第二話 それぞれの今日、それぞれの明日 前編・下
鏡花のすべきことは決まっていた。
窓口申請の確認機能を形にすること。
だが、分かっていることと、手を動かすことはまた別問題だった。
機能移転を打ち出した当日に総務部内に事情を説明して、現在窓口に持ち込まれる申請書類の様式を全種類用意してもらったが、その書類の小山を前に鏡花は唖然としていた。
窓口担当者曰く、システムがダメになってから書類の種類だけで数倍、持ち込まれる申請書類は量にして十倍以上になったという。
以前は多くても一日に十数人程度だった窓口来訪者も、書類に比例して激増していた。
よってなし崩し的に他の仕事そっちのけで窓口対応に当たっているとのことだった。
ただ窓口対応は鏡花が着任する以前に、名越と総務課長が定年退職した元社員に非常勤で窓口業務を依頼できないかと打診していたのは幸いだった。
(あの方も、やり方とフォローの目が荒いだけで、届く所には必要な手当はしていらしたのね……)
引き継いだ話だと、四月の中頃には窓口対応担当者の増員ができるとのことで、既に鏡花の名前で決裁していた。
翌日からは星野に手伝ってもらって、一通り書類の用途を確認したが、これをミスなく処理している社員たちには頭が下がる思いだった。
改めて机の上に広がっている現在使用している申請書類を目の前にして、鏡花は口にせずにはいられなかった。
「システム化は偉大でしたのね……」
机に広げたのはいいものの、なにぶん種類が多かった。多すぎた。
緊急で倉庫の奥から引っ張り出してきたため、中には黄ばんでしまっている紙束もあった。
さらに厄介なのは、ほぼ同じ様式で微妙に記入内容が異なるもの、全く違う書式なのに似たような内容を記入するもの。
無駄にしか思えない。
そう考えていた。
だから鏡花が、なぜ似たような書類が多いのか。なぜ似たような手続きが多いのかと問うたのも自然なことだった。
その問いに対し、総務課長が苦笑しながら鏡花に教えてくれた。
「普通ならどう見ても無駄に見えますよね。私も若い頃にはそう思ってましたし、改めて書類を処理する羽目になっても無駄だと思います。でも残念ながらこれが各手続きに最適化された書式なんです」
苦労してシステム化したときには、二度とやらなくて済むと思ってたんですがね、と肩を落としたあたり、本当に大変なのだろう。
「ですがこれらは、言うなればコロコロ変わる行政の書類と制度、そして増える一方の手間。これに対抗してきた先人の知恵なんです。事務屋にとっての蟷螂の斧ですがね」
自虐めいた言葉は、疲労感と徒労感の表れと鏡花には聞こえた。
「それでしたら、昔のやり方に戻せばよろしいのでは、とも思うのですけれど」
鏡花が言うと、総務課長は首を横に振った。
「非常時用の手順書はあります。短期間ならそれで凌げます。ですがあくまで短期です。現状は既に短期じゃない。それに、そのまま昔の紙運用には戻せないんですよ」
「と、おっしゃいますと?」
「人も、棚も、台帳も、もう昔の配置じゃありません。今はシステムがある前提で机も書類保管も組み直していますから。紙に戻すなら、昔のやり方を復元するのではなくて、今の配置で紙が動く手順を新しく作る必要があるんです」
鏡花は、総務課長の言葉を静かに受け止めた。
つまり、自分がやるべきことは、紙処理の代行ではない。
現在の配置を考慮した上で、紙の導線を通すことだった。
机に広がる紙の山を見て、げんなりした。
「やはり今は、一見無駄に思える申請書類を整理するよりも、確認の体で入口だけでも整理しなければなりませんわね……」
願わくは、システム復旧の目途が立ち、一刻も早くこの努力が無駄になりますように。
そう心から思いながら、日常業務の合間に窓口申請の確認機能を整えるための下ごしらえに取りかかっていった。
「『仮受理』は駄目です」
高藤が、鏡花から渡された確認票の原案を見て、バッサリと切り捨てた。
