番外編 想いの形~不器用なひとたち~
変わった日常もあれば、変わらない日常もある。
三月も終わりが近づいたこの時期は三寒四温の日が続き、夜もそれなりに冷え込む。
そんな星野家の夜は夕食の時間を終えて、底冷えするような静けさに包まれていた。
地震のあったあの日以来、星野家は変わった。
二次救急指定の病院で総務課長を務めている父、そして同じ病院で看護師長を務めている母。
そんな二人が家に帰ってきた回数は数えるほどで、帰ってきたとしても、家族全員が揃ったことはなかった。
だが疲労困憊であろう両親は子供たちを前にして、決して職場での感情を持ち込まなかった。
両親なりの家族愛の形なのだ、と星野は感じていた。
だから星野家は変わらずに済んでいるのかもしれない。
そんな両親の背中を見て思うことがあるのだろう。
四月から高校二年生になる弟、そして高校一年生になる妹。そんな年頃の弟妹たちは長姉である星野から見て、今のところは比較的落ち着いているように見えた。
ただそんな弟妹たちを家族としての視点とは別の角度から見てしまうのは、星野が教職の道を志していることも、きっと無関係ではなかった。
星野がベイローレルに入社した理由は、ありふれたものだった。
昔からの夢だった小学校の先生になるために短大に入学し、小学校教諭二種免許を取得したものの、採用倍率の高さからあと一歩のところで不合格。とりあえずベイローレルに就職した。
だが教職の道を諦めたわけではなく、大学の通信課程で小学校教諭一種免許の取得を目指していた。
それは、あの日以降の押し寄せる現実に埋もれても変わることはなかった。
しかし小論文の課題を前にして、一向に考えがまとまらなかった。
課題文のテーマも余計なことを考えてしまうのに一役買っていた。
『児童の不安や怒りを受け止める際、教師として必要な姿勢について述べよ』
いざ課題に取り組もうとしても、筆は進まなかった。
「不安や怒りを、受け止める……」
家族のこと。特に、思春期の弟妹は感情を押し殺しているように見える。
表向きは静かだがいつか不意に感情があふれ出るかもしれない。その時に自分は何ができるのか。
そして傍から見ても仕事で手一杯になっている両親。
なにより自分自身も。
課題に集中しようと、ひとまず一文だけでも書き始めてみたが、
「まず、相手の言葉を遮らずに聞くこと」
その一言を書いて手が止まる。
家だけではない。会社でも同じような光景を見ていた。
名越。
立花。
高藤。
小早川。
そして、タバサ。
それぞれの考え。
そして、想い。
どれも、聞けていない気がする。
「……そんなこと、会社でもできてないのにな」
星野が気にすることではないのかもしれない。
だが見えてしまっているのに、無視し続けることができるほどの境地は、星野には遥か彼方のことだった。
夢と現実が空回りしている感覚だけがある。
携帯には、課題の提出期限が近いことを告げる通知が数日前から放置されていた。
提出するつもりだが、未だ提出にはほど遠かった。
「……寝よ」
星野は教材を片付けることもなく、翌日の準備をして眠りについた。
翌朝。
三階大部屋に彼女が拠点を構えてから、半月ほど経とうとしている。
事務スペースの一角に突如として現れたその空間は、最初こそ異質だった。
今までこの会社にいなかったタイプの人間への反発の声も少なからずあった。だが空間の主の人柄か、はたまた先日あった『事故のような事件』が幸いしたのか、ともかく少しずつ見慣れた光景になりつつあった。
ことの成り行きから星野が何かと世話をすることが多い彼女は、その空間で愛機のカメラを傍らに、ラップトップPCと取材資料とおぼしき書類の間で目線と手を忙しなく往復させていた。
(この間あんなことがあったのに、いつも通りにしていられる。やっぱりプロなんだな……)
少なくとも星野にはそう見えた。
「タバサさん。こちら、名越部長からの書類です」
