第二話 それぞれの今日、それぞれの明日 中編
『例のビル』を視察してから数日後、四月中旬も終わりに近いこの日、確認票を試験的に運用する手筈になっていた。
そして本人たっての希望で鏡花が受付窓口に立っていた。流石に鏡花一人では無理があるので星野が補助で付くことにはなっていたが、総務課長、人事課長、庶務課長、管理課長から本来の窓口担当者たちまで、ある一点で心は一つになっていた。
「不安だ」
鏡花が総務部長に着任してから半月あまり。うっすら新しい上司のことが分かってきた総務部一同は、決して鏡花を侮っていた訳ではなかった。
もしかしたら、案外すごい人なのかも(名越と比べて)。
そのような空気も少しずつではあるが広まっていた。
名越は名越で、
(いやー、やっぱ鏡花さんに来てもらって助かるわ)
なんて、比較されていることを気にもせずに呑気なことを考えているのだが。
しかし経験と知識が物を言う業務はまた別物だった。
海千山千の社員たちが持ち込む業務を、闘牛士のように右へ左へ処理して受け流す。
誰にでもできそうで、できないのが窓口担当業務なのだ。
鏡花の補助を仰せつかった星野も、入社当初は散々痛い目に合って鍛えられていた。
星野さんがいるから大丈夫だろうが……。
そんな少し穏やかではない空気が、総務部内には流れていた。
「……今日は妙に視線を感じますわね」
「あはは……。部長が窓口に立つのが珍しいからじゃないですか?」
(みんな、なにかトラブルが起きないか不安なだけなんだけどなぁ……)
星野の心、鏡花知らず、だった。
すでに何人かの社員が窓口に来ていたが、今日に限っては出足が遅いのか、まだ確認票の出番がなかった。
あったことといえば、訪れた社員が窓口に立っている鏡花を見て驚いて、ギョッとしているくらいだった。
だが確認票の出番は唐突に訪れた。
「あのー、すいません。前にも来たんですが、こども園の書類の締切が近くて……。今日なら分かりますか」
その社員に鏡花は見覚えがあった。
確か以前にも同じ書類の件で窓口に来ていた、どこかの駅の社員だ。
「書類を拝見いたしますので、お待ちください」
星野や窓口担当者から受けた事前レクチャー通り書類を確認しながら、氏名欄を見るとやはり同じ人物だった。
住所変更届も、通勤経路変更届も、時短勤務届も、社内便で総務に届いている。
受付票も本人に戻している。
会社が受け取ったことは分かっている。
分からないのは、その先だった。
誰が持っているのか。
何を待っているのか。
いつ返ってくるのか。
書類のやり取りは社内便が基本である以上、直接来るということは、内心相当しびれを切らしているのだろうと容易に推察できた。
だが一通り書類を見てから念のため星野にも確認したが、
「申し訳ありません。今日この場ですぐに書類はお渡しできませんわ」
「……そうですか」
期待していた分だけ落胆は大きかったのか、それとも書類ができていないことへの感情の表れのどちらだろうか。鏡花に言えることは、
「ですが、何が足りず、どこで止まっているかは、今ここで曖昧にいたしませんわ」
書類は渡すことはできなくても、せめて手ぶらでは返さない、意地にも似た言葉だった。
「それだけでも、分かるんですか」
「分かるところまで分けます。分からないものは、分からないと記録します」
「じゃあ、今日終わる訳じゃないんですね」
「はい。それは……、申し訳ありません」
書類はもらえず、今日では終わらない。怒りよりも落胆の方が大きかった。
「……また、来ないといけないんでしょうか」
「来ていただく必要があるか、こちらから連絡できるかも含めて確認します。少なくとも、次に何を待てばよいか分からないままにはいたしません」
「……それだけでも、前よりは助かります」
その言葉は少しだけ鏡花にとっても救いだった。
それからは『確認票』を使った鏡花と星野の事務作業だった。
「星野さん。住所変更届はどの程度処理が終わっていますの?」
鏡花の確認に対して、星野がラップトップPCと紙の資料を行き来して確認しながら答えて行く。
「用紙は総務に届いていて、受付票も戻しています。ただ、変更処理がまだです」
「でしたら保留理由は、変更処理待ち、と。変更処理にはどの程度かかりまして?」
「そうですね、明日までには反映できると思います」
「では、返答期限は明日ですわね。確認部署は総務」
自然と確認票の記入は鏡花、状況確認は窓口業務を経験している星野で分担していた。
「通勤経路変更届は、通勤手当の計算に関わるので経理確認中です」
「確認部署は経理部。保留理由は、通勤手当計算に伴う経路確認中、ですわね。返答期限は、経理に確認してくださいな」
「電話します」
「お願いいたしますわ」
二人がかりとはいえ、何をすべきか明確なため手が止まることはなかった。
「時短勤務届は……運輸事業部の確認待ちです。様式の不備で差し戻しになっていて、再提出後の判断がまだ……」
