第一話 光り輝く、陽はまた昇る
いつの出来事だったか。
たしかこっちに来た後の、昨年のクリスマスだったな。
……あれ、なんだったけな、長屋さんが言ってたヤツ。やたら「あの人らしくない言葉」だったんだが……。
たしか、水本駅の年末はまさに、君見ずや、って。
君見ずや、の前になんか入ったんだけど、なんだったかな……。
思い出せないまま、頭に浮かんでいた薄らぼんやりとした記憶は、疲労の彼方へ去っていった。
名越は、本社屋三階にある各部署の寄り合い所帯――通称「大部屋」の自らの机に突っ伏し、寝る、というより気絶していた。
息苦しを感じた名越が起きたとき、まだ早朝にもかかわらず、減灯した室内には人影と控えめな話し声があった。
災害発生から数日が経った。
星野の持ってきた新聞の一面には「未曾有の大災害」の文字が躍る。
立花の持ってきた被害資料の写真には、無数の折れた電化柱と、歪み、ひしゃげたレール、そしていっそ清々しいまでに津波で流されてしまった線路敷が写る。
端的に言って、惨状以外の言葉が見つからなかった。
ただ、会社が受けた被害も十分に深刻ではあったが、本社屋に限ればまだ被害は抑えられている方だった。
断片的に他の地域の情報も入ってきたが、どれも理解の範疇を超えていた。
だが、ここもまた苦しいことには変わりはなかった。
高藤の顔つきは、報告が増えるたびに険しくなり、小早川も、鳴りやまない電話のたびに疲労の色を濃くしていった。
皆自宅に帰ることもままならず、会社で寝泊まりする日々が続いた。肉体的にも、精神的にもすり減り続けていた。
不幸中の幸いか、津波は本社ビルの手前で引いた。外から見れば、まだ使えそうだった。だが建物内は、物という物が散乱していた。
余震のたびに避難して「もうだめかもしれない」とおびえながら片付けなければならなかった。
そして、やっと本社業務の当面のやりくりの見通しが立ったのが昨日の夕方。
さらに同時進行で、被害把握と復旧の確認も進めていた。そこまでやって一息ついたところで、記憶が途切れていた。
未だ霧がかった頭のまま、突っ伏した状態で頭だけ上げ、昨日の会議の資料をぼんやり見返す。
名越はなんとか頭だけ上げていたが、災害発生からここまでずっとひたすら火が付いたように止まることなく動き回り、マシンガンの如く指示を出し続けていた反動からか、電池が切れたように再び突っ伏す。
……家の片付けはいつになるだろう。
ほんの少しだけ帰ることのできた自宅は、津波被害は免れたものの、地震のせいで酷い有様だった。
……なぜこの場に社長はいないのか。
社長は、なぜ自分を残る側に指名しただけで、行ってしまったのか。
その場にいない人間へのやり場の無い怒りがじんわり広がっていった。
社長は私たちに矢継ぎ早に指示を出した後、会議室を後にして現場へ向かい、避難誘導を行っていたとの報告があった。
だがその後は、捜索が続いている――その一言以上の報せは、まだ来ていない。
体が動かない。動かそうにも、言うことを聞かない。
だが、唐突な余震がその鈍い体に鞭を打った。
先程までの、電池切れが嘘のように、素早く揺れから身を守ろうとする。
幸いなことに、揺れはすぐに収まった。いつの間にか全ての明かりが付いた三階大部屋を見渡すと被害はなさそうだった。
とりあえず一安心し、再び椅子に腰かける。
「最近、揺れているのかいないのか分からなくなってきた」と誰かがぼやいていた。
社員の気が滅入っているのがよく分かる一言に、何とかしなければ、と焦りが湧き上がる。
余震で叩き起こされた社内は、陽が昇る前だというのに、名越の焦りを知ってか知らずか、再び慌ただしく動き始める。
押し寄せる報告や連絡に対して、時に素早く、時に逡巡しつつも指示を出していく。
だが同時に、自分がやるしかない、でも本当に自分がやって良いのか、という葛藤が続いていた。
そしてその時は唐突に訪れた。
「……あの……」
