第三話 ほしふり、そして、あまのがわ 前編
何かが大きく変わった、ということはなかった。
本社三階にある、通称大部屋。
各部署の机が寄り合うその一角に、総務の窓口があった。
申請していた処理が終わった、と連絡を受けた。
同僚に頼んで仕事を代わってもらい、上司から「何度も大変だね」と声を掛けられ、職場を出た。
小一時間かけて、何度も足を運んだ窓口へ向かう。
手には、前回渡された確認票があった。
「あの、書類ができたって連絡を受けた者ですが」
窓口の女性に声を掛けた。
「所属とお名前と『確認票』をお願いします」
自身の所属と名前を伝えて、前回この場所に来たときに渡された確認票も渡した。
「確認しますので、少々お待ちください」
窓口の女性がそう言いながら慣れた手つきで、用件欄に赤ペンでチェックを入れていく。
「住所変更届と通勤経路変更届、時短勤務届、それに就労証明書ですね」
「はい」
「……住所変更届は反映済みです。通勤経路変更届も経理に確認して変更済みです。通勤手当変更は、変更日まで遡った分も含めて来月分の給与から支給なんですけど、社パス利用なのでこれは問題ないですね」
いつの間にか、背の高い女性が窓口の女性の横に立っていた。前にも見た顔だ。確か噂の新しい総務部長さんだったはず。
「時短勤務届は、運輸事業部了解済みなので、これも受理されています。今月から時短勤務ということで総務部にも勤務表が提出されています。最後に就労証明書ですね」
カウンターの上に就労証明書が二部差し出された。
「お子さんが二人なので二部ですね。お子さんの名前と生年月日などは先に記入いただいているので大丈夫だとは思いますが、ご自身の氏名、住所などの確認をお願いします」
私の名前、就労時間など、就労証明書の記載内容を確認する。
「はい。大丈夫です」
すると背の高い女性が封筒を取り出した。
「よろしければこちらの書類一式、封筒に入れてしまいますわね。星野さんは確認票に記入漏れがないかチェックしてくださいな」
はい、と答えながら窓口の女性がもう一度書類を確認している。
「はい。…………問題ないです」
「手続きは以上かしら?」
「はい、そうですね」
窓口の女性が答えると、背の高い女性がうなずいた。
「お疲れさまでした」
そう声をかけられた。
「ありがとうございました」
私はそう言って頭を下げ、本社を後にした。
思ったよりは時間がかからなかった。
早く職場に戻らなくては。
書類の入った封筒をカバンに入れて、腕時計を確認する。
今から戻れば、少しだけ余裕がある。
そんなことを考えながら、私は仕事に戻った。
駅社員が出ていったあと、星野は確認票の控えを処理済みの箱へ入れた。
鏡花は、処理済み印を確認してから、次の用紙へ手を伸ばした。
「あの方を、最後にしなければなりませんわ」
声は低くも、硬くもなかった。
ただ、次に同じ形を繰り返さないための言葉だった。
星野は、少しだけ頷いた。
いつの間にか窓口には、もう一人、別の社員が並んでいた。
名越の五月の連休は、ほぼ休み返上だった。
精力的、というよりは、必要に駆られて復旧作業の後方支援や現場視察をこなしていた。
ここ一、二ヶ月ほどは、ほぼ休みなしだったので、さすがに二日間休みを取った。
だがそれもひたすら睡眠で過ぎてゆき、あっという間に連休は過ぎ去った。
(ちくしょうめ。こういうときに役員って便利だよなぁ……)
当然大してリフレッシュなどできるはずもなく、朝からグロッキーになっていた。
「本部長、少々お時間よろしいですか?」
しかも連休明け一発目に限って、重めの仕事を持ってきそうな声が聞こえたものだから、
「あぁ……。涙の数だけ強くなれるよ……」
机に突っ伏してそんなことを言うくらいには、名越は現実逃避していた。
「……セカンド・チャンスというには、まだ早いですわ」
アスファルトに咲く花のように、むくり、と顔を上げると、案の定鏡花が立っていた。
「鏡花さんは、情緒というものに欠けているきらいがありますね……」
そんな名越の言葉に鏡花は、「朝から頭が痛いですわ……」とでも言いたげな顔だった。
「見るもの全てに怯えないで、明日は来るよ君のために、ですわ」
「……あんた、いくつだよ」
「もちろん再放送ですわ」
