第二話 それぞれの今日、それぞれの明日 前編・上
翌日。
四階会議室に集まった全員の視界の端で、会議卓の中央に置かれた黄色い紙が、まるでこの場の主役であるかのような存在感を放っていた。
応急危険度判定。要注意。
名越はその紙を見て、短く言った。
「応急危険度判定の結果、要注意だそうです」
集まった者に向かって、
「結論から言いますと、ひとまず現社屋を詳細に調査しようと考えています」
と、今後の方針を簡潔に伝えた。
「建物の経年を考えると遅かれ早かれこの手の調査は必要でした。しかし応急危険度判定のみではこの先の判断はできません。ですから詳細調査の結果を受けてから最終判断します」
誰も大きく驚かなかった。
前日のうちに、名越が出席者に最低限の説明を済ませていたからか、驚きは昨日のうちに使い切られ、ただの儀式であるかのように進んでいた。
「調査だけですか?」
高藤のその声に昨日の問いと警告を思い出すが、ひとまず形式上聞いたのだろう。
「あくまで調査の結果次第ですが、私は移転を視野に入れたものと考えています」
答えが今すぐ出ないことくらい、彼女も分かっているはずだった。
「本社移転となれば、それ相応の費用と説明が必要です。建物の詳細調査、引っ越し、この建物を維持するならその維持、取り壊すなら解体、移転先のオフィス整備。全てに相応の費用が掛かります。どこから出すんですか」
高藤の声は、昨日と同じ場所を正確に突いてきた。
名越には、形式上聞かずには済ませられない、とは聞こえない声だった。
(昨日逃げた分、この場で明確にしないと容赦しない、か)
「出費が嵩む一方の我が社の現状では、経理部長の懸念はごもっともだと思います。ですが外部から見たとき、例えば取引先や銀行の方が本社正面に大々的に貼り出されている、『応急危険度判定、要注意』の文字を見たときどう思われるか。心象は確実に良くないでしょう」
露骨なポジショントークに高藤は眉をひそめていたが、小早川はお構いなしだった。
「私でしたら建物に入るのもためらいます。そして事務所に戻ってこう言うかもしれません『あの会社は、状態が悪いのかもしれない』と。なんの状態かは人それぞれ捉え方が違うでしょうがね」
芝居がかった口調で話し終えた小早川は、少しあからさまに建物の危険性を語っていた。
だが小早川の言うことももっともで、確かに見え方の点では悪印象と名越も考えていた。
高藤や小早川の話を尻目に、先ほどから立花は腕を組んだまま、ずっと黄色い紙を見据えていた。
「本部長。既に莫大な復旧費用が掛かると決まっていることを忘れてはいませんな?」
「もちろんです。ですが本社も完全に安全ではない以上、会社を預かる立場としてはバランスが大事だと考えています。そこをご相談したくてお呼びしました」
「相談ではなく、決まったことの帳尻合わせをどうするか、に聞こえます」
高藤の一言は、集まった者たちがどこかで感じている思いを代弁しているかのようだった。
昨日から名越は三度、痛いところを突かれた。
(決め切れていないのはお見通しですか……)
本社屋、費用、復旧工事。
全ての問題が絡み合い、三すくみになっていた。
会議室の中で、誰が何を口にするかの探り合いのような空気と思惑が絡み合っていた。
その絡まりに、鏡花が静かに手を入れた。
「建物の問題と、機能の問題を分けませんこと?」
視線が一斉に鏡花に集まった。
「建物が危ないから引っ越す。単純な話じゃないですか。それを機能の問題と分けるとは?」
小早川の疑問は、思ったことがつい口をついた、といったものだった。だが鏡花は、我が意を得たりと微笑みを浮かべていた。
「部署を動かす前に、まずは人が迷っている入口を外へ逃がすのですわ」
入口。
その言葉を口にした瞬間、昨日見た社員の背中が、鏡花の頭をよぎった。
あれは、建物が動けば解決する問題ではなかった。
「入口、ですか」
名越が問い返し、鏡花は頷いた。
「はい。今の本社は、書類を受け取ることはできています。受付票もお返ししていますわ。ですが、受け取った書類を誰が持ち、どこで止まり、いつ返るのかが見えなくなっています」
鏡花はそこで一度、言葉を区切った。
「社内便で出した書類でも、進捗が返らなければ、締切を抱えた方は本社まで来るしかありません。総務、経理、現場のあいだを巡っているのは、書類そのものではなく、その行方を確かめようとする社員ですわ」
「端から見れば、駅前に相談所を出すように見えますね」
小早川が眉を上げた。
「相談所ではありませんわ」
鏡花は静かに返した。
「相談を受けるだけなら、また持ち帰りになります。今必要なのは、誰が持っているのか、いつ返せるのか、その場で確認できる入口ですわ」
「なるほど。ただの案内板ではなく、指令卓に近い、と」
鏡花の説明に、高藤が鋭い口調で切って返した。
「総務が全部持つように聞こえます」
「いいえ」
「ですが、そう見られます。受付票と確認票の線が曖昧になれば、社員は確認が始まった時点で処理も進んでいると受け取ります。経理も運輸の内勤も、あとから聞いていないとは言えなくなる」
高藤の声は先ほどよりさらに冷たく、低かった。
だが、その冷たさは拒絶感から来るものではなく、あくまで理屈の穴を塞ぐもので、そのためには追い詰めることも厭わない冷たさに思えた。
「ですから、受理とは申しませんわ」
鏡花は高藤へ視線を返した。
「確認、ですわ。受付票は、受け取った事実を残すものです。確認票は、その先を残すもの。何を持ってきたのか。必要な書類は足りているのか。どの部署が判断するのか。いつまでに返すのか。そこまでを、最初に分けますわ」
