第一話 失敗とはじまり 前編
名越の自己クーデターは、あくまで表向きは成功した。
だが、それが社内に受け入れられているかとなると、話は別だった。
「……やはり、そう上手くはいかないよなぁ」
と名越は新たに事業統括本部長の席となった自席で、手を組みながら右手で頬杖を突いて、天井の一点を見つめていた。
今朝、社長室のあるフロアで偶然耳にした会話が、脳裏にこびりついていた。
声に聞き覚えがあった。
恐らくは先日までの直属の部下たち。
「長屋さんが不在になったと思ったら、水本さんを連れてきて。名越さんは何考えてるんですかね?あれで仕事が回ると思えないんですよね」
「仕事云々より、自分のやりやすいようにしたいだけだろ。これだけ引っかき回して、上は仕事している気になるんだから、おめでたいわな」
「あんなにすったもんだして、結局人が変わっただけですよね。また第二の長屋さんを作ったようにしか見えないですよ」
「ホント、やりたい放題だよな。タバサさんの次は水本さん。ウチはいつから出入り自由になったんだよ」
「仕方ないですよ。ウチの実質トップはゴミ箱をホームランする人ですよ?」
元部下たちの会話に居たたまれなくなり、静かにその場を立ち去った。
さもありなん。
そう受け止めるしかなかった。
(反省はしても、後悔はしない)
自身のポリシーとも言えるその一文がむなしかった。
(やり方はともかく、今必要なことをやった。けど……)
分かっていて決行した故に名越の悩みは尽きなかった。
総務部長に就任した鏡花を最初に待っていたのは、決定の理由や説明ではなく、名越の机から引っ越してきた書類の山だった。
それでも量は名越の机に積まれていたものの約半分だった。
名越はやたらニコニコしながら書類を移動していたが、それを見ていたタバサは「お疲れさま」という哀れみを込めた目でこちらを見ていた。
鏡花はまだ、タバサとまともに話せていない。
(わたくしを歓迎してくださるのはこの子達のみ、ですのね)
そんなことを思いながら、書類の山を切り崩していった。
ベイローレルに来てまだ数日ほどだが、書類を無心で片付けながら頭の片隅で考えていた。
今のところ鏡花の耳に入る自身の評は「所詮上から来た人」とか「長屋さんの代わりの人」だった。
取り急ぎ何か目に見える結果を出さなければ、名越との約束どころではなくなってしまう。
不安はすぐに焦りへと変わった。
なにかすぐにでも手を付けなければいけないところはないか。
すぐに思いつくだけでもいくつかあった。特にこの本社に関することだ。
挨拶回りに各部署を回っていた時だ。
改めて本社屋を歩いてみると、とにかく使いづらく、そして物が多かった。
災害発生から一か月弱では仕方ない状況と言える。そして建物が使えているだけマシかもしれない。
だが、壁という壁に重なる張り紙。スペースさえあれば段ボールの山、山、山。資材、搬入物の間を曲芸のように人がすり抜け、すれ違う。空いている部屋は行き場のない机の倉庫代わり。
ただの挨拶回りのはずが、そんな混沌とした社内を一回りする頃には、別種の疲労感に襲われていた。
とにかく物理的にも心理的にも壁が多く、皆急いでいるのに進んでいるようには見えない。
そんな感想を持った。
今朝、受付窓口で見たやりとりが引っかかったのも、同じ理由だった。
駅社員らしい女性が、書類を受け取ってすぐに困った顔をしていた。
確か用件は、こども園利用のための就労証明書と、以前社内便で出した届出の状況確認だった。
受付票は届いている。
住所変更届も、通勤経路変更届も、時短勤務届も、本社に届いたことは分かっている。
分からないのは、その先だった。だから、直接本社まで来たらしい。
だが、受け取った就労証明書を見て
「今、この住所じゃないんです」
「……こちらのデータではその住所が反映されてないですね。住所変更届は出されてますか?」
「先月の内に社内便で出しています。受付票もあります」
「ちょっと待ってください。ねぇ、この人の住所変更届って来てる?」
窓口に出た社員が、別の社員へ声をかける。
「えーっと……、来てますね。来てますけど処理が……」
あぁ……。
窓口を挟んで二人の社員が同じように、疲れと諦めの混じった顔になった。
「……申し訳ないです。今、社内システムが限定運用になってるせいで、進捗の確認が手作業になっていまして……」
