プロローグ 「水平線」が動いた日
それは、水平線の向こう側からやって来た。
最初は、目の錯覚かと疑った。いや、そう思いたかった。
しかしそれは、日常の向こう側からやって来て、全てを不可逆な非日常へ押し流した。
この会社に私が赴任したのは、昨年の春のことだった。
赴任と言えば聞こえは良い。だが実際のところは、昔の上司が前職で鳴かず飛ばずだった私をどういうわけか引き取ってくれたと言える。
そのオファーを受けたときは、驚きを通り越して意味が分からなかった。
(確かに良好な関係で大分お世話になったが、そこまで面倒を見るほどの関係ではなかったはず)
と疑問に思ったことを良く覚えている。
だが、当時の私は色々悪いことが重なっていた。
考えるより先に動いていた、と言った方が正しいのかもしれない。一縷の望みにすがり、半ば逃げるようにこの街へやって来た。
当然、そんなどこの馬の骨とも知れない人間が、素直に受け入れられるはずもなかった。
昔の上司であり、今の上司でもある社長は、近い将来を見据えてという理由で私を取締役に据え、しかもそのためのポストまで作って押し込んだのだから、反発は強かった。
昨年夏には他に二人いた取締役が辞任する事態にまで発展した。
ただ社長の強力なリーダーシップで、昨年末頃には事態は一応の鎮静化を見せ、最近はようやく『近い将来の後継者候補』としてなんとか仕事も軌道に乗りかけていた。
だがこの時点での私は既に取締役とはいえ、周りからの評価はあくまで
「社長が余所からお気に入りを連れてきて、後継者候補に据えた」
といったものが大半だった。
経営陣に名を連ねてはいるが、未だ道半ばですらない。
私自身も、最後は社長が決める――そういう考えの逃げ道を残していた。
そしてなにより、この街は私にとってまだ『職場の周り』であって、故郷でも、守るべき場所でもなかった。
そして、再び春を迎えていた。
暦は三月。
取締役総務部長・名越一馬は、本社四階の会議室にいた。
その日は風もなく、波は穏やかで、空は澄んでいた。
長い冬の終わりを告げる桜の開花を待つ、春先の何の変哲も無い平日。
名越にとっては、延々と何ページも続く日常のうちの一ページに過ぎなかった。
「名越部長」
春の陽気につられて外を見ていた名越は、部下の星野華音に静かに声をかけられた。
彼女は部下として、最初からあくまで上司として接してくれた貴重な人だ。
この一年近しいところで一連の騒動を見ていたはずだが、全く変わっていない。
視線を戻すと、会議テーブルの向こうに、この会社の中枢を担う顔ぶれが揃っていた。
経理部長・高藤香。会社という存在を『数字』として見ている人間のそれだった。
営業部長・小早川純二は、椅子に浅く腰掛け、腕を組んだまま天井を見ている。
余裕のある態度だが、その視線は時折、窓の外の街へと向いていた。
そしてテーブルの端には運輸事業部長・立花恒一。
この会社の前身である臨海鉄道時代の採用組で、現場一筋数十年の男である。
そして会議室の上座には、社長が座っていた。
名越の上司でもある、長屋浩。
この会社の社長就任前は大都市郊外の駅で駅長を務めていた。
どういう奇縁で社長を務めているのか聞いたことはないが、大物政治家の推薦だとか巷では囁かれていた。
資料と現場を見比べて出す指示は的確そのもの、判断は迷わない。
そしてその豪腕と理詰めで、密かに「インテリヤクザ」とも影で囁かれている。
……名越もそう呼ぶ一人なのだが。
この簡素な構図が、お家騒動の末のこの会社の姿そのものだった。
ただお家騒動程度をものともしないその背中でこの会社を引っ張ってきたのだと、名越はまだ他人事のように理解していた。
議長役でもある名越は手元の資料に目をやり、軽く頷いた。
「では、次の事業年度についてです」
星野が議題を読み上げる。
「次期事業年度の経営方針の最終確認、および中期計画の方向性についてです」
高藤が即座に口を開いた。
「まず決算予測ですが、当社の今期決算は堅調です」
淡々とした声だった。
「各子会社含めた売上・利益共に概ね期首業績予想通り、鉄道事業も安定しています。大きな投資をしなければ、来期も同水準は維持できるでしょう」
小早川が肩をすくめる。
「維持ねぇ……。攻めない経営ってのは、営業的には退屈なんですが」
「無謀よりは、健全です」
高藤は即座に返す。
「このあたりの地域は人口が伸びていない。むしろ減少傾向です。今度のダイヤ改正では列車の減便を予定していることからも分かるとおり、需要も良くて頭打ちです」
立花が、低い声で割り込んだ。
「ダイヤ改正の内容はともあれ、線路はまだ使えます」
高藤が視線を向ける。
「まだという言い方が、私は気になります」
「鉄道施設はやや老朽化はしているが、今後の計画的な保守点検で十分保つ」
「それは、鉄道事業単体で採算が取れる前提での話ですか?」
立花は一瞬黙り、それから首を横に振った。
「いえ……。難しいでしょう」
会議室に、短い沈黙が流れた。
小早川が苦笑する。
「現場を踏まえた正直な意見だ」
名越は、そのやり取りから少し距離を置いて聞いていた。
この時点では、それはよくある経営会議だった。
数字と現場、攻めと守り。
どの会社にもある、どこか乾いたやり取り。
星野が議事録を取りながら言う。
「名越部長、来期の基本方針をどう設定なさいますか?」
