第5話:田舎への誘い(スローライフの予感)
当面の資金を確保し、宿についた二人。 今後の身の振り方を相談する中で、マリエルから魅力的な提案があります。
「田舎」「実家」「スローライフ」。 疲れた社畜には、あまりに甘美な響きですが……。
マリエルが確保したのは、王都の裏通りにひっそりと佇む宿だった。
安宿と呼ぶには磨かれた床板が清潔で、旅籠と呼ぶには簡素すぎる調度品が並んでいる。埃と汗の匂いが染みついた往来から隔絶された、束の間の避難所。
少なくとも、身分を証明するもの一つない私たちを、差し出された硬貨(マリエルが払ったが)だけで、主人は無言のうちに受け入れた。
「……ふぅ」
軋むベッドに深く腰を下ろすと、数時間ぶりに、肺の底から空気を絞り出すような溜息が漏れた。喉の奥に張り付いていた熱い塊が、ようやく少しだけ解けていく。
断罪、勘当、追放、そして無一文(これは回避されたが)。
怒涛、という言葉ですら生温い。脳髄が沸騰し、手足の感覚が麻痺していくような感覚。前世、佐藤葵として生きていた頃の、一週間の徹夜明けに叩きつけられたデスマーチの終結宣言。あの時の、魂が抜け殻になる感覚に酷似していた。
テーブルの向こうでは、マリエルがランプの貧しい光を頼りに、先ほど換金したばかりの金貨と銀貨を、冷静沈着に仕分けている。カチャ、カチャ、と硬貨が触れ合う乾いた音だけが、室内に響く。その指先には一切の迷いがない。
あの豪奢な宝石と、一度しか袖を通さなかったドレスが、目の前の革袋の山に姿を変えたのだ。
公爵令嬢(元)の持ち物、その価値に今更ながら戦慄する。
「(とはいえ……)」
私は、その革袋が孕む重みを、不安な視線で捉えていた。
素人目にも分かる、大金だ。平民が数年、あるいは十年、遊んで暮らせるだけの価値があるのかもしれない。
だが、永遠ではない。
お金は、使えばなくなる。この世界で、この身一つで生きていくには。
(私は……「ロザリア」は、貴族の作法以外、何も知らない。いや、転生したての私(佐藤葵)に至っては、その肝心な作法すら、うろ覚えだ。生活能力、ゼロ)
前世で培った営業事務スキル。Excelの関数、PowerPointの美しい資料作成術。そんなものが、石畳と馬車の世界で何の役に立つというのか。
どうする? このまま王都に潜んでいても、いずれ金は尽きる。
路頭に迷うのは、時間の問題だ。
「あの……マリエルさん」
掠れた声が出た。
「はい、お嬢様」
「あなたは……これから、どうするつもり? 私のせいで、その……職を、失うことになったのに」
私がそう尋ねると、マリエルは硬貨を数える手をぴたりと止め、静かに顔を上げた。ランプの光が、その無表情な顔に淡い陰影を作る。
「お気遣いは無用です。私は、実家に戻る所存ですので」
「実家?」
「はい。王都から馬車で20日ほど離れた……田舎の、静かな村にございます」
田舎。村。
その言葉が、ささくれだった私の心に、清涼な水のように染み込んでいく。乾ききった喉を潤す、最初の一滴のように。
(田舎……いい響きだ……)
前世は、東京のコンクリートジャングル。死んだような蛍光灯の光を浴び、無機質な数字に追い立てられる日々。
転生したら、きらびやかだが魑魅魍魎の渦巻く貴族社会(そして、即刻追放)。
どちらも、私(佐藤葵)が心から求めていたものではなかった。
私がぼんやりと夢想に浸っていると、マリエルが不思議そうに小首を傾げた。
「お嬢様は、いかがなさいますか? この王都に残られますか?」
「え……あ、いや、私は……」
そうだ。マリエルが実家に帰ってしまったら?
私は一人になる。
この、超有能で、冷静すぎて少し(いや、かなり)怖いが、今や唯一の命綱である彼女と、ここで別れる?