名越は、なんとなく鏡花の方が何かが一枚上手な気がした。
がくりと項垂れそうになって、鏡花だけではなく若干困った顔をしながら星野も机の前に立っていることに気づいて、今更ながら居住まいを正した。
「……まぁ、アレですよ、休みが二日しかないと懐かしのドラマすら見られなかったんですよ。そういうことです」
星野は「そういうことって、どういうことですか」とでも言いたげだったが、上には上がいた。
「連休に二日間も休めるなんて羨ましいですわ。わたくしは休みなんてございませんでしたわ」
「……左様ですか」
「なんか、すいません……」
鏡花の言葉は、名越と星野には刺激が強すぎた。
「で、朝の一発目からなんでしょうか?」
なにか非常に申し訳ない気持ちになったので、とりあえず鏡花に用件を尋ねた。
「確認窓口の件ですの。本部長の決裁をいただきましたので、進捗状況と開設の目途などなどご報告をいたしますわ」
「例のビルの件ですか、確か今月中と聞いていましたね」
やっと話が本筋に戻ったと、多少呆れながらも星野が説明する。
「はい。五月下旬開設で準備を進めています」
「予定通りですね」
「予定ではなく、それが期限ですわ。それまでに整理しなければ、混乱が続くだけでは済みませんわ」
「分かっています」
名越と鏡花の空気が、話に合わせて締まったものになる。
「取り扱い範囲は、まずは総務関係の確認機能からでよろしいですね?」
続けて星野が確認する。
「ええ、そうですわね。それと付け加えるなら開設するのは『受付』ではないということですわ。あくまで『確認』の窓口で、迷子になったものの行き先を示す場所ですわ」
何度聞いても言葉遊びのようだと思いつつも、鏡花の言っていることには名越も賛成だった。
「そこは社内向けにも言い切った方がいいですね」
「ええ。ですが、まだ説明が足りません」
名越はその言葉を訝しんだ。
「足りない、ですか……。この建物の要注意判定と、現行の書類の導線が限界だというだけでは弱いと?」
「ええ。例のビルを使う理由と、使ってよい理由は別ですの。『第一ほしふりビル』を大手を振って使えなければ、効果は半減以下ですわ」
突然聞いたことのない単語が出てきて、思わず名越は聞き返した。
「……なんですか、その妙な名前のビル」
「真面目な話の途中で、小ボケを挟まないでくださいまし」
どうやら鏡花には、名越が話に飽きて茶々を入れたと思われてしまったようだ。
「いや。そんなウチの路線を走ってる急行みたいな名前のビル、知らんです」
「そんな、冗談はよしてくださいな。わたくしは真面目な話をしているのですわ」
「と言われましても。なんか色々とヤベぇ話の宝庫『例のビル』で今まで通っていたので、名前なんて気にしたこともありませんでしたからねぇ……」
「……本当にご存じないのですか?」
「……本当にご存じないのです」
「……稟議書を決裁されたのは本部長ですわ」
「……ちゃんと目は通して決裁しています。だがどうも『例のビル』と勝手に読み替えて認識していたようで……」
むしろ知らないことが当たり前とばかりに、名越は星野にも確認する。
「星野さん知ってた?例のビルの名前」
「……大体どこでも『例のビル』で通じていたので詳しくは……。そもそも話題に上ることもあまりなかったですし……」
鏡花は、ベイローレルに来てから頭を抱えたくなったのは何度目だろうか?と考えてしまった。社員はともかく、役員が自社物件の名前を知らないとは思わなかった。
「……ええと、例のビルの正式名称が『第一ほしふりビル』ということは?」
「今、初めて知りました。いやぁ、名前、あったんですねぇ」
素晴らしく呑気な返事に膝をつきかけるが、気を取り直して説明する。
「実は『例のビル』は、物件名が『第一ほしふりビル』と言いますの。命名者は長屋さんのようですわね。で、これからそのビルに我が社は確認窓口を移転いたしますの」
「確認窓口の移転は分かっています。しかし、あの長屋さんが付けたとは思えない名前ですね……。あの長屋さんがねぇ……」
名越はどうやら、『例のビル』、正式名称『第一ほしふりビル』という名前の方になにやら思うところがあるようだった。
「いずれにせよ、第一ほしふりビルを使う説明は、本部長の言葉を避けて通れませんわ。社内向けの説明案は、改めて議題に上げます」
