第四話 ひとひらの重み 中編・上
足場の悪い峠超えから一転、山間を縫うように流れる川筋と山裾の間の僅かな平地に沿って下って来た列車は、少しだけ開けた小さな町に近づいていた。
「思えば遠くへ来たもんだ」
その言葉は、車窓から見える鬱蒼とした森林を見てのものか、それともつい数ヶ月前まで考えられなかった日々に対するものかは、名越にも分からなかった。
特急列車とは思えないのんびりとした速度と、本線を名乗っているとは思えないほど左右に揺れる軌道に、同業者ながら辟易としながらようやく着いた駅。
その駅は、長屋の家のある町の代表駅にして、鉄道員人生始まりの地だと、以前本人に聞いたことがあった。
「まさか本当に来ることがあるとはねぇ」
曇天のホームに降り立つと、少ない乗客の内、数えるほどの乗客が名越と同じように降りてゆき、改札口に吸い込まれ、駅舎の前の急な階段を降りて、迎えに来ていた家族の車で足早に去って行った。
いつの間にかホームには名越だけが残っていた。
乗ってきた列車が老体に鞭を打つように、のっそのっそと気動車特有の重低音だけを残して終点に向けて去って行った。
「こんな田舎の小駅に、操車掛のあんちゃんこの仕事があるほどの活気があったのか……」
曲がりなりにも運輸業の人間だからこそ、往時の活気との落差を想像できて、辛かった。
幸いにも長屋の家は駅から歩けない距離ではなかったので、名越は観察がてら少し町を歩いていた。
良く言えば、自然豊かな鄙びた田舎町。
実際は、典型的な過疎の町。
見たところ空き家だらけで、道路沿いに家はあるものの人通りはない。
町は何とか持ちこたえている、そう感じた。
「それでも、しきりに帰りたいって言ってたんだから、故郷ってのは不思議なもんだ」
都会で生まれ育った名越には縁遠い感覚だったので、しきりに田舎に帰りたがっていた長屋をよく覚えていた。
そんなことを考えながら、今にも泣き出しそうな曇天の下で歩くこと小一時間。
主の帰りを待つ家が近づくにつれ、名越は急激に具合が悪くなってきていた。
胃痛に嘔気、その他諸々。
(帰りたい………………)
そして、名越はついに目当ての家が見えてきたところで、名越は玄関前を通り過ぎていってしまった。
気づかなかった訳ではない。わざとだった。
正確に言うと、
『どう受け取られても、先方の家族からは好ましからざる事実を届けに来た人間』
に見られる覚悟まではできていなかった。
(戦時中に赤紙を届けた人ってのは、こういう心持ちだったのかしらねぇ……)
胃痛に嘔気は収まらない。
目的地を通り過ぎ、あてもなく歩く中、出発前にタバサから聞いてきた話を思い出していた。
「のぉ。あんた曲がりなりにも記者だろう」
喫茶店「さくら」。
名越から呼び出しておいて、のっけから失礼な一言はタバサにとって、もはや気にしても無駄なことだった。
「一応カメラマンなんだけど」
「大体一緒だろ」
「違います」
「ほんならよ、あんたならどうするかね。あくまで例えば、の話だが」
そう言うと、まるで名越は物語でも語るかのように話し始めた。
「あるご家族の話でございます。その家族の父でもあり夫でもある『男』は、突然遠地で行方知れずになりました。そしてその行方知れずになった土地の人間で、しかもその『男』の部下を名乗る者が事情により急遽その家族を訪れることになりました。その部下がそんな悲嘆に暮れる家族からどうしても話を聞かなければならなかった。ちなみに行方知れずの『男』の消息はその部下も知らない。……どうするよ、こんな地獄みたいな状況」
「……行くの?」
タバサは、名越の言うある家族が誰の家族を指しているのか察したようだった。
「さて何のことやら。一種の思考実験だわね」
と分かりやすくはぐらかした。
「…………私の経験上、一度や二度なら胃痛と吐き気としばらくの自己嫌悪でなんとかなる。それ以上は……」
タバサも心当たりがあるからか、少し苦しそうな表情になった。
