええ」
「本当ですの?」
「その証拠に、まず長屋さんの名前を残しているので、長屋さんの代わりになりようがありません。実務上もです。ただのお飾りにする気はありません。水本さんには、記録として残って頂きたいんです。止めたもの、差し戻したもの、通したものを、会社の判断として残すために」
「……長屋さんの名前を残すなら、なぜ先日長屋さんのご家族のもとへ?」
「筋を通して、ケジメを付けようと思ったんですが、やはり私にはそんな綺麗事許されない、とだけ」
意味深長かつ答えになっていないその言葉を鏡花は不審に思ったが、この場で名越が話すとも思えなかった。
「………………そのお話は後でじっくり聞かせて頂くとして、話を戻しましょう」
歯がゆい思いを抱えつつ、鏡花は話を続けた。
「わたくしがなにかを止めることも、会社の判断になりますわね」
「そうです」
「わたくしがなにかを差し戻すことも?」
「もちろん」
「では、名越さんが通したいものを、わたくしが止めることがあっても?」
「そのための取締役です」
紙の端に置いた指先に力を込め、そのまま少しだけ自分の側へ引いた。
しばし沈思黙考していた鏡花はやがて、どこか諦めたような、どこか割り切ったような表情になった。
「……この話、お受けいたしますわ」
「ありがとうございます」
「感謝される話ではありません。下駄を預けるだけですもの」
「責任重大、ですね……」
「ええ。重大ですわ。軽く扱われてはわたくしが困ります。なにせわたくしは行き着く先を名越さんにお任せするしかありませんもの。けれど当然わたくしもこれまで以上に努力いたしますわ」
名越に釘を刺すような口ぶりだった。
「あとは……、願わくば良い方向に進んでいただきたい。ただ、それだけですわ」
少しだけ表情に翳りがあったのは、選ばれてしまったこと、そして選んだことをどこか儚むような鏡花の心中の表れだったのかもしれない。




