第38話:接触(ファーストコンタクト)と冷笑
薄暗い宿の一室。 そこにいたのは、かつてロザリア(元)を利用し尽くした男、ユーリスでした。
「野垂れ死んだかと思っていた」 「金の無心か?」 手痛い罵倒が飛んできますが、クレーム対応歴・数年の元社畜には「挨拶」にしか聞こえません。
仲介人の男に導かれ、私たちはきしむ階段を上った。一歩ごとに、踏み板が乾いた悲鳴を上げる。二階の突き当たり、その部屋の扉は、まるでこの宿の歴史すべての汚れを吸い込んだかのように黒ずんでいた。
男は無言でドアを三度ノックし、返事も待たずに重い扉を開け放つ。
「……お連れした」
その一言だけを吐き捨て、男は影の中へと溶けるように立ち去った。
私とマリエルは、意を決して薄暗い室内へと足を踏み入れる。
澱んだ空気が肌にまとわりつく。カビと埃、そして微かな安酒の匂いが混じり合い、呼吸を浅くさせた。
部屋の中。
窓から差し込む唯一の鈍い光の中に、一人の男が背を向けて立っている。別段見るべきものもない、荒れた中庭を眺めているようだ。
そして、ドアのすぐ脇。秘書官風の男が腕を組み、研ぎ澄まされた敵意そのもののような冷たい目で、私たちを監視している。
やがて、窓辺の男が、まるで埃っぽい舞台で主役が登場するかのように、ゆっくりと振り返った。
銀縁の眼鏡。神経質そうに引き結ばれた口元。そして、すべてを凍らせるような、冷たい灰色の瞳。
ロザリア(私)の記憶が、その男の名を即座に引き当てる。
――ユーリス・マルカム。
彼は、私たちの「落ちぶれた未亡人姉妹」というみすぼらしい“変装”を、頭のてっぺんから泥のついた靴の先まで、まるで汚物を値踏みするように眺めた。
数秒の沈黙。
やがて、彼の唇が、歪んだ。
それは、純粋な、底意地の悪い嘲笑だった。
「これはこれは。てっきり、とうの昔に野垂れ死んだかと思っていましたが」
乾いた、人を馬鹿にしきった声が、室内の埃を震わせる。
彼は、かつて愛人(利用相手)だった女の“なれの果て”を、心の底から愉しんでいるようだった。その視線は、私たちの粗末な麻布を透かし、肌にまで突き刺さる。
「……随分と、みすぼらしくなりましたね。ロザリア・“元”公爵令嬢」
“元”の部分に、ことさら力が込められた。
私の隣で、マリエルの肩が、屈辱と怒りで微かに震えるのを(私は)感じ取った。無理もない。
ロザリア(元)のDVだけでなく、この男もまた、マリエルの人生(婚活)を狂わせた「共犯者」の一人。彼女の婚約(取引)を妨害していたロザリアが、その裏でこの男と密会(癒着)していたのだから。
ユーリスは、私たちの惨めな姿に満足したように、芝居がかった仕草で懐に手を入れた。
「それで? ご用件とは? ……まさか、金の無心ですか?」
く、と彼は喉で笑う。その音が、ひどく耳障りだ。
「昔のよしみ(・・・)で、銅貨の一枚でも恵んで差し上げましょうか?」
ああ、ダメだ。
そのセリフ(マウント)、完全に「悪手」だ。
(社畜耐性、発動)
前世で、理不尽なクレーマーや、パワハラ上司から散々浴びせられてきた罵詈雑言。それらの言葉のナイフに比べれば、ユーリスの嘲笑など、春のそよ風に等しい。
クライアントの無礼な雑談など、日常業務だ。
私は、爪が食い込むほど拳を握りしめ、震えるマリエルの前に、スッと一歩出た。
彼女を守るため? 違う。
プロジェクトの「共同監査人」が、ここで感情的になっては、タスクに支障が出るからだ。
私は、ゆっくりとフードに手をかけた。
そして、この薄暗い部屋の空気を断ち切るように、それを外した。
隠しようのない燃えるような赤髪が、唯一の光を吸い込んで、ぼうっと発光するかのようにさらされる。
ユーリスの唇に浮かんでいた嘲笑が、ほんの一瞬、凍り付いた。
私の顔は、彼が知る「ロザリア・ヴェルデ」の絶世の美貌のままだろう。
だが、その中身(OS)は違う。
ロザリア(元)の記憶によれば、彼女の瞳は「情熱的」で「高慢」で「淫蕩」だったらしい。
だが、今、ユーリスを映しているこの金色の瞳は――過労死した社畜OL・佐藤葵のものだ。
そこにあるのは、情熱でも高慢でもない。
徹夜続きのデスマーチの果てに、全てを諦観した「虚無」だ。
「……なんだ、その目は」
ユーリスが、その“異様な変化”に戸惑い、眉をひそめた。
当然だ。
彼は、惨めに媚を売る“元カノ(メス)”をいたぶるつもりでここに来たが、目の前に現れたのは、感情の温度が一切ない“ビジネスマン(オス)”だったのだから。
私は、彼の戸惑い(バグ)を無視し、前世の新規取引先への初回挨拶と、まったく同じトーンで口を開いた。
「ユーリス・マルカム様。本日は貴重なお時間を割いていただき、誠にありがとうございます」
「……なっ」
「――本日は、あなた様の『キャリアアップ』に関する、有益な『情報』をご提案しに参りました」
お読みいただきありがとうございます。
「なんだ、その目は」 ユーリスが動揺しています。 彼が期待していたのは「媚びる元カノ」か「泣き叫ぶ女」でした。 しかし、フードの下から現れたのは、絶世の美貌を持った「死んだ魚の目をしたビジネスマン」です。 コミュニケーションエラー(バグ)を起こすのも無理はありません。
マウントを取られても動じない。 人格否定されても「貴重なお時間をありがとうございます」と返す。 現代社会で磨かれた「社畜の鎧」は、異世界の嘲笑ごときでは傷つかないのです。
さて、挨拶(マウント合戦)は終了。ここからが本題です。 次回、『交渉の提示と『監査データ』』。 主人公がテーブルに置いた一枚のレポートが、ユーリスの顔色を変えます。
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