その言葉を聞いて、鏡花の表情は挨拶の微笑みのまま文字通り固まった。
総務部長である鏡花が、総務課長、人事課長、庶務課長、管理課長、星野や窓口担当者といった総務部面々からのアドバイスを受けて作成した書類だった。
それを一言で否定されて、同行していた星野は無表情になった。
「理由を伺ってもよろしくて?」
努めて冷静に、その中に不満を一つまみ加えた声だった。
高藤は、原案の上部に書かれた「仮受理」の文字を指さした。
「受付票はすでにあります。受け取った事実を残す紙です。そこへもう一枚、受理と書いた紙を出せば、社員は処理が始まったと読みます」
「受け取った事実を分かりやすく残すための言葉ですわ」
「そこが危ないんです」
だが高藤には総務部の事情より、この書類によって生じる事実関係の正確性が大事だった。
「社員はそこを都合よく読みます。会社も都合よく逃げます」
言っている意味が一瞬理解できなかった。
「……逃げる、ですの?」
「そう逃げるんです。受付票は、受け取った事実を残すためのものです。それ自体は必要です。ですが、それだけでは行き先がありません。ただ『受けました』と書けば、どこかが持っていることになります。けれど、どこが判断して、いつ返すのかが空欄なら、ただ迷子に名前を付けただけです。行き先と責任が生じなければ、逃げます」
言い切った顔は、残念ながら、あなたのように出来た人ばかりではないんですよ、とでも言いたげだった。
鏡花は言い返しかけて、止まった。
受付票はある。
この紙で同じことを繰り返してはいけない。
必要なのは、受け取った後を見えるようにすることだった。
「……では、どう書けば経理にはご納得いただけますの?」
「そうですね……。『確認票』なら妥当なところかと」
高藤は赤ペンで、原案の表題を二重線で消した。
「受理ではなく確認です。受付票が受け取った事実を残す紙なら、これはその先を確認する紙にしてください。必要書類、確認部署、返答期限、保留理由。この四つが分かれていなければ、確認票とは呼べません」
そう言いながら、修正を入れた原案を鏡花に返した。
「申請者が書く欄と、総務が書く欄を分けますのね」
「そうです。申請者が書くのは、用件と持参した書類まで。必要書類の確認、確認部署、返答期限、保留理由は、受けた側が書きます」
言われてみれば、と言いながら鏡花は原案に視線を落とした。
当然のことだった。だが、その当然を紙の上に置けていなかった。
「すみません。その持参した書類は、現場の人は迷うと思います」
しばらく鏡花と高藤のやり取りを黙って見ていた星野が、遠慮がちに口を挟んだ。
「理由は?」
鏡花の短い問いに、星野は少し背筋を伸ばした。
「何を持ってくればいいのか分からない人が来るからです。持参した書類と書かれても、そもそも足りているか分からないと思います」
窓口で直接社員とやりとりする立場だからこそ、受付窓口での押し問答が起きそうだと感じた。
「……書く方が、何を書けばよいか分からない欄を、作ってはいけませんわね」
「確かに自由記入は迷子を増やします。なら用件別に、必要書類のリストを先に作ってはどうです。提出者側はチェック式。総務側で不足確認です」
「承知しましたわ。申請者が持ってきたものと、会社が必要とするものを、分けて置きます」
高藤の修正の横に星野の意見をメモした、元『仮受理』の紙を見てふと鏡花は呟いた。
「痛い言葉ですわね……」
「痛くない言葉でごまかす方が、あとで痛いですよ」
その通りですわね、と言って鏡花はしばらく黙っていた。
「経理としては、どこで線を引きますの?」
「数字と支払いの処理といったことは当然ですがこちらで持ちます。ですが、入口の説明順序と様式の型は総務で決めてください」
「よろしいのですか」
鏡花には意外に思えた。
