第一話 失敗とはじまり 後編
(まずは事務処理の混乱に手を打つのが先か、それとも目に見える形の本社機能復旧が先か。少なくとも一度に両方抱え込むのは現実的ではないですわね……)
「鏡花さん、今、いいですか」
思考の迷路から引き戻したのは名越だった。
「……ええ、本部長。何かご用ですの?」
言うが早いか、名越は鏡花の机の横にある丸いゴミ箱に腰を掛ける。
「……差し出がましいようですけれども、そこは座るところではないと思いますわ」
「ケツの据わりが良いんですよ」
(そういうことじゃないと思うのですけれど……)
鏡花が席に座り、名越がゴミ箱に座ると、必然的に机の影に名越が隠れて、鏡花を見上げることになる。
鏡花は諦めて話を促す。
「ちょっと、このタイミングではあまり嬉しくない知らせがありましてね」
名越はそう言って、一枚の黄色いステッカーを差し出した。
「応急危険度判定、ですの?」
「ええ。先ほど建築士の方が調査に来まして「これを入口に貼ってくれ」とのことでした。で、見ての通り」
「……要注意、ですわね」
「普通のお宅なら極端な話、自己責任で住み続けることもあるんでしょうが。オフィスビルで、しかもこの使い方です」
「余震が来た時の危険性と、近隣や事業への影響を考えれば、本来は早く手を打つべきですわね」
「で、問題はここからなんです。……着任早々で申し訳ないんですが、事務の問題とは別件で、建物の都合まで乗ってきました。めでたく二正面作戦です」
「まったく、めでたくありませんわ。……頭の痛い話ですわね」
「けが人でも出した日には、痛いでは済まない、ってのが厄介ですねぇ」
名越はしばらく目を押さえながら考えた。
「……まぁ、とりあえず高藤さんと小早川さんにも話してきます。それから会議ですね」
はぁ、どっこいしょ、とかけ声と共にゴミ箱から重い腰を上げると、
「ではそういうことで」
とだけ言って名越はそそくさと大部屋から出て行ってしまった。
(事務処理の混乱と本社機能の復旧、両方やらなくてはならなくなりましたわね……)
机の上には、先ほど見た黄色いステッカーの残像が残っていた。
鏡花はしばらくそれを見つめたまま、動けなかった。
「小早川さん、ちょっといいですか」
小早川のもとを訪ねた名越は、鏡花と同じ話をしていた時と打って変わって、軽さは消えていた。
「少し、いや、かなりマズいことになりまして」
小声で話しかけながら、応急危険度判定のステッカーを見せた。
それが何を示しているのか、何を話したいのか察した小早川は、
「場所を変えましょう。本部長」
短く耳打ちをして、
「なぁんだそのことでしたか。それはこっちですよ。ついてきてください、さあさあ」
と名越の背中を押しながら、少しわざとらしく営業部から強引に連れ出した。
そしてそのまま社外に連れ出された名越は、小早川と二人並んで歩いていた。
街路樹の桜はいつの間にか満開を迎えていた。
「……やはり見た目に騙されてはいけませんね」
満開の桜を眺めながら、名越が呟く。
「古い建物ですからなぁ。確か築五十年以上のはずです。経年劣化とメンテナンス不足で、地震の前から見えにくいところでは鉄筋の爆裂とかがありましたから、遅かれ早かれ、でしたよ」
「そう考えるとあの程度で済んだのは、不幸中の幸いですね」
その言葉に小早川がうなずく。そして、
「で、あの建物の要注意判定受けて本部長はどうお考えで?」
「……正直、どこから手を付けるべきか、今ちょっと分からなくなっています。組織か、建物か」
それっきり名越は黙ってしまった。
(だろうな)
それが小早川の素直な感想だった。
やり方は決して褒められたものではないが、自分に足りないものを補うべく鏡花を呼んだ。名越のその心情自体は理解できなくはなかった。
(限界まで抱え込んで突然爆発するのが玉に瑕、だがな)
強引な手を使ってでも、組織の形を修復したかったのだろう。
しかしここに来て、建物の問題だ。どちらも最優先だが、どちらを優先すべきか。
「名越さん。とりあえず順番だけは決めましょう」
だが小早川の一言は単純な親切心からという訳ではなかった。
一つだけだが、長年の懸案を潰せるかも知れない、そんな損得勘定もあった。
「組織も建物も手当てしないといけない。だが組織に関しては鏡花さんが入った結果、今日明日で会社が今以上の危機に陥る可能性は大分遠のいたはず。なら建物でしょう。専門家が注意と言った以上、対応せずにけが人でも出したり、近隣さんに迷惑を掛けることになったら目も当てられない」
少しオーバー気味な身振り手振りを交える小早川の言葉を、名越は黙って聞いていた。
「だから順番を少しでも後にするなら組織です。組織の問題は、ひとまず内部に収まる。時間稼ぎもしやすい」
