第二話 それぞれの今日、それぞれの明日 後編・上
本社屋と組織の綻びから始まった新年度は、四月も終わりに近づき、例のビルの件、受付窓口の件、確認票の件、それぞれがそれぞれの速度で前へ前へと進んでいた。
しかし一つだけ置き去りになっているものがあった。
当事者にとっては、以前にもあったことなのであまり気にも留めていなかったし、その余裕もなかっただけ。
だが一人だけ、もしかしたら幾人かは、それぞれ別の理由で、その一つだけ置き去りになっているものを黙視できなかった。
決して打算だけではない、だがお節介ともいえない、『感情』の世界だった。
三階大部屋の名越の席は相変わらず書類の山だった。
「本部長。少々よろしいでしょうか?」
いつ聞いても不思議と耳を惹き付ける鏡花の声に、どこか陰りがあった。
「はい。確認票の件ですか?それとも『例のビル』の件ですか?」
名越は仕事の件かと思ったが、
「『約束』の件ですわ」
「はぁ……。約束、ですか」
どうも違ったようで、思わず間の抜けた返事をした。
すると鏡花の目が、すっ、と細くなり、小声で、
「はい。タバサさんとの件ですわ」
名越にとって実にイヤな、そして如何ともしがたい件だった。
「…………………………」
咎める目をした鏡花と、遠い目をした名越の間で視線のぶつかり合いがしばし。
「……それ、今やります?」
「今やりますわ」
「……あ、そう……。今やるの……」
「ええ」
またしばらく二人は沈黙した。
はぁ……、と名越のため息と共に出たのは、本心とも言い訳とも付かない言葉だった。
「別に放置しているつもりはないんですけどねぇ……」
「まもなくひと月経とうとしていますけれど、どうなさいましたの?」
「どうなさいましたも何も、忙しかったんですよ」
「皆さん忙しいですわ」
「いや、そうなんですがね……」
名越は、じわじわと崖っぷちに追い詰められている気分だった。
だが名越のはっきりとしない、問題を先送りにしているような態度は、鏡花にとっては燃料となった。
「わたくしがこちらへ来る時に、名越さんは最終的に矢面に立つと仰いました。わたくしを盾にしないとも」
「確かに、言いましたね。お約束しました。その点に関しては今のところなにか問題になるようなことは、」
「ならば、ご自身の大失策で生じた関係の綻びの対処は、約束の対象ではありませんの?」
「いや、あれは、そんな大げさな話じゃ」
なにかしら反論を試みた名越の言葉を、途中で切って捨てた。
「冗談のような約束でも、約束ですわ。わたくしは、そういったものを雑に扱う方を信用いたしません」
ぐうの音も出ない。
「……痛いところしか突いてきませんね」
「狙って突いておりますもの」
名越は言い返せなかった。
鏡花の言葉は、タバサのためだけに向けられている訳ではなかった。
名越は自分自身が結んだ約束――本意ではないとはいえ――を今さらながら笑うしかなかった。
ひとしきりありがたいお言葉を頂戴して、約束を守る約束をさせられた後、鏡花はそのまま席を外してしまった。
「聞きましたよ。いやぁ、耳が痛い話でしたねぇ」
面白いものを見かけた、とばかりに小早川が姿を現す。
「……なんですか。次から次へと」
「いや、『例のビル』の件で一つ相談があったんですが、そんなことはどうでも良いんです」
良かないでしょう、と言う名越の抗議をサラリと流して、
「で、いつまで放置する気ですか」
「何をです」
「拠点の姫君ですよ」
とタバサが不在にしている拠点を小早川は指さした。
「ひめぇ?あれが?」と言って、名越は渋い顔になった。
「小早川さんまでその件ですか」
「それは当然ですよ。まぁ私は鏡花さんほど上品じゃありませんけどね」
渋い顔のまま、いい加減にしてくれといった具合に名越は、