「ありがとう。朝からごめんね」
「いえ。……今日は、早いんですね」
「寝てないだけ」
タバサは軽く笑うが、その声には疲労が少し滲み出ていた。
星野はどう反応すればいいのか分からず、心配の言葉が口をついた。
「大丈夫ですか」
「何が?」
「いえ、その、あの……いろいろと」
言いづらそうにしている星野を気遣って、
「大丈夫、何年かに一度はあることだし。ま、慣れてるから。取り繕うくらいは、ね」
タバサはそう言って、一瞬だけ名越の席の方を見た。
そしてすぐにその視線は画面へ戻った。
「慣れるもの、なんですか?」
「正確には慣れたフリだけどね。ただ、慣れてない顔をしてずっと動揺していると、相手が余計に気を使うからね」
タバサは笑って見せた。
「そんな姿、見たくないじゃん」と。
(タバサさんは、大人なんだな)
星野がそう思ったのも無理はない。
だけど星野の思うような「大人」ではなく、他人より少しだけ自分の本音を隠して我慢しているだけの、タバサはそんな「大人」だった。
ある日の夕刻。
三階大部屋に姿を見せた小早川は、妙にその足取りが軽いように見えた。
だがなにかに浮かれている風情ではなく、むしろその反対であることが窺い知れた。
「星野さん、名越さんは?」
社内ではなぜか物事を星野に尋ねる人間が多い。
話しかけやすい、というのが主因なのだろうが、目端が利いている、という理由もまた大きいのだろう。
「社長室です。すぐ戻られると思います」
「社長室ねぇ。最近、あそこも忙しいな」
行き先を聞いて、小早川は思案顔になる。
(忙しいも何も、あの部屋は今……)
星野は、なんとなくだが、小早川のその言葉に裏の意味がある気がした。
「何か、あるんですか?」
「何もない会社なら、今ごろみんな定時で帰ってますよ」
「それは、そうかもしれませんが……」
「まあ、今は足元をよく見ていてくれ、とだけ。古今東西、上ばかり見ていると足元をすくわれるからね」
星野は、今日は殊更軽く聞こえる小早川の言葉の意味が掴めずにいた。
(裏の意味なんて本当はないのかもしれない?)
「小早川部長は、こういう時でも軽いんですね」
「重たいモノは腰に良くないからな。それに重くしたら、誰も運べないだろ?」
「運ぶ、ですか」
「ああ。いかにも重そうな顔で持つと、周りが先に逃げるからね。軽そうに持つくらいが、ちょうどいいんだよ」
小早川の言葉は相変わらず軽かった。
だがその軽さに少しだけ『重さ』が付いた気もした。
(小早川部長は、器用な人だと思ってた。でも、器用な人はこんな言い方をするのかな)
星野には、小早川が何かを軽く見せようとしているように思えた。
また別の日。
「ちょうど良かった。星野さん、今週分の口頭での依頼とか臨時対応をまとめたメモのようなものは、総務に何か残っていますか」
高藤が大部屋に姿を現したと思ったら、一直線に星野の元へやって来て、藪から棒にそんなことを言い出した。
確かに総務は元々、社内の情報の集積地の一つであった。
あの日以来、各部署からのメモや伝言がさらに集まりやすくなっていた。といっても正式な窓口というより、誰かがとりあえず雑多な断片を置いていく場所。
星野は毎日少しずつだが、その山の中でも必要になりそうなものを、とりあえず記録して仕分けていた。
(多分ほとんど残ってないと思うけどな……)
そう思いながらも記憶の糸をたぐり寄せて、何とか答えた。
「まとまっている、というほどでは……各自の手書きのメモとか、あとは共有フォルダとかにはあると思います」
「では、所在だけで構いません。どこに何が残っているか、分かる範囲で確認できますか」
急にそんなことを言われたものだから、星野は少し困り顔になった。
「私より課長とか係長に確認した方が……」
「最終的には課長に確認します。ただ、まず現物を見たいんです。口頭のまま流れたものは、担当者間のやり取りでそのまま消えていることがありますから」