その分痛みは長引くかも知れませんがね、と付け加えると
「ただ建物の問題は外部に関わる問題です。そして失敗も成果も分かりやすい。つまり目に見えて信用に傷がつく可能性が高い」
小早川はあえて胡散臭いポジショントークに聞こえるように話していた。
決して親切心だけではないことに対する、後ろめたさがあったのかも知れない。
だが名越には、その小早川の軽く聞こえる言葉がむしろありがたかった。
「小早川さんの言うことももっともですが、今すぐ全部署移動は難しいでしょうから、そうですね……、一部機能の移転、ならどうでしょう?」
名越にとっては部下の意見を聞き入れたことになる。
そして小早川にとっては、
「なら丁度良い物件があるんですよ、お客様。丁度一棟まるごと空いている物件がありましてね。駅近、築浅で……」
そこまで言って言葉を切った。
「建てた時点でオフィスビルの需要予測を外していた上に賃料設定も誤った結果、テナントは入らないわ、客より持ち主の回転率の方が高いオフィスビルが」
空き物件を埋める目途が立つ。
そんな物件で大丈夫なのかとか、そもそも何でそんな物件をウチが持っているんだとか、色々な疑問が名越の口から出かけたが、
「……なんだか、本社だけが安全圏に逃げた、とか見られそうですね」
最終的に出た言葉は、外からの見え方を気にしたものだった。
小早川の言うことに合理性はあったが、心情的にはこれ以上身勝手を重ねて良いのか葛藤があった。
「残念ですがいくら理由を付けても、多かれ少なかれそう見られるでしょう。ですから高藤の姐さんには説得力の裏付けとなる数字と説明の筋を作ってもらうために、一枚噛んでもらわなければならない」
小早川もそう易々とことが進むとは考えていなかった。
「……分かりました。まず高藤さんですね」
「ええ。外へ出す前に、中で説明の筋は通しましょう」
春なのに、何一つ春らしく進んでいないと感じる。
だが、名越にとって次にするべきことが決まっただけでもマシだった。
「とりあえず物件の内見でもどうですか、お客様」
「小早川さん、その前にメシにしましょう。不動産は逃げませんよ」
二人の思惑は違えども、腹が減っては戦ができぬ。自然と物件近くの喫茶店「さくら」へ足が向いていた。
名越は小早川と件のオフィスビルの現地視察を終えて本社に戻ってきていた。
「まさか本当にあんなに立派な入居率ゼロのビルがあるとは……」
改めて小早川の頭痛のタネとなっているビルを思い出す。
比較的築年数の浅い十数階建てのビル。
元々全く関係の無い企業の所有物件だったらしいのだが、諸事情により短期間で所有者がコロコロ変わり、権利関係が複雑になった結果、さる筋からの「かなり強めのお願い」で引き取った、とのことだった。
現状が気になり小早川に聞くと、
「今ではすっかり綺麗になって、完全にウチの物件です」
名越はその言い回しが引っかかった。
「あー……。もしかして……」
小早川は静かにうなずき、
「あの時は長屋さんと高藤の姐さんと一緒に裁判所やら役所やら、しまいにはどう見ても本職にしか見えない方やら。とにかく大変でしたよ……」
遠い目をしていた。
それ以上詳しい話はとても聞く気にはなれなかったが、中々に香ばしい物件だった。
そしてその頃の悪評が先立ち、未だに空きテナントとなっているという。
(そりゃあ、小早川さんも必死になるわな……)
高藤のところに事情説明へ向かう名越に、小早川は拝み倒さんばかりの勢いだった。
つい先ほど別れた小早川の必死の形相は、本当に困っている人間のそれだった。
(とはいえ、この建物の継続使用は危険なので引っ越しましょう、丁度良い物件もあることですし、だけでは弱いんだよなぁ)
経理部の入り口横で、名越はかれこれ五分から十分は考えていた。
(そもそも、引っ越しましょうそうしましょう、で実行できるほど甘くないんだよなぁ。絶対言われるよなぁ。荷物は?費用は?その間の本社機能は?そもそもこれからもっとカネがかかるのに優先順位が違うのでは?建物より組織の綻びの対処が先では?って)
考えれば考えるほど、名越の胃が悲鳴を上げていた。
「他人のところの入口で何してるんですか?」
不意を突かれて、「ぅおぉぉう!」と変な声を出してしまった。
「ど、ど、どうしたんですか高藤さん、急に。決裁に不備でもありましたか?」
ビックリして挙動不審になる名越に、
「……こちらのセリフです」
高藤はもの言いたげな目を向けていた。
「ウチの新人が気を遣って出られないんです」
高藤の後ろでは新入社員とおぼしき数人が困惑した顔で立っていた。
「まぁ、立ち話もなんですから、中で話しましょう」と取り繕うように名越が部屋の中を指すが、
「……そこは経理部です」
「ははは……」
