第二話 それぞれの今日、それぞれの明日 後編・下
進んでいるもの、進んでいるのかよく分からないもの、複数の問題が同時進行している五月上旬。
他に先んじて一つの通過点にたどり着いたものがあった。
「先月より実施していた詳細調査の結果ですが、即時に使用を中止すべきほどの損傷は認められませんでした」
その名越の言葉を聞いて、若干の安心感のような緩みが会議室に生まれた。だがそんな緩みを一顧だにせず淡々と説明を続けた。
「ただし、継続使用には耐震補強工事と一定の利用制限が必要との意見が付きました。具体的には建物外側から鉄骨で補強を入れたり、柱を鋼板で巻き立てたり、各階への耐荷重制限をしたり、といったところです。平面図やら立面図やら伏せ図、見上げ図、断面図やら添付資料がありますが、平たく言えばそれだけ耐震補強工事の項目が提案されています。ここまででなにかご質問は?」
真っ先に手を上げたのは立花だった。
「本部長。つまり、今日明日で出ろという話ではない。だがこの場所に留まるとしても大なり小なりの工事は必要になり費用負担が生じる。そういうことですね?」
「そうなります」
名越が一言そう答えて「他に質問はありませんか」と聞いたが、出席者はなんとなく黙っていた。空気感が一つの流れを形成しつつあった。
「では、今回の詳細調査を受けて粗計算ですが比較資料を作成しています。高藤部長」
「はい。補強工事費、移転費、駅前ビルの整備費を比較しました。お手元の資料の通り、数字だけを見るなら、段階移転の方が合理的と言えます」
「高藤さんがそう言うと、重いですね」
資料を見た誰かの呟きが聞こえた。
「安いから賛成しているのではありません。高くつく逃げ道を潰しているだけです」
「逃げ道、ですか」
名越は思うところがあったのか、腕を組み右手で頬杖を突きながら考えていた。
「今の社屋を使い続けるにも、補強費と説明責任が要ります。移るにも費用が要る。なら、長期的に説明できる方を選ぶべきと考えます」
「……ノスタルジーで腹はふくれませんからねぇ」
「復旧工事の妨げにならない範囲でなら、申請書類の確認機能が駅近くにできるのは助かります」
「移転であれば、現場の社員が本社まで行かずに済む導線を作りますわ」
「外向きには、本社機能の段階再配置で統一した方が良いでしょう」
立花、鏡花と小早川から次々と意見が出た。
「段階再配置、ですか?」
名越は小早川の言葉が引っかかった。
「ええ。安全を考慮した上での本社機能の段階再配置。最初から全部移すとは言わない方がいい」
「その方が何かと都合が良いと?」
「そのような所です。さっきの本部長の言葉ではないですが、ノスタルジーが大事な人も世の中多いですから。急いては事を仕損じる、って所です」
「実態として、全部を移す訳ではありません」
高藤の突っ込みが入るが、
「もちろんです。実態が伴わない誇大看板ほどアブないものはないですから」
小早川には織り込み済みのようだった。
小早川と高藤の言葉を考えていた名越は、おもむろに場の空気感が定まってきたことを感じた。
「水本部長。耐震補強にしろ、移転にしろ、仮に本社機能をこの建物から移すとなった場合、ある程度段階を踏むことになると思うのですが。大まかにお考えはありますか?」
話を振られた鏡花は、少しだけ考える素振りを見せた。
「そうですわね。第一段階は申請書類の確認機能。第二段階は総務と経理の一部。第三段階で残った本社機能。といったところでしょうか」
「三段階で移動ですか」
「はい。いま動かすものと、まだ残すものを分けて置けば、混乱を丸ごと運ばずに済みますし、大事な物を確実に移せますわ」
「現場への影響も考えやすいですね」
「順番としては妥当かと」
「外向きにも説明しやすい」
立花、高藤、小早川の考えとも重なる面は多いようだった。
「分かりました」
名越は再び腕を組み右手で頬杖を突きながら考えた。
(決まり、かしらねぇ)
一度、卓上の資料を見た。
詳細調査の結果。
『例のビル』の収支表。
確認機能の試験運用の中間報告。
どれも、先送りを許してくれそうになかった。
「確かこの建物に関しては、既に減価償却が済んでいます。つまり法定耐用年数を過ぎているとも捉えられます。そんな建物で業務を継続しながらの工事も大変でしょうし。改修後の使い勝手も大幅に低下するでしょう。ですから長期の本社機能として使用するには不適と考えています」
そこで一拍入れた。
「皆さん思うところはあるでしょうが、この社屋を長期的な本社機能から外します」
誰もすぐには口を開かなかった。
「正式名称は忘れましたが『例のビル』へ、本社機能を段階移転します。水本部長の三段階案でいきましょう。第一段階は申請書類の確認機能。第二段階は総務と経理の一部。第三段階で本社機能。ただし他の復旧工事などを妨げない範囲で進めます。順々に必要な決裁をしますので。担当部署は稟議の起案をお願いします」
それはすぐに現社屋を見捨てる決裁ではなかった。
だが、現社屋を本社として使い続ける前提に別れを告げた決裁だった。
会議室から、三々五々参加者が退出しかける中、高藤が名越を呼び止めた。
「名越本部長」
「はい」
「もう一つあります」
「なんでしょう?」
「社内方針としては、これで動けます。ですが、不動産を動かすなら別です」
「別、ですか」
「我が社は法人ですから。契約も、銀行や株主向けの説明も、行政への届出も、取引先への通知も、最後は代表者名が必要になります」
「代表者名なら、長屋さんの……」
「長屋社長は、……いま署名できません」
触れてはいけないものに触れた。だが触れない訳にはいかなかった。
「それは、承知しています。ですが、」
「先送りにはできません」
「しかし、今はまだ……」
「今です。社内で机を動かすだけなら曖昧にできます。外へ会社を動かすなら、曖昧にはできません」
「……………………」
高藤はなにかを否定している訳ではなかった。
だが法人の大きな動きには代表者がいる。ただそれだけだった。
「感情として残すことと、法人として動くことは別です」
「……きっついですねぇ……」
「きつい話を避けると、あとで数字だけでは済まなくなります」
本社を移す方針は決まった。
だが、それは建物の明日が決まったというだけのことだった。
代表者の欄、そして名。
法人として会社を外へ動かす時、その欄は空白では立ち行かない。
その欄にできた空白を誰の名前で埋めるのか。名越はもう目を逸らせなかった。