「よろしい訳ではありません。ですがこのままでは、正しい処理をすればするほど人を迷わせます」
「では、差し戻しとして受け取りますわ」
「差し戻しではありません」
高藤は先ほど自分が目いっぱい赤ペンを入れて修正した原案の紙を指さした。
「分担です。差し戻しは、責任を返すことです。分担は、責任を分けて持つことです」
「……分けて、置く、ですのね」
「綺麗に言えば、そうです。実務では、どこが持つかを曖昧にしないということです。少なくとも私はそうしてます」
鏡花の手にあるのはただの紙なのに、今はそれ以上の重みがあった。
責任。
鏡花は、ベイローレル総務部長として一歩前進なのかもしれない、と感じていた。
鏡花が書類と悪戦苦闘している頃、名越の方では正式に本社屋の詳細調査を依頼し終えて、『例のビル』の処遇を考えていた。
本社前の道から敷地内に入り、隣の建物との隙間から雑草を踏み分け建物裏へ、そして再び本社前の道へ。
本社屋の周囲をそうして回ること数周。
(例のビルが赤字垂れ流しの不良資産と聞いてしまった以上、せめて止血はしなければならない。ただでさえ復旧工事やらなんやらで財布はカツカツの状況。本社の移転は悪くない案だと思うんだがねぇ……)
立ち止まって建物の外観を上下左右と見回しつつ、そんな事を考えていた。
「本部長、何してるんですか?」
「ああ、小早川さん。何って、建物の状態を実際に見ているんです。小早川さんこそどうしたんです?」
名越の問いには答えず、小早川はどこかに連絡していた。
「不審者を発見しました。……ああ、問題ないです。本部長でした。探す手間も省けたから良かったですよ。ええ、下でお待ちしてます」
なにやら不穏な言葉が聞こえたが、よく分からなかった。
「なんかあったんですか?」
名越が少し身構えて聞くと、
「……いえ、会社の周りに不審者が出た上に、本部長がいないんで探索していたんです。でも無事解決しました」
よく分かっていない様子の名越に、小早川は大きなため息一つつきながら、
「さっき総務部に「建物の表から裏をぐるぐるぐるぐるぐる回っている不審者がいる」と連絡があったんですよ。もしやと思い確認しにきたら案の定我らが本部長でした。そしてその本部長を俺と総務部長はまだか、まだかと待っていた。ここまで言えば分かりますよね?」
あっ、と名越は思い出した。
「やっぱり……。不審者ごっこしていて『例のビル』に行く予定を忘れていた、と」
「不審者ごっことはなんですか。会社の資産活用について考えていたんですよ。仮にこの建物を更地にしたらおおよそ何平米の土地になり、用途地域を考慮するとどういった建物を建てられるかとか、更地のまま売り出したら値付けはどの程度になるかとか。予定はまぁ……、すいません。気づいてなかっただけです」
その言葉に小早川がまた大きなため息をついた。
「……とりあえず。総務部長が降りてきたら、すぐに向かいましょう」
その後名越は現地に着くまで、鏡花のありがたい言葉の数々をノーガードで頂戴する羽目になったのは言うまでもない。
「本当に、駅近、築浅で一棟まるごと空いている物件なのですわね」
水本駅近くの十数階建てのビルを見て、鏡花は半ば呆れていた。
名越と小早川にとっては二度目だったが、鏡花にとっては初めて見る『例のビル』だった。
「ええ、本当は満床御礼で大入り袋を出せる立地なんですがねぇ……」
ビル一階の正面玄関に小早川の声がむなしく響いた。
鏡花が、実際に現場を見てみないことには機能移転の構想も立てられないと言ったので、それもそうかと名越、鏡花、小早川の三人で実地調査も兼ねて下見に来たのだ。
「わたくしも最初に耳にした時に「そういえばそんなビル、ありましたわね」とは思っていましたが、まさかわたくし自身が当事者になるとは思いませんでしたわ……」
「……で、これがさっき高藤の姐さんに出してもらった、直近三年間のこのビルの収支です」