嫌な汗が名越の背中を流れた。
鏡花と小早川に説明したことと、紹介されたビルのことをかいつまんで高藤に説明すると、
「……あそこですか」
高藤は短くそう言ってから、何事もなかったように続けた。
「なるほど。確かに上手くはまりますね」
名越が考えていた反応とは違い、少し肩透かしを食らった気分だった。
「ええ、決して悪い話ではないとは思うんです。……ちなみにあのビルの大体の収益は?」と月の収支を名越が尋ねると、高藤は即答で耳打ちした。
「収入はゼロ、支出は……」
「おっふ」と変な声を上げて、思わず瞠目するほどだった。
赤字か黒字で言うならば、すごく赤字だった。
「ですから、経済的合理性の観点で考えるならば、むしろ活用しなければなりません。しかし、引っ越し費用は?その間の本社機能は?この社屋の扱いは?そもそもこれからもっと他にも費用がかかるのにその説明は?」
高藤は容赦なく名越が上手く言葉にできていなかった問題に切り込む。そして、
「他にも整理しないといけない課題はあります。ですからこの建物の使用が不適なのは分かりますが、問題に対して答えを用意せずに社内を通すことはできません。もし先日のように押し通すなら、なにがとは言いませんが、終わるでしょうね」
名越は喉元に刃を突きつけられた気分だった。
「……とりあえず事情が事情なので、あとで協議しましょう」
高藤が発した警告以上の言葉に対して、そう返すのがやっとだった。
名越は席へ戻りながら、久しぶりに社内外を歩き回ったこと以外の疲労を感じていた。
小早川の思惑も高藤の条件も、そのどちらも間違っていないことは痛いほど分かっていた。
(疲れるなぁ……)
ただ、分かっていたことと現実問題として突きつけられることは別問題だった。
(疲れるなぁ……)
自席に戻った名越はしばらく何をするでもなく椅子に深くもたれかかり、ぼぉーっと天井を見つめていた。
「……本部長。……本部長。……名越さん!」
「……⁉」
視界の端で何か動いていた気がしたが、何度か呼ばれてようやく我に返り、現実に引き戻され姿勢を正した。
「お疲れの所申し訳ありませんが、ご相談したいことがありますの。少々お時間よろしいですか?」
先ほどから視界の端にいたのは鏡花だった。
「すいません、さっきの建物の件がもう、アレでして……」
「建物の件って。応急危険度判定の件ですか?」
「ええ。もう大分アレなんです」
鏡花が困惑しつつも
「指示語ばかりですわね……。アレとは何なのですの?」
「……高藤さんと小早川さんにも話してきたんですが、やはり建物の件はそれなりに急がないといけないですね。物件はあるんですが……」
「建物の危険性は承知しておりますわ。ですが、今のまま移転しても混乱ごと運ぶだけですわ」
口に出しながら脳内を整理するような話を、鏡花がぴしゃりと断ち切った。
ムッとした名越は、少し身を乗り出す姿勢になり
「それでもです。純粋に優先順位だけなら建物です。確かに混乱に対処しなきゃならんのは分かりますがね、その間に何かあったら謝って済む問題ではなくなるのですよ」
「でしたら自ずと取れる対応は限られて来ますわ。いっぺんに全部どうにかしようとするからいけないのです。ひとまず先に逃がすモノだけでも決めれば、建物の件への対応もそれに合わせたスピードになりますわ」
あくまで冷静に鏡花は話を続ける。
「総務を移す、経理を移すといった具合に、部署毎の移動がオーソドックスなのでしょうが、残念ながら現状はそう簡単な話ではありませんの」
冷静な口調に反して、話は熱を帯びる。
「例えば、就労証明書や時短勤務届といったものは、受付票が出ていても、その先の進捗が見えなければ本人は動けませんの。書類は届いた。けれど、誰が持っていて、いつ返るのかが分からない。締切を抱えた社員が本社まで来てしまう理由はそこにありますわ」
鏡花は一度、言葉を切った。
「加えて、本人の家庭事情を聞き取らなければ判断材料が揃わない案件もあります。書類だけでも、電話だけでも済まないものですの。そういった歪みや負荷を切り分けて考えませんと、いくら場所だけ変えても同じことですわ」
名越は反論したかった。だが鏡花の言うことも一理ある。
「……つまり、建物の問題と組織の問題は一蓮托生、と?」
「ええ。一心同体、竹馬の友とも言えますわ」
少し間を置いて、
「ただのお引っ越しでは済まないことは分かりました。高藤さんと小早川さん、現場も無関係じゃないので立花さんも呼んで、少し『お話し』しましょうかねぇ……」
名越は手を組みながら右手で頬杖を突いて、鏡花ではない何か遠くを見つめていた。
「ええ。何を優先して移すのか、それだけでも決めませんと」
新体制の船出は、春の陽気とは違って穏やかではなかった。