「運輸事業部の確認は、立花部長でよろしいのかしら?」
「いえ。普通なら鉄道部門は駅長、運転所長、バス部門は営業所長といった、現場長が基本です。けど直近の記録を見ると次長や立花部長の名前もありますね……」
現場の混乱は、様々な見える形となって表れていた。
「でしたら誰に連絡して判断を仰ぐのか、立花部長に確認しましょう。とにかく本人の事情と現場都合を伺わなければ、判断材料が揃いませんわね」
「次は就労証明書ですわね。住所変更処理後に発行可能。保留理由は、旧住所情報のため、住所変更処理待ち」
「就労証明書は、住所と勤務時間が確定してから発行、になっています」
鏡花が文字を書く手を止めて、
「つまり住所変更しても、時短勤務届の内容が決まらないと就労証明書も止まりますのね」
目を押さえて少し肩を落とした。しかしそれも一瞬のことで、鏡花は再び顔を上げた。
「ひとまず先に、時短勤務の件で立花部長に連絡いたしましょう」
時短勤務届の本人聞き取りの件では立花の判断が必要なので鏡花が連絡すると、丁度立花は別件で本社に向かっているとのことだった。
事情を説明すると会議の前に寄って、立花が本人の事情と現場都合を聞く形となった。
鏡花が連絡を終えると、星野が確認票で気づいたことがあったのか、すかさず聞いてきた。
「すみません。保留理由の欄なんですが」
「どうしましたの?」
「『確認中』だけだと、来た人は次の動きが分からないと思います」
「次の動き、ですの?」
「はい。次に何をどうすれば良いのか、待っていればいいのか、それとも動けばいいのか分からないと思います」
鏡花は星野の言葉を一度繰り返してから、しばらく考えた。
「……誰が、何を、いつまでに確認するのか。そこまで書かなければ、確認票とは呼べませんわね」
確認票は、そこでまた一つ削られた。
鏡花が作った様式は、完成品ではなかった。
使って初めて、足りない欄が見えた。
「では、保留理由とは別に、次になにをするのかを書きましょう。保留理由は社内向け。次になにをするのかは本人向け、と分けます」
「いま作っている確認票も、書き直しますか?」
「ええ。そうしますわ」
使いながら分かった課題を反映して手直しを加えている間、しばし間が空いた。
「……整理、されてるんですね」
先ほどから鏡花と星野の様子を見ていた駅社員が呟くが、
「整理しているだけで、まだ何も解決はしておりませんの」
作業の手を止めずにその呟きに応えた鏡花の声は自嘲気味だった。
「でも、何を待てばいいかは見えます」
「ええ。それだけ、なのですけれど」
「それだけのことが、これまでなかったんです」
一瞬、鏡花と星野の手が止まった。
鏡花だけでなく、遠くで見守りつつ仕事をする課長たちにも、隣で作業する星野にも、窓口担当者にも、そして前総務部長の名越にとっても、耳の痛い言葉だった。
「お疲れさまです、水本部長」
大部屋入り口には、いつの間にか立花が立っていた。
「立花部長。お忙しいところご足労頂いて、申し訳ありませんわ」
「いえ、丁度用事があったもので。貴女もわざわざ本社まで来てもらって、申し訳ない」
晴れない表情で、窓口に来ている駅社員に声を掛けた。
「いえ、こちらこそ……」
「あなたを責めている訳ではありません。社内便で出して、受付票も手元に戻っている。それでも分からないから来た。そこまで待たせたなら、仕組みの問題です」
「……はい」
鏡花に向き直ったが、立花は晴れない表情のままだった。
「時短勤務届の件でしたね」
「ええ。ですが、まず確認したいのは誰が判断するのかですわ。通常であれば現場長判断と伺いましたが、直近の記録では次長や立花部長のお名前もありました」
「基本的には社員と現場長の個別面談の後に、現場長から上位者に申請を上げます。私の下に各部門を担当する次長がおりますので、大抵は次長決裁で本社に書類が回送されます。ですが先日来のことで、各現場長達も手が一杯ですからな」
「つまり、非常時だからやむを得ず、ですか」
「仕方ありません。ただでさえこうして現場に要らぬ負担を強いているのです。私が協力できることをやるだけです」
要らぬ負担、という言葉に込められた意味は、その場にいた全員が分かっていた。
誰も何も言えなかった。
「……水本さん。こうなる前に、何とかならなかったんですか」
「申し訳ありません」
「抗議をしたい訳ではありません。なし崩し的に業務を代行しているこちらにも落ち度はあります。ただ、現場の社員が落ち着いて業務に当たれない状況を看過できないだけです」
「本社まで来なければ分からない状態にした時点で、こちらの落ち度ですわ」
空気が重かった。
立花の言葉は、現場の代表として本社にいる以上言うべきことは言わなければならないが、バランスも考えなければならない。そんな苦悩が垣間見えていた。
「それで、これがこの前の会議で出ていた確認票ですか。これで足りますか」
「分かりません」
鏡花の即答に、立花は不安が過った。
「分からない、ですか」
