第40話:交渉成立と『悪』の継承
アメ(利益)に食いついたターゲット。 しかし、まだ彼は「自分が主導権を握っている」と勘違いしています。
マリエルさん、お願いします。 彼に「現実」を教えてあげてください。
「――当方の『リスク評価報告書』の概要説明を」
私の、体温のない業務用語。
それを聞いたマリエルは、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、かつての(・・・)皮肉なメイドが浮かべるような笑みを、口の端に刻んだ。
彼女は、私の後ろから一歩前に進み出る。その動きには、もはや何の躊躇もなかった。
その手には、王都に来る前に荷物の奥から取り出していた「ロザリア(元)の私的な便箋」……その、忌まわしい記憶の束が握られていた。
「リスク評価報告書、ですか。……ああ、こちらの『通信記録』のことですね」
ひらり、と。
マリエルは、その便箋の束から一枚を抜き取り、まるで価値のないカードでも配るかのように、テーブルに滑らせた。
それは、ユーリス・マルカムの流麗な筆跡で書かれた、ロザリア(元)への――熱烈な、しかし己の政治的な野心を隠さない、愚かな「恋文」だった。
ユーリスの顔が、凍り付く。
「ユーリス様。あなたは昔から、“口説き文句”は雄弁でしたが、“証拠隠滅”は甘かった」
マリエルの声は、氷のように冷たい。
それはもはや、かつての「被害者」の震える声ではなかった。
私(葵)のロジック(論理)と、彼女自身の「復讐心」という名の情念が、冷たい炎となって融合した、“監査役”の声だった。
「その『通信記録』は、全て(・・)ヴェルデ公爵夫人の元へ送る手はずになっております」
「……っ!」
ユーリスが、椅子を蹴立てんばかりに立ち上がった。血の気が引く音が聞こえるかのようだ。
「貴様らっ……!」
彼が最も恐れる相手。
ロザリアの父(ヴァルカン公爵)は、道具が壊れたところで「政治的損失」で判断するかもしれない。
だが、母(ミランダ公爵夫人)は違う。
あの女は「体面への泥」を、絶対に許さない。
公爵令嬢と密通し、ヴェルデ家の純潔と権威に泥を塗った下級貴族など、それこそ社会的に(・・・・・)抹殺するだろう。
それが、マリエルが放った、完璧な「ブラフ(脅迫)」だった。
「……汚い、娼婦どもが……」
ユーリスは、絞り出すような声で悪態をついた。だが、その声は震えていた。
彼は、ゆっくりと、崩れ落ちるように座った。
「アメ(監査データ)」と「ムチ(スキャンダル)」。
両方を提示され、彼に「拒否」という選択肢は消えた。
彼は、もはやエリート官僚ですらない、ただの保身に走る男の顔で、私たちを睨み据えた。
「……何が望みだ」
(フェーズ2、完了)
私は、この交渉の「勝利」を確信した。
「ご決断、感謝いたします」
私は、表情一つ変えずに、用意していた要求の仕様書を読み上げる。
「要求は二点。
一点。ブライトン家領地における、『試験的農法導入』を名目とした、今後五年間の『税制優遇措置』の認可。
二点。ブライトン家の『保存食(特産品)』を、王宮御用達の商人へ『優先的に斡旋』するルートの確保」
「……ふざけた要求を……」
「(あなたがた)上司の政敵(代官)を排除する“手柄”と、あなた(・・)のキャリア(・・)を守る“保険”。その対価としては、妥当かと存じます」
ユーリスは、ギリ、と歯を食いしばった。その音が、薄暗い部屋に響く。
数秒の沈黙。
やがて、彼は吐き捨てるように言った。
「……分かった。その条件、呑もう」
「ありがとうございます」
「……消えろ。二度と私の前にその顔を見せるな」
交渉は、成立した。
◇
宿屋を出て、王都の雑踏に戻る。
私とマリエルは、再び深くフードを被り、足早に乗合馬車の乗り場へと向かった。
人々の喧騒が、ひどく遠くに聞こえる。
どちらからともなく、言葉はない。
(……やった)
私は、自分の手を見つめた。
(プロジェクト『対ユーリス交渉』、タスク完了だ)
私は、人を脅迫した。
ロザリア(元)が残した、最も醜悪な「負の遺産」を武器として。
目的のためなら、手段を選ばなかった。
これは、倫理的に(コンプライアンス的に)言えば、完全に「悪」だ。
(……ああ、そうか)
ロザリア(元)も、きっとこうだったのだ。
自分の「承認欲求」や「快楽」を満たすためなら、手段を選ばなかった。
私は、彼女の「遺伝子」を、確かに受け継いで(・・・・・)しまったのだ。
(だが)
私は、隣を歩くマリエルの横顔を見た。
彼女は、まだ緊張が解けないのか、こわばった表情で前だけを見ている。
(ロザリア(元)は、「自分」のために悪を使った)
(私は、「ロザリーとマリエル(プロジェクト)」のために悪を使った)
腐った「不良在庫」を、最も効率的に「再利用」しただけだ。
「悪(ロザリアの遺伝子)」を、私(佐藤 葵)が“最適化”した。
それでいい。
それが、私の「監査」だ。
帰り道の馬車の中。
ようやく全ての緊張が解けたのか、マリエルは窓の外を流れる景色を見ながら、ポツリと呟いた。
「……これで、家の心配も、ロザリーの将来も、少しは安心ですね」
「はい。当面の“予算”は確保できました」
「……よかった」
マリエルは、心からの安堵の息を吐いた。それは、脅迫という重い罪を犯した直後とは思えないほど、澄んだ吐息だった。
そして、彼女は続けた。
「――お見合い、真剣に進められます」
「……はい?(え?)」
お読みいただきありがとうございます。
「貴様らっ……!」 ユーリスの顔色が土気色に変わる瞬間、最高でしたね。 かつて自分が書いた恥ずかしいポエム(恋文)と、決定的な密通の証拠。 これを「実家の母(ミランダ夫人)」に送ると脅されれば、エリート官僚も形無しです。
「アメとムチ」による完全勝利。 主人公の手は汚れましたが、その結果、ブライトン家とロザリーの未来が守られました。 「悪」を「正義(生活費)」のために使う。 社畜流の“最適化”完了です。
次回、『『プロジェクト完了』報告と、日常への回帰』。 戦果を持って、懐かしい我が家(ブライトン家)へ帰ります。 待っているのは、小さなクライアント(ロザリー)の笑顔です。
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