「何なんですか?今日は上司を小馬鹿にして回る日ですか?それとも新手のイベントですか?」
しかし小早川は気にする素振りも見せず「はっはっは」笑いながら、
「それはそれで面白い趣向ですが、あまり私事を引っ張らないことをオススメしますよ、名越さん」
急所を抉ってきた。
「ですが」
「ですがもなにも、実際はハナから私事ではなくて公事なのはご存じでしょう」
名越は事ここに至っては、黙って聞いているしかなかった。
「とにかく、問題が社内での話のネタで済んでいるうちに解決してください。余所様から「お宅の偉い人は職場で痴話喧嘩なんてなさるんですね」なんて言われた日にはもう」
そういって小早川は頭を振った。考えるだけでゾッとする。そう言いたいのだろう。
「本部長、大丈夫ですか?黙っていても信用が絡む問題なのは変わらない事実ですよ」
二連続でコテンパンに言われた名越は、虚ろな目をしていた。
この程度のことは自力で何とかするのが大人だろう。
だが名越はできないことはまるでダメ、と小早川もこの一年ほどでよく分かっていた。
仕方ない、とばかりにヒントを出した。
「逃げ道、といったらどうでしょう?」
「……逃げ道」
名越がオウム返しに呟く。
「そう、逃げ道です。あくまで仮にですが、本社を移すかもしれない。しかしウチはタバサさんには拠点を貸している。大家として、今後の扱いを確認する。どうですか?」
「いい口実にはなりそうですね……」
「事実ですからね。遅かれ早かれ意向は確認しなければならない。いささか早すぎる気もしますが、まぁこの際致し方ありませんな」
名越は少しだけ逡巡したが、特に他のやり方は思いつかなかった。
(なんか上手く誘導されてるけど、乗るしかないわな)
「分かりました。それで話してみます」
「本当に確認だけで終わらせないでくださいよ?」
「……分かっています」
「なら結構です。分かっていても逃げ出す人が上司では困りますからな」
どこまでも名越にとっては厄日だった。
本社一階正面玄関の片隅、人目につきにくい一角で黒い人影が揺らめいた。
「タバサさん、少々お時間よろしくて?」
名前を呼ぶ声がした方を見ると、人通りの死角で揺らめく人影。
「誰かと思えば鏡花さんじゃない。どしたの?」
「お戻りになられて早々にお呼び立てして申し訳ありません」
死角から手招きする鏡花に、人目につきにくい一角へと誘われる。
「いや、別にいいんだけど。今度は何?また何か悪だくみ?」
「そうですわね……。あながち間違ってはいませんわ。単刀直入に申し上げますと、近いうちに名越さんがそちらへ伺うと思いますわ」
鏡花とタバサの間で視線のぶつかり合いがしばし。
「何のことかと思えば。そんなこと?」
「ええそんなこと、ですわ」
タバサは渋い顔になった。
「別に鏡花さんが動くようなことは何も無いんだけど」
「何もないのなら、そのようなことを言わずともよろしいのでは?」
いい加減にしてくれ、とばかりにタバサは、
「それで、あなたは名越さんの使いの者かなにか?」
「いいえ。ただわたくしは、わたくしとの約束を守って頂くためにだけ動いている利己的な人間ですわ」
「また持って回った言い方するね」
「……タバサさん。名越さんが謝ってきたら、思うところはあっても、一度は受け止めて差し上げてくださいな」
タバサの目が、すっ、と細くなり、
「簡単に言うね」
他者の介入を拒む声だった。
だが鏡花は、タバサのそんな様子を気にする素振りも見せなかった。
「簡単ではありませんわ。ですが、難しいことを承知で申し上げています」
タバサは黙って聞いていた。
「世間一般はどうか存じ上げませんが、名越さんに関しては、度量の広さを見せることで頭が上がらなくなりますわ。自分がリードしているように見せて、自分はリードされている。それが上手い付き合い方だと思いますわ」