星野が言いづらそうに机の前に立っていた。その両手には、書類が小山をなしていた。
「どうしましたか?」
と名越は尋ねたが、星野が何を言いたいのか、持っている書類の小山はなんなのか、その正体に心当たりがあった。
そしてそれは、名越がこの数日あえて無視していたものだった。
ついに来たか、と身構える。
「実は、高藤部長と小早川部長から先週稟議に回した案件の決裁を急いでほしい、との連絡がありまして……」
星野の言う稟議書の決裁は、ここ数日のものも含めて全て名越は確認済みだった。
それはつまり……。
「それで……」と星野が続きを口にしようとして、
「とりあえず、持ったままじゃキツいでしょう。貰います」
名越が続く言葉を制するように、星野から書類の小山を受け取って机に置き、覚悟を決めてから、書類に目を通して行く。
その様子を星野は不安気に見つめるが、残念ながら彼女にできることはない。これは会社の問題であり、自分の問題だ。
「星野さん、ありがとう。一通り目を通したら、また何かお願いするかもしれないから」
我ながら白々しい、とは思った。
何を求められているかは、書類を見るまでもなく分かっていた。
だが無難なことを言って人払いしたかった。幸い名越の机は他の社員の机の島からは通路を隔てている。
考えても意味はないが考えよう、そう思った矢先、何かを言おうとして逡巡していた星野が、意を決したように一言だけ、名越が考えないようにしていたことを口にした。
「……部長、その書類は、次は社長決裁でしたが、どうしますか?」
「………………」
名越はすぐに返答できなかった。
もう待てない。
だが、事務手続きをないがしろにはできない。
どうするか、自分が受けるか、そして受けたらどうなるのか。
星野が、答えを求めてこちらを見ている。
自分も、星野を見つめる形で固まってしまっている。
そして周りの社員もこちらを気にしている。
ほんの一瞬の出来事だったが、時間がやけに長く感じた。
だが所詮は悪あがきに過ぎなかった。
「……あの、部長……」
星野が発した何でもないはずの言葉に勝手に言外の意味を足して、催促しているように聞こえた。
逃げられないのだから早くしろ、そう言っているように聞こえた。
「……すいません。とりあえず、そうですね。次は社長決裁か、そしたら……」
続く言葉まで少し間が空いたのは、本当に最後の悪あがきだった。
「私が代行しましょう」
そう言って、各部署へ「取締役総務部長・名越一馬」の名で通達を出すよう指示した。
当面の間、社長決裁は総務部長決裁で代わりとする。
受け入れるしかなかった。とりあえずこの急場を凌がねば。ただそれだけだった。
それだけ伝えると、社長室に向かう。
丸印と実印と、あとは何が必要か。
そう考えつつ、足取りは重い。
この数日間、施錠されて人の出入りがなかった社長室には、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。
当面必要になりそうな印鑑や鍵などを「借りる」ために、まっすぐ金庫へ向かった。
あくまで立場上知っているだけで、自ら率先して開けなければならない日が来るとは考えてもいなかった。
やたら立派だが目立たないようにしてある金庫の前にしゃがみ込む。
金庫の中の記録帳に、持ち出したものと日付、署名を記す。
すぐ上の欄までの署名者は長屋だった。何ページめくっても長屋だった。
それに連なる空白に、今日初めて長屋以外の名前が記入される。
三月××日 名越。
なんの感慨もなかった。
何も考えないように、自分を押し殺していた。
記録帳をしまい、金庫を再び施錠する。
再び立ち上がると、ノロノロと引き寄せられるように窓の方へ向かい外を見る。
あの日以来、桜の開花を待つはずだった春先の日々は、打って変わって鈍色の空に沈み、再びの雪とともに、長い――とても長い冬へ引き戻されていた。
だが今朝に限って、光り輝く、陽はまた昇っていた。