高藤はその答えに何か言いたそうだった。
そんな理屈が通用するか高藤には疑問だったが、それ以上に肝心なことを確認した。
「それで処理が軽くなる保証はありますか」
「保証ではありませんわ。現状把握です」
鏡花は微笑まなかった。
「現状では、誰が、どこで、何を待っているのかすら見えておりません。見えていないものは、軽くも重くもできませんわ」
立花が、そこで初めて椅子の背から体を起こした。
「言葉はともかく、現場側から見れば、実態が改善されるのであればそれだけでも違いますな」
名越は立花を見た。
「今は社内便で出して、受付票が戻ってきても、その先が見えない。勤務変更、通勤経路、就労証明、住所変更。どれか一つで止まれば、本人は結局、本社まで確かめに来るしかない」
立花はそこで一度、黄色い紙から視線を外した。
「現場から一人抜ければ、その穴を誰かが埋める。半日戻らなければ、半日分の仕事がどこかへ寄ります。本社に行った社員がなかなか帰ってこない。あそこは大迷宮なんだ、なんて笑うに笑えない話がまかり通っていますからな」
立花はそこで言葉を切った。
名越にとっても、鏡花にとっても、耳が痛い話だった。
それから、
「ただし、確認機能を外へ出すと言うなら、現場としては諸手を挙げて賛成、と思われても困ります。手間が減る分には助かる。ですが、それは復旧作業や現場の業務に、予算面や人員配置で支障が出ないなら、という前提の話です」
いつの間にか立花の目は鏡花を見据えていた。
「本社の都合で現場の足を引っ張られるのは、困ります」
お前は総務部長だから分かっているだろう?立花の目はそんな風に言いたげだった。
鏡花は、立花の視線を正面から受け止めた。
ここで目を逸らせば、総務が現場の時間を軽く見たことになる。
「承知しておりますわ」
鏡花は静かに頷いた。
「受付を増やすための窓口ではありません。受付済みのものを、どこまで確認できるかを分けるための窓口ですわ」
「聞こえは悪いですな」
小早川は内心感じたことを、あえてそのままぶつけた。
「ええ」
鏡花は否定しなかった。
「ですが、進んでいないものを進んでいるように見せる方が、もっと残酷ですわ」
そこで短い沈黙が流れた。
「そこで、例のビルが出番ということですな」
小早川がおもむろに口を開いた。
「本社を移すには早い。けれど、確認のため窓口を置くならば、理由として立つ」
「ただし、空いているから使う、では弱いです。例のビルへの移転費用も、人員の再配置も、タダではありません。何かしらのコストが発生します」
高藤は、このまま赤字を垂れ流されるよりマシだが、そのためにもっともらしい理由と場の空気だけで経費をかけることには疑義を呈さざるを得ない。そう考えていた。
「それに、内部の者からは現場より本社を優先した、本社だけが例のビルという安全圏へ逃げたように見える」
小早川が続けた。
「だが現社屋に黄色い紙を貼ったまま使っていても、外からは運輸業の会社が安全軽視していると受け止められかねない。どちらにせよ見え方が悪い」
さて困りましたな、と言ったものの、小早川は特段困っている口ぶりではなかった。
コストより安全、そして稼働率。さらに多少の出費で信用が保てるならむしろ安いもの、と言いたげだ。
鏡花が取るべき位置は、
「だからこそ、最初に置くのは本社機能ではありませんわ」
内と外の中間だった。
鏡花は静かに返した。
玉虫色と言われようが、名より実。
「置くのは、確認機能です。受付済みの書類が、今どこにあるのかを見えるようにする場所ですわ」
「なるほど。本社の避難ではなく、滞留している手続きの見える化ですか」
小早川が口元だけで笑った。
「外向きには、そちらの方が通しやすいですね。本社だけ逃げた、とは言われにくい」
「社内向きにも同じですわ。本社機能より先に、社員が困っている導線を外へ出します」
名越はしばらく黙っていた。
黄色い紙は、まだ会議卓の端に伏せられていた。
建物の危険を示す紙だったはずなのに、いつの間にか話は、書類がどこで止まっているかに移っていた。
だが、名越にはそれが脱線とは思えなかった。
建物を動かす前に、会社の入口を動かす。
それは、今この場で決められる範囲の話だった。
パンッ、と手を叩くと
「分かりました」
名越は顔を上げた。
「現社屋の詳細調査を入れます。同時に、例のビルを使用するとしてどの程度の費用感かも確認します」
高藤が釘を刺すように尋ねた。
「移転決定ではありませんね」
「ええもちろん。まだ決定ではありません」
名越は、未決定を強調した。
「ただし、先行させる機能の第一候補は、申請書類の確認機能としましょう。受付そのものではなく、受付済み書類の進捗、確認部署、返答期限、保留理由を整理する機能です」
名越はそこで一度、全員を見た。
「確定した処理は各部署で。水本さんが確認導線と確認票の設計。例のビルを使う準備費用の粗計算と今期予算への影響の確認を高藤さん。現場の人員繰りや工程への影響は立花さん。例のビルは小早川さんですね」
小早川が、そこで鏡花を見た。
「水本さんは、全体の取りまとめですか」
「そうですね」
名越は頷いた。
「確認機能の設計は水本さんにお願いします。ただし、各部署の処理責任まで総務に集めるものではありません。そこは分けてください」
名越が言うと、鏡花は一拍置いてから頷いた。
「承りましたわ。ただし、進んでいないものを、進んでいるようには書きません」
「そうしてもらえると助かります」
名越は苦笑した。
「今、なんでもやりますって言ったら、色々と終わります」