「全部は、残っていないと思いますけど……」
「構いません。残っていないなら、残っていないと分かる形にします」
「残っていないことまで必要なんですか?」
「必要です。あとで押し問答になる方が困ります」
星野は、何を返せばいいのか分からない困惑した顔になった。
「……今、ですか」
「今だからです」
こうも即答されては星野も返す言葉がなかった。
ひとまず星野はすぐに出せる資料としていくつか書類を渡して、それを受け取った高藤はその場で資料に目を通し始めた。
今日の高藤に星野は少しだけ違和感を抱いていた。
声こそ荒っぽくはないものの、いつもより少しだけ言い方が厳しいように思えた。
そのせいか思わず聞いてしまった。
「高藤部長は、こういう時でも、仕事の話なんですね」
その言葉に高藤の手が止まった。
言ったあとで、
(言葉を間違えた!嫌味みたいになっちゃった……)
と焦ったが、高藤の反応は表情を変えることもなく、淡々としたものだった。
「こういう時だから、仕事の話をしています」
「……そういうものなんですか」
「気持ちで片付けると、後で誰かが困ります」
その言葉に星野はなにも返せなかった。
高藤も、さすがに言葉足らずだと思ったのか、少しだけ間を置いた。
「……私も、何も感じていないわけではありません」
「はい」
「ただ、気にしてばかりいても仕事は進みませんから」
それだけ言って、別の書類へ目を落とした。
幸いにも星野の言葉は、会話の中で流された。
けれど、生まれた違和感は喉に引っかかった小骨のように取れなかった。
(高藤部長は日頃から仕事に厳しい人だけど、今日は厳しいというより、仕事に逃げているように見える)
感じたことが正しいのかどうかまでは、星野には分からなかった。
ただ、その横顔は、いつもより少しだけ遠く見えた。
その数日後。
「星野さん、名越部長は戻って来ているか?」
今日だけで何度目か。
三階大部屋にやって来た立花は、明らかに疲れた様子だった。
本来、立花のような上位の役職者が、現業事務所と本社を何往復もすることは滅多にないのだが、最近はその滅多にないことがほぼ毎日のように繰り返されていた。
「まだ社長室です」
「では、これを先に回してほしい。超勤四十時間超えの社員の勤務調整と産業医面談の日程案だ。大至急なんだ」
「分かりました。ただ一旦、総務課と人事課で確認が必要になります」
苛立った様子の立花は、少し語気が強くなった。
「分かっている。ただ、今日中に目処を付けないといけないんだ。全てが綱渡りなんだ」
「こちらも、止めたくて止めているわけではありません」
星野はそう返すことが精一杯だった。
「……すまない。責めたつもりではなかったんだが」
マズい、強く言い過ぎたと思ったのか、立花はすぐに言葉を足した。
星野も気遣うように答える。
「いえ。こちらこそ、すぐに動けなくて申し訳ありません」
それでも、なんとも気まずい空気になってしまった。
とりあえず「いただいた書類を課長に渡してきます」と席を離れようとしたところで、立花の独り言のような、どこか言い訳のような言葉が耳に入った。
「本社が動いてくれていることは分かっている。だが、現場は今この時を逃すと、雪崩を打つように全てが崩れてしまうんでな……」
「はい」
「余裕がないんだ。皆、口には出さないが、いつ誰が倒れてもおかしくはない」
悲痛な叫び、とも取れるその言葉には、現場の余白のなさが滲み出ていた。
それだけ言うと、立花は去っていった。再び現業事務所に戻ったのかもしれない。
総務課長に立花から受け取った書類を渡すため、机の間を歩くわずかな時間で星野は考えていた。
(立花部長は、現場の人。それは分かっていたし、いつものこと。でも、ここまで現場を押し通す人だったかな……)
一歩、一歩進む度に、何かに足を取られている感覚になった。