名越がもう一度窓の外を見た。
窓の外には穏やかな春の明るさがあって、街はいつも通り、何事も起きていないように見えた。
「では皆さん、来期の基本方針ですが、現状維持を基本として話を進めたいのですが」
その時の名越は、そう答えた。
判断というより、時間を稼ぐための言葉だった。
——この街が、程なくしてすべてを失うことなど、考えもしなかった。
その直後だった。
低い唸り声が、足元から這い上がってきた。
――地震だ。
最初はせいぜい、また地震か、という程度の認識だった。
この間も大きい地震があったが、今回はせいぜい震度三くらいか。そう思った。
だが揺れは終わらない。二十秒、三十秒――長い。そう気づいた瞬間、携帯から緊急地震速報の警報音が鳴り響き、大きく、そしてはっきりと会議室の床が横に揺れた。
一度、二度。今までの小さな振動などではない。照明が大きく振れ、天井の奥で金属が鳴った。
ガラスが鳴り、壁の時計が落ちて、歪んだ音を立てる。
「地震だ!」
誰かが叫ぶ。
揺れは止まらなかった。立っていられないほどの横揺れが、長く、執拗に続く。
資料が床に散らばり、椅子が倒れ、窓の外で街全体が波打つように揺れた。
「全員、机の下へ!」
立花の声が飛ぶ。
星野は咄嗟に名越の腕を掴み、机の下へ引き込んだ。
——長い。
異様なほど、長い揺れだった。
後にも先にも、明確に自らの死を覚悟した地震はこの時だけだ。
やがて揺れは少しずつ弱まり、そして唐突に終わった。
不自然な静けさが会議室を包む。誰もすぐには立ち上がれなかった。
遠くで、防災無線のサイレンが鳴り始める。
長屋は真っ先に立ち上がった。
「会議は中断だ。状況の確認を優先する」
声は短く、迷いがない。
続けざまに指示が飛ぶ。
「星野、緊急連絡網を回せ」
「立花、線路と車両の状況確認。各地の状況確認を急げ」
「小早川、取引先と避難所の情報を集めろ」
「高藤、各事業所への連絡。必要な資機材の手配準備と想定される資金の出入りを整理しろ」
長屋はその時、一人の経営者ではなく、一人の現場長だった。
緊急時に組織をどう動かすのかを、名越はその背中で初めて思い知らされた。
だが同時に、それは長屋だからできる動かし方でもあった。
最後に長屋は、名越を見た。
後継候補の人間。
未だその枠に収まっているかすら怪しい人間に、長屋は、
「名越、お前は本社を守れ。情報を整理し全体を見ろ。……ここから先は、決める側だ」
津波警報が鳴り続ける中で、長屋は「駅へ向かう」とだけ告げた。
長屋は自らの目で現場を見て判断する——そういう種類の人間だ。
危険は承知だが、駅は人が集まる。安全のために、判断して責任を負う誰かが要る。
だがこの場においては長屋の考えは全く理解できなかった。
何を言っているのか、何をしようとしているのか、どこへ行くのか、トップが軽々に動くな。
しかしそれらの思いが口をつく前に、長屋は皆が止める間もなく視界から消えた。
それから名越たちは社内を走り、各自の無事を確認し、通信を試み、外の情報を探した。
だが電話は回線の輻輳か繋がらず、インターネットは途切れ、ラジオだけが断片的な情報を吐き出していた。
――巨大地震発生。
――沿岸部に、津波警報。
――ただちに高台へ。
「……津波?」
小早川が、信じられないという顔で呟く。
警報が鳴り続ける中で、とにかく上へと昇り、屋上へ移動した。
その時、誰かが「海!」と声を挙げた。
普段ならうっすらと見える海が、視界から消えていた。
「……まずい」
立花の声が低く沈む。
時計を見る。
地震発生から、すでに四十分近くが経っていた。
そして——
言葉にする前に、それは来た。
海は遠くにあるはずなのに、近寄ってきていた。
波だと呼ぶには、遅すぎた。
海が、壁のように立ち上がり、街へ向かって崩れ落ちるのが見えた。
海水が堤防を越えて、最初はじわり、じわりと、日常を蝕むかの如く街に流れ込んでくる。
そうして次の瞬間、視界の端で、瓦礫と水と、信じられない速さで流されていく『街であった物たち』を捉えた。
「逃げろ」という声が、どこか遠くで響いていた。
だが、名越の意識は海から離れなかった。
海が、こちらを見ている。
そんな感覚があった。
世界が、裏返る。
音が、途切れる。
色が、薄れる。
轟音。
悲鳴も衝突音も、すべてが一つの音に溶けていく。
名越は、ただ立ち尽くしていた。
——時間が、途切れた。
——気がつくと、夜だった。
本社内には、ほうほうの体で避難してきた人々が床に座り込み、その姿は懐中電灯の淡い光でのみ保たれていた。
外は、静かすぎるほどに静かだった。
波の音もしない。
風の音もしない。
皆一様に息を潜め、何かから逃れるように身を寄せ合い、朝が来ることに一縷の望みを繋いでいるようだった。
その時の名越には、今後のことなど到底考えが及ばなかった。
やけにリアルな避難訓練であってくれ。これは悪い夢である、と。
むしろ積極的に現実逃避しようとしていた。
避難してきた人々と同様に、いやそれ以上に現実を認めたくはなかったのだ。
だが夜明けとともに寒風吹きすさぶ社屋の屋上に上がると、はかない希望など、所詮希望に過ぎなかったと、否応なしに打ちのめされた。
そして夜明け前の自分に向かって吐き捨てた。
「ばかじゃねぇの……」
分かっていた。
事実は優しくないと。
この街は――
終わったのかもしれない、と。