無理だ。絶対に無理。
この王都で、生活能力ゼロの私が、一人で生きていけるわけがない。外の喧騒が、急に牙を剥く獣の唸り声のように聞こえた。
私が絶望に彩られた顔で激しく首を横に振るのを、マリエルは(おそらく、すべて計算通りに)見届けてから、告げた。
「もし、お嬢様さえよろしければ」
「……え?」
「私の実家に、ご一緒にいらっしゃいませんか?」
――キた。
その誘いを、私は息を詰めて待っていた。
「い、いいの!?」
「はい。幸い、実家は(田舎貴族ではございますが)屋敷もございます。お嬢様お一人を匿うくらい、造作もございません」
(……スローライフだ)
私の脳内に、理想郷のイメージが洪水のように押し寄せた。
目に鮮やかな緑豊かな村。肺を満たす美味しい空気。土の匂いがする、採れたての野菜。
恩着せがましい上司も、理不尽な取引先も、ここにはいない。
私を「淫乱令嬢」と蔑んだ王子の顔も、「野垂れ死ね」と吐き捨てた実の両親の憎悪に満ちた目もない。
激務と過労で死んだ社畜(佐藤葵)。
転生した途端、すべてを奪われた悪役令嬢。
そんな、傷だらけの私の心を癒す場所。
それが、田舎でのスローライフ!
(そこで、生活の基盤を立て直すのよ! 前世では叶わなかった、まともな、人間らしい生活を……!)
(あわよくば、村の朴訥とした、誠実な青年と出会って……! そうよ、今度こそ彼氏なしの人生(前世)を繰り返したりしないわ!)
輝く未来が、目の前に広がった気がした。私は興奮のあまり、ベッドから勢いよく立ち上がっていた。
テーブル越しに、マリエルの両手を、祈るようにガシッと握りしめる。
「行く! 行きます! あなたの実家に、ぜひ、連れて行って!!」
私のあまりの剣幕に、マリエルは一瞬だけ、本当に僅かに目を丸くしたが、すぐにいつもの完璧な無表情に戻った。
「かしこまりました。では、明朝、始発の馬車で発ちましょう」
マリエルはそこで言葉を切ると、ふい、となぜか私から不自然に視線を逸らし、窓の外の暗闇に目を向けた。
「きっと、ロザリーさまも喜ぶでしょう」
「誰?」
あまりに自然に、さらりと零れた名前に、私は首を傾げる。ロザリアの知り合いだろうか?
マリエルは、視線を私に戻そうとはしない。ただ、窓を見つめたまま、しかし、はっきりとした声で答えた。
「ロザリアさまの、隠し子です。……お嬢様が15の時に、ご出産なさった」
時が、止まった。
宿の外の喧騒が、遠い世界の音のように掻き消える。ランプの炎だけが、ゆらりと揺れた。
どれくらいの時間が経っただろう。三十秒、あるいは一分か。
私はゆっくりと右手を持ち上げ、左胸のあたりを、鷲掴みにした。そして、そのまま心臓を蘇生させるかのように、乱暴に圧迫し始めた。ドン、ドン、と。
私の奇行に、さすがのマリエルも驚いたようにこちらを向いた。
「どうなさいましたか、ロザリアさま?」
「心臓が、止まったから……再起動、させないと」
(マジでなんなんだよ、ロザリア。そりゃあ……そりゃあ、「野垂れ死ね」とか言われるよ)
再起動しない心臓の代わりに、前世の記憶が吐き気を伴って蘇ってきた。
お読みいただきありがとうございます。
スローライフ(大嘘)。 まさかの「隠し子」発覚です。しかも15歳で出産。 元・ロザリアの人生設計が破天荒すぎて、佐藤葵(28)の心臓が止まりかけました。再起動が必要です。
「淫乱令嬢」という噂だけかと思いきや、動かぬ証拠(子供)までいたとは……。 ここからどうやって育てていくのか(あるいはマリエルに詰められるのか)。
次回、『発覚、そして逃亡の支度』。 衝撃の事実を受け止める間もなく、新たな危機が迫ります。
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