「はい。ですが、足りない場所は運用しながら改善します。少なくとも、何も分からないままよりは進みます」
「……なるほど」
鏡花の言うことも理解はできるが、このようなことがいつまで繰り返されるのか。一抹の不安はあったが、前向きに進んでいると信じるほかなかった。
「分かりました。ひとまず時短勤務の話をしましょう。普段は運輸の内勤の者と三人で詳細を詰めるのですが、今日のところは星野さん、同席頂いてもよろしいですか?」
立花に急遽指名された星野が「どうしますか?」と鏡花に目線で確認した。
断る理由もないので「お願いしますわ」と伝えて送り出した。
時間としては十五分程度だった。
短い時間の中で、送迎の時刻、転居先からの通勤時間、現場長が受けられる勤務帯だけが、慌ただしく紙の上へ移されていった。
それで、すべてが終わった訳ではなかった。
ただ、現場側で止まっていた一つの固まりだけは、ようやく本社へ送れる形になった。
途中現場長の了解を取りつつ進んだ三者面談で決まった内容を、修正後の時短勤務届に落とし込み、その受付票を渡した。
「星野さん。確認票に反映してくださいな」
「はい。時短勤務届、本人聞き取り済み。現場長確認済み。修正後の届出を受付済み、ですね」
星野が確認票に書き込むと、立花は短く頷いた。
「現場側で見るところは、ひとまずここまでです」
「では、ここから先は本社側の処理次第、ですわね」
鏡花が言うと、立花の視線が少しだけ重くなった。
「ええ。ここから先で止まるなら、現場ではなく本社の問題です」
その言葉は穏やかだった。
だが、逃げ道はなかった。
「承知しておりますわ」
鏡花は星野から修正された確認票を受け取り、視線を手元に落とした。
「住所変更は総務で明日までに変更処理予定。通勤経路変更は経理確認中。時短勤務届は現場確認済み、運輸から総務へ回送。就労証明書は、住所と勤務時間の変更処理後に発行可能、と」
「あの、今日は、証明書は……」
駅社員が控えめに尋ねた。
「申し訳ありません。今日この場では、まだお渡しできません」
鏡花は首を横に振った。
「……そうですよね」
「ですが、現場側で止まっていた部分は進みました。ここから先は、総務と経理で処理します。確認票には、次に誰が何をするかを書きますわ」
「全部、終わった訳じゃないんですね」
「……ええ。まだ途中です」
鏡花は否定しなかった。
駅社員は確認票を見下ろした。
「でも、次に何を待てばいいかは、分かりました」
その言葉に、鏡花は少しだけ息を吐いた。
救えた訳ではない。
ただ、見えない場所で止まっていたものに、ようやく行き先が付いただけだった。
「ありがとうございました。……失礼します」
「お疲れさまです」
「はい」
駅社員が窓口を離れると、立花はその背中をしばらく見ていた。
「水本部長」
「はい」
「今のは、特例です」
「承知しておりますわ」
「部長同士と現場長で拾えば早い。ですが、それは早いだけです。続きません」
「ええ。続けるなら、正式な手順としなければなりませんわね」
立花は腕を組んだまま、少し考えた。
「本来ならば、本人の事情や諸々を分かっている現場で最初に受けるべきものです」
そう前置きして
「次からは、現場へ回す前に総務で聞き取りを揃えてください」
「伺うべき項目は?」
「子どもの送迎。転居先からの通勤時間。勤務可能な時間帯。代替勤務の可否。最低限、その四つです」
「確認票に項目を追加します」
星野が言った。
「ただし、可否判断は現場で持ちます。そこは渡せません」
「承知しましたわ。希望ではなく、判断材料として受けるのですわね」
「そうです。希望だけを回されても、現場は飲むか断るかしかない」
本当はそこまでやって本社に渡すんですがと、立花は顔をしかめた。
都合の良いことを言っているのは分かっている、だが今後を考えるとこうしなければならない。現場と本社の板挟みだった。
立花はそこで一拍置いた。
「それと、ここから先で止めないでください」
「はい」
「現場で止まっていると思われれば、また社員は現場へ聞きに来る。現場は答えられず、結局また本社へ来ることになる。本社側で止めれば、この紙はただの言い訳になります」
「承知しておりますわ。この紙を、言い訳にはいたしません」
「冷たいと思われますよ」
「ええ」
鏡花は確認票へ視線を落とした。
「ですが、理由も期限もなく待たせる方が、もっと不誠実ですわ」
立花はすぐには答えなかった。
「……そう言えるうちは、まだ良いですな」
それは皮肉にも、忠告にも聞こえた。
鏡花は、窓口の向こうへ目をやった。
駅社員の背中は、もう大部屋の入口を出るところだった。
書類を抱える腕は、前に見た時と同じように少し硬い。
確認票の空欄は、まだ残っている。
けれど、空欄の横には、誰が、いつまでに返すのかが書かれていた。
その背中は、前に見た時と同じように疲れていた。
ただ、どこへ戻ればいいのか分からない背中ではなかった。