「どこまで自分の心を殺せるか、そして耐えられるかの問題」
「…………なるほど。貴重な経験談だ。あたしゃ経験したくないがね」
「でも、経験しに行くんでしょ」
「鉄の拳で叩いて砕く、私がやらねば誰がやる、ってな」
名越がテーブルに拳を叩き付ける素振りをして、弱々しく笑った。
「言ってることは正義の味方でも、やってることは悪役だね」
「そう。悪役ですよ」
「…………大丈夫?」
「…………大丈夫なら、いい年こいた大人がこんな半べそにならんよ。本当に損な役回りだね……」
タバサは詳しくは聞いてこなかった。聞いても教えられないと分かっていたのだろうから。
ただタバサは、それからずっと何か言いたげな表情だったのが印象に残った。
「いつもとは反対、だねぇ」
そうやって歩いている内に、名越はいつの間にかその家の玄関前に戻ってきていた。
家の外観を観察してみた。
田舎らしい庭も建物も大きな家を想像していたが、思っていたよりもかなり小ぶりの普通の住宅だった。特徴らしい特徴もなく、あるとすればやたら厳重な防寒対策くらいだった。
真剣にそんな事を考えていたが、体はこの家に来た目的を覚えていたようで、『長屋』と書かれた表札を確認すると、覚悟も決まっていないのに、その手は無意識に呼び鈴を鳴らしていた。
(本当に、帰りたい………………)
逃げ出そうと必死な心とは裏腹に、体は勝手に動いていた。
「ごめんください」
そう呼びかけてから、反応があるまでの時間は耐えがたい長さだった。
身なりに失礼はないだろうか?手土産はこれで良かったのだろうか?
そんな事が猛スピードで頭を過っていった。
「はーい、どちら様でしょうか?」
少し時間を置いて名乗った。
「株式会社ベイローレルの名越と申します」
その声は硬かった。
硬かったのは名越だけではなく、その家の者も同じだった。
「……………………少々お待ちください」
そう言って玄関から気配が消えた後、その場で待っていたのはそこまで長い時間ではなかったはずだ。
だが、気が遠くなるほど待っていた気もした。
再び玄関に人の気配が戻り、扉が開いた。
「お待たせしました」
扉の向こう側から姿を現したのは、長屋と同じ歳の頃の女性だった。
(奥さんか?後ろにいるのは……、休みの日とはいえ、あの人こんなに家族がいたのか)
名越がチラリと玄関口に出た女性の後ろに目をやると、娘と息子らしき若者が三人、それに両親とおぼしき高齢の男女。
その目が一斉に名越のことを射貫いた。
(帰りたい………………)
「休日に突然のご訪問、お許しください。改めまして、私、株式会社ベイローレルの事業統括本部長を務めております。名越と申します。……長屋社長の部下に当たる者です」
そう言って、長屋の家族一人一人に名刺を手渡してゆく。
名刺を受け取る手は震え、青ざめた顔、そしてその目は今にも溢れ出さんばかりの涙だった。
だが、
「ご丁寧な挨拶痛み入ります。長屋の妻、です」
そう名乗った女性、長屋の妻だけは、気丈な様子だった。
そして名越のネクタイの色と手に持った荷物を見て、何か別件であると察したのか、
「こんなところでは何ですから、こちらへどうぞ」
ひとまず、他人様の家の玄関先で胃の痛い思いはしなくて済みそうだった。
「改めて、突然のご訪問をお許しください。ベイローレルの名越と申します。よろしくどうぞ」
広めの和室には、座卓を挟んで上座に名越、下座に長屋一家が並び、対面していた。
(他意は無いのかもしれんが、こういう時に上座か……)
意外にも、普段から上座・下座を気にするタチの名越には、自分の座する位置すらも胃痛に拍車をかけていた。
「……しかし、自然が多くて良い町ですね。長屋社長はしきりに、早く故郷に帰りたいと、言っておりましたが、ご家族がいるだけではないようですね」
「あの子はそんなことを言ってたんですね……」
そう言って長屋の母であろう老婆が、目を細める。
「ええ。もう口癖なんでしょうね。私が新卒の時の上司が、駅長時代の長屋社長だったんですが、少なくともその頃からですね」