「通勤経路の変更届と、時短勤務届も出してるんですが……」
駅社員が確認すると、窓口社員が何度か別の社員に確認してから、さらに申し訳なさそうになる。
「……通勤経路の変更届は経理部に回っています。時短勤務届は、様式が古いものだったので内容に不備があって、運輸事業部に確認中です」
気まずい空気になるも、駅社員は怒りもせず、さりとて文句も言わず、やはりどこか諦めたような声で、
「いつ頃書類は出来そうですか?」
「……すみません、今は何とも」
「分かりました。また来ます」
それだけ言って去っていく背中を見ながら、鏡花は受付窓口ではなく、国境検問所でも見ている気分になった。
受付票はあった。
書類が届いたことは分かった。
けれど、届いた先で何が止まり、誰が持っていて、いつ返るのかが見えない。
それだけで、人は何度でも同じ場所へ戻される。
「総務課長、少々よろしいでしょうか?」
「なんでしょう?」
総務課長を呼び止め、鏡花が今し方目にしたものを説明すると、
「受付票は出しておりますのね」
「ええ。それは出しています。出さないと、それこそ書類が本当に行方不明になりますから」
総務課長は少し眉根を寄せた。
「ですが、その先が一本になっていないんです。前はシステムが進捗を追ってくれていました。しかし今はそれを人がやっています。当然総務だけじゃ受けきれないですし、受付票を出しても、追い切れないんです」
総務課長の口ぶりは、そんな現実に心底疲れた、といった具合だった。
そこで鏡花は黙った。
受付が悪いのではない。
案内が悪いのでもない。
受け取った先を見えるようにするものが、今は足りないのだ。
(さて、どうしたものか。少なくとも考えるだけではダメですわね。でも闇雲に動くのは下策……)
総務課長とのやりとりの後、窓口近くで申請をする者と受ける者を見つめながら考えていた。
「あのぅ、すいません」
カウンターの向こう側から声を掛けられ、ハッとする。
「はい、どのようなご用件でしょうか?」
他部署の所属とおぼしき社員だった。
「昨日出した書類の申請の中身が間違っていたので、修正したいんですが」
窓口近くに立っていた鏡花を受付担当と思ったのだろう。
自分が紛らわしいところに立っていたのに、違いますと断る訳にもいかないので、
「ええっと、少々お待ちください。控えの書類はお持ちでしょうか?」
とりあえず受けることにした。
修正したいという書類の控えをいったん預かって窓口当番の社員に聞こうとするが、見ると別件対応中のようだった。ひとまず別の社員に受けた内容を伝えるが、昨日受付分の申請は既に総務課長に回っているはずだという。
社員は自分が対応すると言ってくれたが、自分が受けた以上自分が対応しなければ、なぜかその考えに縛られていた。
「総務課長、何度も申し訳ありません。昨日受付分の申請書類を拝見してもよろしいでしょうか?」
怪訝な表情の総務課長に、預かった書類の控えを見せながら事情を説明すると、紙の束を渡された。その紙の束を猛スピードでチェックするがそれらしき用紙が見当たらない。
「私のところに来ていないなら人事課長か経理部に回っているか、ですね」と総務課長も困惑の表情で行き先を考えるが、結論から言えば鏡花が預かった書類の控えが「昨日出したはずの書類」だった。
昨日の窓口担当者の説明と、申請した社員の認識の食い違いが直接原因だった。
担当者は平身低頭しきりだったが、鏡花は担当者が全て悪いとは考えていなかった。
(要は確立された手順がなく、各々の経験に依拠しているのが問題ですわ。せめて用件別の一覧程度がなければ何度でも起こるミス……)
鏡花の脳裏に総務課長から受け取ってチェックした申請内容が浮かんだ。
一言で言えば、雑多だった。
用件別や次の行き先の部署別に分けられている訳でもなく、その日一日の申請書類の束。
ミスは手順通りにやっていれば、なんでこんなことが起こるのか理解できないということがほとんど。
だが現にそれは鏡花の手元で起きていた。
(ソフト面の対応は急務。でも窓口を物理的に分けるとかハード面での対応も必要かもしれませんわね)
鏡花の中で、未だ整理がついていなかった。
組織の手当て、事務手続きの手当て。
考えれば考えるほど、空転しているように感じた。




