第四話 逢魔が時 後編
四月一日。
先輩社員たちは本来暖かく迎えるべき新入社員たちを、迎え入れてやれなかった。
社会への希望と不安に満ちた当時の新入社員をして、後年に「史上最悪の朝だった」と言わしめる混乱ぶりだった。まさかこの会社の責任者が原因などとは、新入社員は露ほども思わなかっただろう。
最初、この異常に気づいたのは現場だった。
現場には、大晦日、ダイヤ改正時や株主総会など、重要行事の時は現場長が夜勤に入る慣習がある。
とある駅にて、夜勤中の駅長がメールの未読メッセージを開いた。
一定の職位以上の社員が対象者で、中身は本社人事通達なるものだった。
だが中身を一読するとすぐに興味なさそうに、印刷して共用スペースの掲示板に貼った。そして他のほとんどの受信者が同じように処理していた。
現場にとって本社の人事は自分にさして関係ないこと。この手の書類は事務的に処理するだけのものだった。
だが同じ現場の人間でも一人だけ反応の違う者がいた。そしてベイローレルの長い一日の一番槍だった。
午前六時、立花の年度初めの朝は早かった。
今年は入社式など全社的な行事は無いが、毎年のルーティンで早く本社に出勤していた。
現時点での運転状況などを確認した後、今年現場に配属される社員の資料に目を通して、メールの未読メッセージを確認する。
昨日の日付が変わる直前に、総務部長から管理職向けのメッセージが来ていた。
よくあることだった。
ましてや今日は四月一日、何か事務的なものだろう。
(遅くまでご苦労なことだ。……なるほど、名越さんは総務部長から事業統括本部長になるのか。また随分と突然だな。で、後任の総務部長が水本鏡花?誰だ、これ。こんなヤツ、ウチにいたか?いや、本当に誰だ?それよりあの人は何をするつもりなんだ?)
何度通達文を読んでも、理解不能だった。最初に出てきた言葉は困惑だった。
「なんだ……これ」
誰かに聞こうにもこの時間は答えを持ち合わせていそうな者はまだ誰もいなかった。
そして時間とともに続々と社員が出勤してくる。
ある者はメールで、またある者は社内の掲示で、総務部長からの通達を確認し、静かに、だが確実に困惑と混乱が広がっていた。
ベイローレル本社に出勤する、若手、中堅、ベテラン、様々な社員。その中には今日から社会に出る新社会人に混ざって水本鏡花もいた。
何食わぬ顔で通勤している鏡花も、内心では希望より不安が遥かに勝っていた。出来る準備はしたつもりだ。とはいえ、つい先日までまさかこのような形で全く知らない場所に乗り込むとは夢にも思っていなかった。
しかも入った瞬間から、社内にも社外にも半端者として見られるのは間違いない。名越の代わりにもなれず、さりとて水本の名前だけでも足りない。にもかかわらず、痛みだけは確実に増やす。その役目を引き受けると決めたのは、自分だった。
(平常心は無理でも、せめて約束は果たさないといけませんわね)
鏡花が新社会人と同じく不安を胸に通勤している頃、社内は困惑と混乱のるつぼと化していた。掲示されている昨日まで無かった通達文。三階大部屋に突然現れた席。そして予告無しでいきなり所属長が交代した総務部。
なにかが前触れも無く突然変わった。各部署の管理職にとって新入社員どころではなくなってしまっていた。
方々から「通達について説明を」と詰め寄られた名越は、ひとまず主だった面々を会議室に集めて簡単に事情を説明していた。
「……以上の理由から、本日付で私は新たに事業統括本部長に、これからいらっしゃる水本さんには総務部長をお願いしています。ですが今まで通り最終的な責任者は私となります。そこに変更はありません。なお手続き上の瑕疵に関しては、当社の規定通りの発令ですから、問題はありません」
皆全く理解できないといった様子だった。怒りを露わにする者、困惑する者、冷ややかな目で見る者。抗議の声も上がる。
「総務部長、説明になっていません。この独断専行をどう説明なさるつもりですか。何の規定に基づいて、誰の権限がどこまで移り、どこから先は従来通りなのですか。そこを誰の名でどう切り分けるのですか。私は言葉遊びをする気はありません」
高藤は冷たくそして容赦なく問うが、
「確かに独断専行と呼ばれても仕方ありません。しかも今は社長が不在にしているため、物事はある程度合議で進めた上で私が責任を持つのが本来妥当と言えるでしょう。ですがあくまで人員の新規採用、そして人事権の行使は、三月三十一日までの私が総務部長として管掌する業務における専権事項として扱いました。そして社長の不在以降の今日まで通り、最終的な責任者は私となります。業務の分掌に関しては調整する必要はありますが、人事労務に関しては今まで通り総務部長の専権事項です。」
話は噛み合わず、高藤が「もっと具体的に答えてください」と言って、例を挙げて詰め寄るが、同じような回答だけで、のれんに腕押しだった。
「責任者が名越さんで変わらないのは分かりました。長屋さんが不在の現状では唯一の取締役ですから、変わりようがないことは分かります」
立花が、かなり低いドスの効いた声で「ですが」と続ける。
「現場に無理を通す時の根拠は誰が説明するのですか。その水本さんは総務部長として、どこまで現場運営に口を出すのですか。判断が割れた時、どちらに従えばいいのですか。こちらは現場に何と説明すればいいのですか」
その問いには、本社に振り回される現場の怒りが混じっていた。
名越も流石に気圧されるが、