(余裕がないのは、現場だけじゃない。でもなんだろう。私もそれをうまく言葉にできない)
一時的なことなのか、それとももう元には戻らないものなのか、星野には分からなかった。
少なくともこの危ういバランスが崩れないように願うしか星野にはできなかった。
嵐のような三月にも、ようやく終わりが見え始めた頃。
午後一時五十分。
星野は来客用内線電話に意識を集中していた。
午前十一時頃。名越の席に呼び出されて、小声で来客がある旨を伝えられた。
「午後二時に来客があるので、名前などは聞かないで、いらしたら速やかにエレベーターで社長室にご案内してください。あとこの件に関しては聞かれても知らぬ、存ぜぬ、で通してください」
いかにも怪しい指定だった。
(これで、気にするなと言われても……)
だから来客用内線が鳴った時には、好奇心が勝っていた。
「はい。ベイローレル受付です」
「午後二時に総務部長の名越さんとお約束している者です」
若い女性の声だった。困惑を声に出さないのが精一杯だった。
「ただいまご案内いたしますので、少々お待ちください」
困惑しつつも、大部屋を飛び出し、駆け足で階段を降り、正面入口に着く前に息を整える。
「お待たせしま……した……」
電話越しの声の通り、若い女性だった。
しかも物腰も、服装も、立ち方さえも、いかにもなお嬢様だった。
その姿は、明らかにこの場所から浮いていた。
「時間ギリギリになってしまい、申し訳ありません」
その人は優雅に一礼する。余りに堂に入った所作だった。
「あ、いえ、ご案内します。こちらへどうぞ」
名越の指示通り、案内するが、頭の中は驚きと疑問で一杯だった。
余計なことは聞かない。
聞くなと言われているから。
聞いてはいけない。
聞いたら最後な気がするから。
社長室のドアをノックしたのは午後二時丁度だった。
「はい、どうぞ」
名越の声がすると、一拍置いて星野が扉を開けた。
にこやかな来客用の表情で名越は立っていた。
そして来客の姿を認めた名越は、そのにこやかな来客用の表情のまま固まっていた。
何が起きているのか分かっていないようだった。
少なくとも、星野にはそう見えた。
そして名越の目は、来客に向かってこう問いかけているようだった。
「あんた、誰?」
星野は来客を通すと、名越の指示通りすぐ扉を閉めてその場から立ち去った。
(部長も、誰が来るか知らなかった?)
扉の向こうの声は聞かなかったし、聞き耳を立てたところで聞こえなかっただろう。
だが自席に戻りながら、大きな疑問だけがぐるんぐるんと脳内を駆け巡っていた。
(あの人は、一体何者だったんだろう?)
三月三十一日、二十一時過ぎ。
三階大部屋に残っているのは星野と名越、そして、なにやら先程まで名越と押し問答していたタバサだけだった。
今日の昼過ぎくらいから名越は三階大部屋の全員に向けて、
「新年度に向けて気分新たに仕事をするために、今日は必ず定時で帰りましょう」
と号令とハッパをかけ続けていた。
周りは名越に半ば追い立てられるように、仕事に区切りを付けられた者から順に退勤していった。
それでも残業をしていた、もしくはせざるを得なかった社員には、名越が、
「明日から頑張れ」
「今日終わらないことはいつまでやっても終わらないから、とりあえず帰れ」
「今やっている仕事は今日できなかった仕事じゃない。明日の自分への励ましなんだ」
などと言って無理矢理帰らせた。
しかし星野だけは、
「今後のために良い経験になるから」
との胡散臭い言葉で説得されて渋々ながら残っていた。いや残らされていた。
(周りの人たちは無理矢理仕事に区切りを付けさせられて帰っているのに、なんで私だけ残るんだろう)
と不審に思っていたが、一つだけ心当たりがあった。
二月から、星野は若手社員の経験として長屋に付いていた。
各部署の若手が二か月交替で、社長秘書のように長屋の仕事を見る。その最後の順番が星野だった。
