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故郷と呼べる場所   作者: 那珂湊
第三章 それが「約束」
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第四話 ひとひらの重み 前編・上

 星野が自席で確認窓口開設に当たって必要な説明案と添付資料の数々を整理していた。

 議事進行表には、第一ほしふりビル確認窓口開設について、確認窓口移転に伴う社内説明について、対外用説明案について、代表者署名欄についてと重い内容が並んでいた。

 だが、それらについて何か考えることなく無心で手を動かしていた。

 説明案に続く資料目次もまた重量級のものばかりで、確認窓口開設説明、第一ほしふりビル使用理由、本社屋の要注意判定への対応、現場向け説明用一枚絵、社内通知案、銀行・行政・取引先向け説明案、代表者署名欄つき対外説明案など。

 事前に根回しは名越と鏡花で行っているとはいえ、少し間違えると場が荒れて、合意どころではなくなりそうな案件ばかり。

 しかし、星野はそれらに目を通しながらも淡々と処理していた。

 一介の社員である自分には無関係。一々反応していては事務屋としてやっていけない。

 そんな風に言い聞かせているような表情だった。


「はい、どうも。お元気ですか」

 背後からいきなり声を掛けられて、星野は少しびっくりした。それだけ集中していたのだろう。

 そしてそんな他人の集中を、よくわからない言葉でかき乱す人間は三階大部屋には一人しかいなかった。

「……本部長。お疲れさまです」

「同じようなことを説明するのに、随分と資料が要るのねぇ」

「それだけ大事なんだと思います」

「紙ぺら一枚で事足りそうだけどねぇ」

「一枚で済まなかったから、議題になるんだと思います。それに、本部長がその紙ぺら一枚で済ました先駆者じゃないですか」

 部下の集中を乱した結果は、名越に倍返しで返ってきた。

「……インコースを抉るねぇ」

「水本部長とお仕事してると、多少なりとも」

「さては、その切れ味鋭いシュートは背番号17の継承者だな?」

 そう言うと右肘の先だけ動かして、スナップスローのジェスチャーをした。

「誰ですか、それ」

「ピッチャー。ピッチャーだけど最優秀防御率のタイトルも取ってるんだぞ。惜しむらくは優勝前年にトレードされたのが」

 だが、エンジンが掛かってきた名越は、席を外していたはずの鏡花によって強制終了させられた。

「本部長。うら若い女性社員にいにしえの野球ネタは通じませんわよ」

「これは失礼」

「……確か、ダブルストッパーのもう片方は、オールスターゲームで先発したことがありましたわね」

「だから、あんたいくつだよ……」

「家族に詳しい者がおりましたの。とだけ」

 名越の、謎だ……、の呟きを無視して、鏡花は星野の手元をのぞき込んだ。

「なるほど、説明案の整理中でしたのね。……議事進行表の最後、代表者署名欄について、では少し範囲が狭いですわね」

「では、表現を直しますか?」

「そうですわね。署名欄に関する権限と説明責任の整理、ではどうかしら」

「何というか、それ、広げたようで逆にカタに嵌めたような議題ですね。逃げたら最後というか」

「当然ですわ。逃げたら最後の議題ですもの」

 固まる名越と、さも当然と言った表情の鏡花を横目に、星野は、やはり無関係ではいられないと感じながら、議事進行表の最後の一行を打ち直した。

 代表者署名欄について。

 その文字は消えた。

 代わりに、署名欄に関する権限と説明責任の整理、と入れ替わった。

 空白の代表者署名欄は消えることなく、むしろ会議の面前に晒されることになった。



 数日後。

 会議は、概ね粛々と進んでいた。

 出席者は、名越を議事進行役として、各所属長、そして議長の補助役兼書記として星野。

 確認窓口を設けること自体は、既に議論の争点ではなかった。

 以前の駅社員の時のような、現場と本社の往復をもはや繰り返せないことは、誰の目にも明らかだった。

 窓口を第一ほしふりビルに置くことも、事前に了解済みという認識が出席者にはあった。

 だから会議が止まったのは、その先だった。

「ひとまず、確認窓口を設置する理由に関してはここまでに整理できたと思います」

 名越が言った。

「ただし、皆さんもご存じのとおり、あのビルは大なり小なり『色々』ありました。ですから使う理由と、使ってよい理由は別、として考えなければなりません。そして使ってよい理由、これを文章として取り纏めたいと考えています」

 そこからは鏡花が引き取った。

「確認窓口の必要性は、既に皆さんにご理解いただけているので良いとして、問題はその『使ってよい理由』をどこまで説明するか、その説明の仕方もどのように分けるかだと考えておりますわ」

 一拍置いて続けた。

「同じ社内でも本社向け、現場向けでは求められる説明は異なります。ましてや対外向けとなれば、慎重に扱う必要があります。これらを混ぜれば、どれ一つとして上手く行かず、崩れますわ」

 鏡花の言葉に対して、高藤は資料から顔を上げずに、慎重に言葉を紡いだ。

「確認窓口の移転だけなら、災害対応による臨時措置の延長線上だと説明できます。ギリギリですが、費用も稟議もその枠で収まるでしょう。ですが、文書上に本社機能の移転に見えた瞬間、臨時措置の枠とは別の枠に変わります。未決定のものをあたかも決定済みのように見せるような文書には、賛成しかねます」