「……父は、名越さんから見てどんな人に見えましたか?」
長屋の息子たちであろう兄弟の、恐らく兄が名越に尋ねた。
「そうですね……。一緒に仕事をしていたのは、新卒の時の一年と去年の春からなので、あまり長くご一緒していたわけではないんです。でも私が新卒の時には『積極的にな』、ってよく言っていました。攻めて失敗する分には次がある、ってところですかね」
あとこれはあまりご家族にする話でもないのですが、と前置きをして、名越は話を続けた。
「こう、風貌がダンディーでかつ目力の強い方なので、なんといいますか、少し物騒な方々と間違われることが多々あるんです」
大分踏み込んだと名越は思ったが、長屋一家でも同じ認識だったらしく、あぁ……、と言って苦笑していた。おかげで、少しだけ空気が緩んでいた。
しかし名越もそんな世間話で場を繋ぐのは限界だった。
意を決して名越は、この家に来た本題に切り込んだ。
「……実はですね、今回お伺いしたのは、他でもない長屋社長の件なのです」
対面にいる長屋家の一同は身構えていた。
「最初に申し上げておきますと、長屋社長とは我々も未だに連絡が取れておりません。ですが、我が社としても連絡の付かない以上、『やむを得ず』経営陣の変更を検討しております。会社運営に支障を来しつつある現状を鑑みての、苦渋の決断ではありますが……」
『やむを得ず』という言葉を殊更強調したのは、名越なりの気遣いのつもりだった。
長屋の家族は、どう受け止めれば良いか分からない。そんな様子だった。
「つきましては、ご家族の方への説明を以て、長屋社長への説明に代えさせていただければと思い参りました」
沈黙が重かった。その重さをはね除けて案を提示することが、名越が今この場で拠って立つ唯一のものだった。
カバンから一枚の紙を取り出して、座卓に広げた。
「正式な案ではありませんが、概ねここに書いてある体制で今後は進めたいと考えております」
内容は名越の私案として、鏡花、高藤、小早川に提示したものだった。
また、別日に立花にも説明をしているので、私案というにはやや公式に近いものだった。
『代表取締役社長:長屋浩、代表取締役事業統括本部長:名越一馬、取締役総務部長:水本鏡花』
少なくとも、これはただの青写真ではなく、限りなく今後の現実に近いことを示すものとして、そしてこれ以上の案は、名越には出せなかった証として、その紙には、『取締役事業統括本部長 名越一馬』と自身の署名捺印までしていた。
自信があるわけではないが、これが落とし所と考えていた。
「父の名前は、残るんですね……」
長屋の息子たちであろう兄弟の、恐らく弟がポツリと呟いた。
「はい。残すべきだと私は考えております」
しかし、長屋の家族の反応は、名越の想定していた反応とは少し違うものだった。
そう、残念だ、というような、そんな空気だった。
「父はまだ、こっちに帰してもらえないんですね……」
長屋の娘であろう、若い女性の言葉に、
「……え…………………………」
名越は文字通り固まった。
意味が分からなかった。なにかおかしなことがあっただろうか?なにか失礼なことをしただろうか?
「分かって、もらえませんか?」
息子と同じような鋭い目をした、長屋の父であろう老爺が名越に問うた。
老爺の姿が長屋と重なって見えて、名越はそこでようやく、目の前にいる人たちが求める答えを、名越自身が言っていたことに気づいた。
「……早く故郷に帰りたい……」
そして長屋の妻の言葉は、名越の案も何もかも全てを折るのに十分だった。
「夫は、もう十分すぎるほどやったと思います。仕事から、解放してあげてほしいんです」
「…………持ち帰らせていただきます」
「…………お願いします」
そこからどうやって長屋家を辞去したか、記憶が定かではなかった。
覚えているのは、いつの間にか曇天の空から陽光が差す晴れ間に変わり、暑さが肌にまとわりついていたことだけだった。