「……なかなか、重いですねぇ」
「軽い議題なら、わたくしが朝一番に持って参りませんわ」
予想外の出来事に、すっかりペースを乱された鏡花はひとまずそれだけ言って、星野を連れて大部屋から出て行ってしまった。
その後ろ姿を見つめながら名越は再び呟いた。
「あの長屋さんがねぇ……」
鏡花から『例のビル』こと『第一ほしふりビル』の説明責任を求められた名越が、とりあえず向かったのは、一番厄介だが一番説明しやすい相手のもとだった。
「どうも」
「どうぞ」
いつも通り、名越はタバサの机の横にある丸いゴミ箱に腰を掛けようとして、
「こっち」
とゴミ箱の横にある丸椅子を指さされてしまった。
「……その椅子、ケツの据わりが悪い」
(そういうことじゃないんだけどな……)
名越が渋々丸椅子に座ると、ちょうど名越とタバサの視線の高さが合う。
「なにかご用ですか」
「ご挨拶ですな。いえね、確認窓口の一部移転を決めたんでご連絡をば、と思いまして」
「前に言ってた話?」
「ああ、アレ。鏡花さんが五月下旬を目標、じゃなかったな、期限だ、って」
「あんまり時間ないけど、できるの?」
「やるでしょう。私も決裁した以上、やらせなきゃならんのでね。……まあ、鏡花さんなら、自分で切った期限で完遂するでしょう。多少のバッファは織り込み済みだろうしね」
言いつつも名越は「その影であたしゃ泣くことになるんだ」と休日返上になるであろう自らの行く末を儚んでいた。
「……で、私は何をすればいいの?」
相変わらずつれないねぇ、といいながら、
「今のところ、無い。強いて言えば、そのうち三階大部屋の出入りや、ちょっとした取材の場所に影響が出るかもしれんので、その時はよろしく」
「場所は?『例のビル』?」
「そ。私も知らなんだが、正式名称は『第一ほしふりビル』なんだと。実に長屋さんらしくない名前でなぁ……」
そこでタバサは何か引っかかりを感じた。
名越が正式名称を知らないのは、……あり得る。
恐らくは、書類上の名前と社内で呼ばれている名前が結びついていなかったのだろう。
だが、「実に長屋さんらしくない」とはどういうことだろうか?そんなことを考えていた。
一通り言いたいことを言った名越は、何事か考え始めたタバサを見て、
「とりあえずまぁ、よろしく」
と言い残して、実に大儀そうに拠点から離れていった。
(相変わらず勝手だな……)
そう思いつつ仕事に戻ったタバサの先ほど感じた引っかかりは、すぐに薄れていった。
だが薄れていった引っかかりは、形を変えてタバサの元へ戻ってきた。
名越から説明を受けた日から数日。社内に広報されたようで、チラホラと社員の話題に上っていた。
だがタバサがベイローレル本社内で聞いたものは、確認窓口の移転に関する話題、というより移転先の話題だった。
「この間聞いたんだけど、確認窓口とかいうヤツを『例のビル』に出すって本当か」
「らしいな」
「今さら使うって、また何かあったってことか」
「長屋さんが片付けたはずだろ?使えるから使うだけじゃないのか」
タバサは黙って愛想良く会釈をしながら、『第一ほしふりビル。何があった?』と脳裏に刻んだ。
現業事務所のとある廊下では。
「例のビル、五月下旬だって」
「経理部長が嫌がりそうだな」
「でも、今の本社よりはマシだろ」
タバサはにこやかに挨拶をしながら、『例のビル。呼び方の意味は?』と考えていた。
籍を置いている、南方日報社水本支局でも。
「ベイローレルさん、本社移転するんですか」
「窓口機能の一部を第一ほしふりビルへ移す、って聞きました」
「あそこかぁ……」
「あのビルに、何があるんですか?」
「いや、駅前で便利ですよ。便利なんですけど……まあ、昔色々とあったんですよ」
「色々と?」
「俺から言える話では……。ベイローレルの内部にいるなら、そっちで聞いた方が早いと思いますよ。教えてくれるかは分からないですけど……」
「……そうですか」
一体私はどこへ連れて行かれるのだろう。
いや、どこまで巻き込まれているのだろう。
知らないままでいるには、少し引っかかりが多すぎた。
そんな得体の知れない、不安とも違う感情も『例のビル』を正視するきっかけとなった。