小早川が一枚の資料を取り出して鏡花に手渡す。
「なるほど、収入はゼロ。支出は……」
「あらあら……」と声を上げて、思わず刮目するほどだった。
赤字か黒字で言うならば、素晴らしく赤字だった。
「売ろうにも売れず、貸そうにも借り手がつかず。設備も整っている分、ご覧の通りです」
小早川の言葉を聞いた鏡花は思わず眩暈がした。
「鏡花さんも知ってしまいましたか。いや赤字もここまで来るともはや芸術ですよ。手入れも行き届いている良い物件なんですがねぇ」
いつの間にか名越が鏡花の手元の資料をのぞき込んでいた。
「……どちらにいらしたのです?」
「無粋ですねぇ。ちょっとお手洗いに行っていたんですよ」
その言葉を聞いて、なにかありがたい言葉を言いたそうにした鏡花を制して、
「よく言うじゃないですか、その会社の状態はトイレを見れば分かる、って」
いや今回は物件か、あれ?トイレじゃなくて靴だったか?などと、なんともマイペースなことを言いつつ、
「いやしかし、本当によく手入れされてますよ。今すぐにでも店子を入れても問題ないですよ。こんな良い物件が空いているなんてもったいない」
鏡花と小早川を見ながら、名越は両手を小さく開いてから手を合わせた。
「ですが空いているから使う、では弱いんです」
「空いているのは事実でしょう?」
「ええ。名越さんのおっしゃるとおりです。空けたままにしておく理由はない。街の真ん中に、うちの大きな空き箱が立っている。それだけでも十分な損失です」
名越と小早川のやり取りを聞いて、鏡花は改めて建物内部を見渡しながらつぶやいた。
「空き箱、ですか」
「綺麗な箱です。ただ、誰も入っていない。外から見れば、会社が抱えたまま使えずにいる箱です」
小早川の言葉が虚しく「綺麗な箱」にこだました。
「使いたいんですがね。使えば本社だけ安全圏に逃げたように見えてしまう、か」
名越の言葉に付け加えるように
「だが使わなければ、諦めて放置しているように見える。どちらも嫌な絵です」
ビルの来歴を知っていてかつ、外からの見え方に敏感な小早川らしい言葉だった。
「でしたら尚更、最初に置くものを間違えないことが肝心ですわ」
鏡花は正面玄関からエレベーターホールまでを見渡した。
「一階は人を受け止められる場所としては十分すぎますわ。ですが、このままでは外から丸見えです。受付済みの書類の進捗確認だけならともかく、時短勤務や住所変更の聞き取りをここで行う訳にはいきません」
「個人情報を扱うのですから当然、ですか」
小早川が言うと、鏡花は頷いた。
「ええ。相談窓口ではありませんが、聞き取りは発生します。仕切りのある部屋と、社内便を受ける場所、それから書類を一時保管する棚が必要ですわ」
名越はエレベーターホールの案内板を見上げた。
どの階にも、テナント名は入っていない。
「……空いている、ということは、全部こちらで決められるということでもありますね」
名越は意味ありげな笑みを浮かべて、
「良い意味でも、悪い意味でも」
小早川は口元だけを緩めた。
「何もない箱は、動かしやすい。ですが、何もない箱をそのまま見せると、不安も呼びます」
鏡花はそこで、もう一度玄関へ視線を戻した。
「でしたら、最初に見せるものを間違えないことですわ。ここを本社の避難先として見せるのではなく、受付済み書類の確認拠点として整える。看板も、動線も、その前提で作るべきです」
「なるほど。理屈ではなく、見せ方から作る、と」
「見せ方だけではありませんわ。ここで本当に確認できなければ、ただの看板になります」
「確かにその方が色々と通りは良いですね。外向きにも、社内向きにも。ただ、諸費用と動線設計は少し詰める必要があります」
「ええ。その点に関しては小早川さんがお得意でしょうし、名越さんは、言うまでもありませんわ」
鏡花に言われてしまっては、名越は小さく笑ったこう言うしかなかった。
「ご随意に」