発災で中断したままになっていたからこそ、「今後のために良い経験になる」と言われると、完全には断りにくかった。
(タバサさんがいるから、まぁ大丈夫かな……)
とひとまず受け入れた。
それでも、今夜のこれは何がどう良い経験なのか、星野には分からなかった。
そして遅くまで残ってやっていた業務内容は「なぜ」という思いを余計に強くしていた。
名越は次々と段取りを口にした。
「とりあえず、まずは机と椅子。使える電話。書類を置ける場所から準備しましょう。机と椅子は『役職者用のイイやつ』がいくつかあったので、それを使いましょう」
「女子ロッカーで空いている場所はありますよね。そしたらそれを一つ用意してください。さすがに私が入るわけにもいかんのでね」
星野は名越の指示を一つずつ拾いながら動いていた。
そしてそれは一言で言えば、模様替えだった。
ただ、どう見ても誰か一人分の居場所を作っているようにしか見えなかった。
「星野さん、遅くまで残ってもらって申し訳ない」という名越に
「模様替えなら、人手が多い方が良かったのでは?」と聞いても、
「まぁ、なんだ。理由は明日には分かるよ」
曖昧にされたままだった。
そして名越とタバサの間に、ぽつんと新しい席ができた。
机の位置を整え、電話を確認し、書類を置けるだけの空きを作った。
そこまで終えても、名越は何も説明しなかった。
「……どなたが使われるんですか」
星野が問うが、
「まぁまぁ、今はいいじゃないですか」
「まぁ、こういうもんだから」
とまともには答えてくれなかった。
ただ、適当に答えていた隙間で、名越の本音が少しだけ漏れた。
「星野さんには、負担をかけますね」
そんな一言だった。
それ以上、名越は説明しなかった。
タバサも何か言いたげではあったが、結局口を挟まなかった。
作業が一段落した頃には、もう二十三時を回っていた。
作業が終わると、名越は星野をタクシーで帰らせた。
会社負担で、と念を押して。
それもまた、少し怪しかった。
深夜の水本市内を、郊外にある自宅に向けてタクシーは走っていた。
少しずつ復旧が進んでいるとはいえ、道路の状態はあまり良くなく、時折車内は上下左右に揺れた。
「すみません、車が揺れて。ここら辺はまだマシな方なんですが」
「いえ、大丈夫です」
会話は続かない。
星野は、今年度最後に手伝わされた作業のことを考えていた。
(あの席は誰のためのものだったんだろう)
(この間のあの人と関係があるのかな)
考えを巡らせた末に、ある感情に行き着いた。
(また聞けなかった)
ふと未だに提出できていない課題を思い出した。
特例措置で期限が延びたとはいえ、いつまでも書かないわけにはいかなかったが、遅々として進んでいなかった。
窓に寄りかかりながら、過ぎ去る景色をぼんやりと見つめていた。
(不安や怒りを受け止めるって、どうすることなんだろう)
そうして夜は更けていく。
気づけば、日付は四月一日に変わっていた。
星野はまだ、その朝が何を連れてくるのか知らなかった。
四月一日、朝。
結局、星野はその日を迎えてから初めて知ることとなった。
先日の『名前を聞いてはいけない来客』。
三月三十一日、つまり昨日の夜、隠れるようにして用意した席とロッカーの意味。
それが総て『水本鏡花』というひとりのためだったと。
星野がそのことに気づいたのは、いつも通り出勤してからだった。
毎年新入社員を迎えるこの日は、大なり小なり似たような空気だが、それとはまた違っていた。
社内が騒がしい。というより慌ただしい、もしくは浮き足立っている。そんな空気だった。
まさか、というよりは、やはり。三階大部屋が事態の中心だった。
『本社人事通達、株式会社ベイローレル、取締役総務部長、名越一馬。下記人事を四月一日付で発令する。総務部長名越一馬、現職を免じ、新たに事業統括本部長を任ずる。水本鏡花、新たに総務部長を任ずる。以上』