聞くだけ無駄だった。タバサの態度はそう言いたげだった。
「そう言うけどね、同じようなことがこれで何度目だと思う?少なくとも二桁近いんだよ?」
すこしばかり気色ばむタバサを尻目に、
「目には目を、ではいけませんわ。右の頬を叩かれたら左の頬を、ですわ」
なんとも博愛精神に満ちた鏡花の言葉だった。
「簡単に言うね……」
「簡単ではありませんわ。ですが、難しいことを承知で申し上げています」
「……本当にあなた、二十六歳?」
「タバサさんも承知の上でしょうが、名越さん相手では、年齢より忍耐力ですわ」
タバサは少しだけ逡巡したが、言い返す気力はなかった。
「分かった。来るなら会うよ」
「是非そうなさってくださいまし」
「でも、それで許すとは言ってない」
「ええ。それで十分ですわ」
タバサは、わずかに息を吐いた。
「鏡花はたまに、名越さんよりひどいこと言うよね」
「必要なことしか申し上げておりませんわ」
どうやらこの会社には、鏡花に押し切られる人間が二人いるのは確かなようだった。
名越が二人にせっつかれていたのが、午前中。
タバサが鏡花と押し問答していたのが、午後。
そして、夜。
駅近くの喫茶店「さくら」で、二人の男女が黙って相対してはや小一時間ほど。
お互いに全く目を合わせず、女はコーヒーを片手にあさっての方向を見ながら、男は紅茶のカップの底を見つめて、ちびちびと口を湿らせていた。
「で、話があるから呼び出したんじゃないの?」
「いや、まぁ、あるにはあるんですがね」
「なにそれ」
「まぁ、一応仕事の話ではありますな」
相変わらずお互いに絶対に目線を合わせようとしない。
そして諦めたように男が話し始めた。
「まぁ薄らぼんやりとはご存じでしょうが、本社機能を移す方向で話が進んでるんだわ。正式決定はまだだけどな。ただ、拠点の扱いをどうしたもんだかと思って。タバサさんよ。あんたは一体どうするかね?」
「どうしようか」
「まぁ、しばらく先の話にはなるから、別に今すぐにどうこうって話じゃないがね」
「そうですか」
会話が途切れる。
だが意を決して、
「……それでだな、まぁ一つばかし他にも話があるんだが」
「なに?」
「この間の件……、アレに関しては、非常に申し訳ないことをしたとは思ってる」
「うん」
「まぁ、謝ってどうのって話でもないんだろうけど。謝らんことには、ね」
「そうですね」
「拠点の話は、どの道話さにゃならんことだったから、まぁ良い機会だと」
「うん」
女は短い応答のあと、少し間を開けた。
「で、結局私はどうすればいいの?」
「……どうするも何も。判断するのはタバサさんですから、わたしからは何も言えませんよ」
「なにそれ。結局、今回も私が折れるしかないんでしょ?」
「いや、そういう訳ではないんだが……」
女の大きなため息と共に会話は途切れた。
今にも破裂しそうな緊張感。
約束の言葉の下に、無理して引き合わされた二人。
鏡花に言われた言葉が脳裏を過らなければ、決別していただろう。
この場に押し出された背景は別々でも、感じていることは同じだったのが幸いした。
(鏡花さんに感謝するべきなのか。それとも……)
(鏡花には感謝するべきなのか。それとも……)
「とりあえず、この間の件はもういいです」
「左様ですか。ありがとう、でいいのか。申し訳ない、なのか。なんとも測りかねるが」
「どっちだろうね」
再び長い沈黙が包み込んだ。
相変わらずお互いに目線を合わせようとしない。
目線はあさっての方向をさまよっている。
許された訳ではなかった。首の皮一枚で繋がっている。
けれど、完全に切られもしなかった。
空気だけはさっきより幾分マシだった。