 だが慎重な高藤とは対照的に、小早川の決断は早かった。

「通せますよ。反対する理由の方が、よほど薄いです」

 名越が片眉を上げる。

「ずいぶん早い決断ですね。まだ全て決まっていませんが」

「使わずに抱え続ける方が、外からは厄介なモノに見えるんです。名前も場所もある物件なのに、所有する会社が触れない。その方がよほど、何かを隠しているように見えます」

「使えば信用が戻る、と」

 と名越は問うが、

「いいえ、戻りはしません。放っておくよりかはマシ。ただそれだけです」

 そう流してから、声のトーンを落とした。

「ただ、通すと言う以上、外で頭を下げるのは私です。だから条件を付けさせて貰います。使う理由と、使ってよい理由は、別の紙で。一つに混ぜてしまうと、私が昔の話を蒸し返されて終わる」

 あくまで小早川の実利的判断だった。だが同時に、寝た子を起こさないギリギリの範囲での提案でもあった。

 立花は、最後まで渋い顔だった。

「窓口が明確になるのは、現場としてはありがたい。それは本当です。ですが、本社だけ安全な場所へ移ったように見えれば、現場としては別の受け取り方をします」

 そしてなにより、と前置きした上で、立花は続けた。

「自分の手続きがどこへ行けば終わるのか。現場としては知りたいのは、そっちです」

 名越は、三人の言い分を一度引き取った。

「……整理しましょう。今日決めるのはあくまで確認窓口だけです。総務や経理の一部を移す話も、本社機能をどうするかも、ここでは決めません。それは別問題です。必要になれば、その時点で別の議題として別の決裁をします。今回の紙に、先の移転を決めたように読める文言は入れません」

 名越が殊更『別』という言葉を重ねた分、話は確認窓口の一点へと絞られていった。

「でしたら、説明文書の方向性も決めてしまいましょう。社内向け、特に本社向けには決裁の範囲を。何を決め、何をまだ決めていないのかを明記します」

 立花へ鏡花は目を向けた。

「現場向けは一枚にいたします。窓口の場所、いつから始めるかと取り扱う用件、そしてそこへ行けば何が終わるか、それだけです。当然、言い訳は入れません」

 鏡花の言葉は淀みがなかった。

 その言葉は小早川にも向けられる。

「対外向けには、第一ほしふりビルを選んだ理由と、選んでも差し支えない理由を、必ず分けて書きます。用途があることと、現時点で使用に当たって支障がないことは、同じ説明にはできませんもの」

 ただ、資料の端を押さえる鏡花の指先に力が込められて、わずかに白かった。

 偶然にも星野だけがそれに気づいたが、議事を記録するその手は止めなかったし、何も言わなかった。



 会議室には、しばしの沈黙が残った。

 誰かが完全に納得したわけではなかった。当然思うところも残ってはいた。

 それでも、反対の理由は一つずつ、紙の上で置き場所を与えられていた。

 高藤が、ようやく顔を上げた。

「未決を未決と書く。今回の決定はあくまで確認窓口に限った話。責任者欄と代表者欄を分ける。それを守っていただけるなら、経理としては問題ありません」

 譲れない一線として条件は付けたが、高藤としてはできる限りの譲歩だった。

「営業としても、その形であれば、何とか外への説明は通せます。少なくとも、私が表で説明できます」

 小早川のその言葉は、あくまで自分が外で頭を下げるに足る形にはなった、と認めた形になった。

 立花は、まだ頷かなかった。

 完全に納得がいったわけではないし、恐らく現場に説明しても納得感は薄い、そう考えていた。

「現場が納得するかは、約束できません」

「ええ。約束していただく必要はありませんわ」

 鏡花がそう返すと、立花は、この辺りが落とし所なのだろう、少しだけ間を置いて考えていた。

「ですが、確認窓口だけだと書くなら、こちらから説明はできます」

 立花もただ現場を守ることだけの人間ではなかった。

「本社移転の話ではない、と言えるなら」

 だが、釘を刺すことは忘れなかった。

「皆様にはご理解いただき感謝いたします、とは申せませんわね」

 最悪の想定よりはマシ。鏡花はそう思わずにはいられなかった。

「必要な条件をいただいただけですもの」

 一歩進んだが、その分宿題が増えた。

「その条件で、速やかに文書を作成いたします」

 疲労がその声色に混じらなかったのは、彼女がプライドで押さえ込んだから、だろう。


 議論の行方を見届けた名越が、まとめにかかった。

「では、第一ほしふりビル確認窓口は、開設準備に入りましょう」

 そこで、ただし、と前置きした。

「今回決めるのは、確認窓口だけです」

 名越もそこだけは、明確にしておきたかった。

「説明は、社内向け、現場向け、対外向けの三つに分けます。責任者欄は水本部長」

 そこで、わずかに間が空いた。

「代表者署名欄は、今日は埋めません。また別の問題ですからね」

 そう言いつつ名越は、

(どう足掻いても、地続きの問題なんだがな)

 と感じていた。

「代表権限および取締役選任の整理へと送ります」

 星野は議事録に残した。

 第一ほしふりビル確認窓口開設、所属長会議確認済。

 説明資料は、社内向け、現場向け、対外向けに分割。

 責任者、水本総務部長。

 署名欄に関する権限と説明責任の整理は、代表権限および取締役選任の整理へ送付。

 代表者署名欄、未記入。

 分けるべきものは、分けた。

 第一ほしふりビルは、まだ本社ではなかった。

 そして、その日、本社にすると決めたわけでもなかった。

 けれど、もう『例のビル』ではなくなった。

 残ったのは、空白のままの代表者署名欄だけだった。

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