文字にすれば何のことはない、ただの人事異動だった。
しかし、早めに出勤していた同僚曰く「さっき偉い人たちが集まって、一悶着あったばかり」とのことだった。
大部屋の隅では総務部の課長たち、つまり昨日までの名越の部下が、膝を突き合わせて顔を曇らせながら何事か話し合っていた。
「名越さん、やってくれたね」
が共通意見のようだった。
善後策を話し合っている課長たち。仕事と噂話で手一杯の同僚たち。
星野はそんな三階大部屋の様子をまるで他人事のように感じていた。
そうこうしているうちに、名越が噂の女性を連れて三階大部屋に入ってきた。
その女性の顔を見て、自分が名越の引き起こしたこの混乱の関係者であると悟った。
(あの時の人……)
名越が「ちょっと集まってくれ」と三階大部屋全体に号令を掛ける。
「こちら、本日付けで私の後任として総務部長に着任された水本さんだ」
(新しい総務部長……。昨日の準備は、この人のためだった)
「本日付でベイローレルの総務部長を拝命いたしました、水本鏡花と申しますわ。こういう時期だからこそ皆さん一人一人の力が重要になりますの。微力ながらも皆さんに寄り添いつつ、仕事を進められたらと考えておりますわ。……それから、わたくしから皆さんへ最初のお願いですわ。この街はなにぶん水本が多すぎますので、わたくしのことは鏡花とお呼びくださいな。以上ですわ」
先日案内したときと同様に、その女性の動きは優雅なものだった。
その後一言二言名越が話してから解散となったが、なにを言っていたかは覚えていない。
(名越部長が言っていたことは、これだった)
色々な感情がない交ぜになって、それ以上の言葉は出てこなかった。
「星野さん。水本部長をロッカーにご案内して差し上げてください」
「はい」
だから名越に名前を呼ばれたときに、声が固かったのもやむを得なかった。
ロッカー室へ案内する途中、星野と鏡花は無言だった。
そして、ロッカーを案内しているときも、使い方など細かい説明の時も必要以外の言葉は交わさなかった。
星野は不思議な感覚だった。
口では必要事項の説明を淡々と紡いでいる。
だが頭では全く別の思考が巡っていた。
名前を聞くなと言ったこと。
来客を社長室へ通したこと。
夜に席とロッカーを用意させたこと。
突然、総務部長として紹介したこと。
一つに絞れていない思考の中で、口は一通り説明し終えていたのか、いつの間にか星野と鏡花は、じっと目を合わせていた。
そして思考が状況と繋がった時、星野の口からはある疑問があふれ出た。
「名越部長はなぜあんなことをしたのでしょう……」
その疑問をぶつけられた鏡花は、困ったような表情で自嘲気味に、ただ目を逸らして逃げることなく答えた。
「皆さんどこかしら不器用だから、なのではないかしら。……欲どしすぎたのですよ、わたくしたちは」
迂闊に聞いてしまった後悔と、その答えに対する疑問。意味が分からなかった。
「わたくしたち、ですか」
「ええ」
わたくしたち。
つまり目の前にいる鏡花や、この事態を仕組んだ名越だけではなく、私も?
やはり星野には鏡花の言っている意味が分からなかった。
消化不良といってもよかった。全く腑に落ちない。そんな表情のまま、
「すみません。よく、分からないです」
説明が欲しかった。
だが鏡花は、それでも構わなかったようだ。
「今は、それでよろしいのではなくて?」
自身に割り当てられたロッカーを閉めながら、そう言った。
この話はこれでおしまい。
そう言いたげでもあった。
「戻りましょう。あちらは、まだ戦場のようですから」
「……はい」
新しい上司。
多分、年齢はそう離れてはいない。
ともすれば、少し年上の先輩のようにも見える不思議な人。
多分、有能な人なのだろう。
(不安や怒りを受け止めるって、どうすればいいんだろう……)
だが今は、なにかが空回りしている感覚だけが強く残っていた。