「……水本さんから現場に口出しすることは当然考えられます。否定はしません。そしてそれは恐らくですがそれなりに理屈の通ったものとなるでしょう。そういった場合は立花さんと水本さんの間のやり取りです。私がいきなり所属長レベルの話に口出ししてひっかき回すようなことはしません。ですが最終的には私が判断します。私が私の責任で判断します。誰に従えと言うならば、今まで通り私です。……今お答えできるのはここまでです」
欲しい答えは相変わらず返ってこなかった。
「……おい、」
だがそこまで口に出て小早川に止められた。続く言葉が分かっていたのだろう。
じゃ俺からも一つ、と立花を制止した小早川が手を挙げた。
「事業統括本部長、ですか。社内はそれで押し切れるでしょうね。でも社外には何と説明しましょう?取引先、金融機関、行政、株主に対しては、責任者は変わらない事実をどう説明すれば信用を毀損せずに済むとお考えですか。皆さん、本部長が想像する何倍も耳が早いです。今日いらっしゃる水本さんが、『あの』水本さんだとして、その名をどこまで前面に出すのです?これは非常時の体制なのか、今後へ向けた実質的な準備をする体制なのか、言い方も含めて決めて下さいよ」
信用を武器にする小早川にとっては、死活問題だった。
「もし何か聞かれても外部にはあくまで『当社内での人事異動の一環』と説明して下さい。そしてお察しの通り今日からいらっしゃる方は『あの』水本さんです。正確に言うと『あの』水本さんの娘さんですが。どこまで前面に出すかですが、私はあくまで水本の『名』ではなく、『人』を見て当社への参画を依頼したつもりですが、そこは当人次第としか言えません。最後にこの体制ですが、あくまで非常時の体制です、今は。ただこれから次第ではこの体制のまま組織変更をする可能性はあります」
結局、言葉は明瞭だが、中身は曖昧で、外に出すには弱かった。
「呆れた……、答えになっていやしねぇ……」
小早川はこれ以上の問答は無駄とばかりに、肩を落とした。
「とにかくこれ以上は、水本さんご本人が来てからの話です。最終的な責任は今後も私が取ります」
集まった人間は、名越の強引な人事に巻き込まれたまま、新年度を、そして新入社員を迎えざるを得なかった。
「お待ちしてました、水本さん」
名越が緊張した面持ちで迎える。
「ええ……」
「まぁ、楽にしてください……とは言えませんが、ひとまず自己紹介と行きましょう」
名越が「ちょっと集まってくれ」と三階大部屋全体に号令を掛ける。
「こちら、本日付けで私の後任として総務部長に着任された水本さんだ」
息を整えて、努めて涼やかなそして凜とした声で挨拶する。
「本日付でベイローレルの総務部長を拝命いたしました、水本鏡花と申しますわ。こういう時期だからこそ皆さん一人一人の力が重要になりますの。微力ながらも皆さんに寄り添いつつ、仕事を進められたらと考えておりますわ。……それから、わたくしから皆さんへ最初のお願いですわ。この街はなにぶん水本が多すぎますので、わたくしのことは鏡花とお呼びくださいな。以上ですわ」
優雅な動作で一礼した。
礼儀としてパラパラと五月雨で拍手は鳴るが、歓迎されていないことは明白だった。
「差し当たって鏡花さんには、私のやっていた業務の内、まずは総務部に関する業務を見てもらう」
だがなおも鏡花への容赦ない視線とどこか剣呑とした空気がこびりついていた。
「今まで通り、私はそこの席にいますし、最終的な責任は私にあるのも今まで通りです」
パンパン、と手を叩いて言った。
「さぁクソ忙しい年度初めです。皆さん頑張っていきましょう!」
あえて声を張って鼓舞したように見せて、このやりとりはここまで、仕事に戻れと言わんばかりだった。
三階大部屋は白けた空気を漂わせつつ、各々席に戻り新年度の仕事を始めた。
「……まぁこうなるよね」
タバサはこの一連の悪い冗談のような茶番劇を正視することができなかった。
こうなることは名越も鏡花もお互いに分かっていたはず。
だからこそ余計にこう考えてしまった。
(もっと言い方とかやり方はあっただろうに……)
だがすぐに思い出す。
三月三十一日の深夜を。
不思議とその時だけは以前と同じだった一瞬。
名越はなんと言っていたかを、そして自分は何と返したかを。
「本当にこれで良かったんかねぇ……」
「……分からない」
手を止めて考えた。
自分も同じだった。
(もっと言い方とかやり方はあっただろうに……)
観察者に徹するための冷たさは、翻って自身に跳ね返ってきていた。
事務的な手続きを済ませて、無事鏡花はベイローレル社員、そして総務部長に着任した。
ただあくまでスタートラインに立ったに過ぎなかった。
業務の引き継ぎなど実務上やらなければならないことも山積だが、鏡花が『ベイローレル総務部長 水本鏡花』としてやるべきことも山積だった。
先日、タバサの臨時アシスタントとして来たときには無かった、『自身のための席』から三階大部屋を見渡す。壁を背にして左に事業統括本部長の名越。右に南方日報社水本支局特派員のタバサ。その真ん中に総務部長の鏡花。
急造だから仕方が無かったのだろう。ただの偶然だろう。だが、
(よりにもよって、席は真ん中ですのね……)
鏡花の胸中から、どうしても拭えない不安があった。
まるで名越とタバサを従えて、自身を中心として会社が回って行く。
たかが席の配置、ただのうぬぼれと一笑に付すことはできただろうが、そうとも思えない不安が鏡花を包み込んでいた。
名越が解決を力に求めた代償は大きかった。




