第35話:説得『これは“コスト(過去)”ではなく“投資(みらい)”だ』
トラウマを刺激され、拒絶するマリエル。 普通の人間ならここで引き下がりますが、社畜は違います。
「感情」というコストを排除し、徹底的な「利益」の話で再提案を試みます。
ロザリーの寝息だけが満ちる、冷え切った夜。
ブライトン家の古びた居間には、ランプの心許ない光だけが揺れ、私とマリエルさんの間に落ちる影を濃くしていた。二人の間に置かれたテーブルの上には、冷めた紅茶が手つかずで置かれている。
「あなたの……その、忌まわしい“過去”を……今更、掘り起こすというのですか!」
絞り出すようなマリエルの声は、怒りよりも深い痛みで震えていた。
拒絶。当然の反応だ。
彼女にとって、ロザリア(元)の醜聞は、その身に刻まれた癒えない傷であり、トラウマそのもの。それを「交渉材料に使う」などという提案は、人の心を踏みにじる冒涜にしか聞こえないだろう。
(ああ、やはり感情的だ)
私は内心で静かに息をつく。
違う。そうではない。マリエルの「不快感」は理解できる。ロジックとして理解はしている。だが、この案件を「感情」で処理し、貴重なリソースを死蔵させるのは、あまりにも非合理的だ。
「マリエル。あなたの『不快感』は理解できます。ですが」
私は、昨日まで格闘していたブライトン家の帳簿――その余白をインクで埋め尽くし、徹夜で書き上げた『リソース活用計画書』を、彼女の前に滑らせた。几帳面すぎる、しかし熱に浮かされたような文字の羅列。
「この案件を『感情』で処理するのは、合理的ではありません」
「……っ!」
マリエルが息を詰めるのが、空気の振動で分かった。
「現状、ブライトン家が保有する『換金可能なリソース(資産)』は、残念ながら、私の『記憶(情報資産)』以外に存在しません」
私の指が、計画書の「資産の棚卸し」という項目を、乾いた音を立てて叩く。
マリエルとロザリアの人生を狂わせた、あの忌まわしい過去。
私(葵)にとっても、思い出すだけで胃酸が逆流する“負の遺産”。
だが、社畜の目から見れば、それはただの「データ」だ。
利用価値のある、現時点で唯一の「データ」。
「私の“腐った記憶”という名の、『不良在庫』」
「……ふりょう、ざいこ……」
オウム返しにされたその声は、色を失っていた。
「はい。これを『コスト』として廃棄(清算)するのではなく、『投資』として再利用するのです。未来のために」
マリエルの瞳が、ありえないものを見るかのように見開かれる。
私は構わず、ロジック(プレゼン)を続けた。
「生み出す『利益』は、二つ。ロザリーの『養育費(安定予算)』と、あなたの『未来(婚活資金含む、生活安定)』です」
「……」
「私の“醜聞”で、あなたの“未来”が買える。これほど効率的な“コスト活用(資金調達)はありますか?」
真顔で言い切る。
その瞬間、マリエルの表情から、怒りが急速に抜け落ちていった。
恐怖?
いや、違う。
それは、まるで、道理も感情も通じない、理解不能な「化け物」を目の前にした時の……ぞっとするような、冷たい目だった。
(……あれ? ロジック、間違えたか?)
いや、間違ってはいないはずだ。
目的は「マリエルとロザリーの生活安定(プロジェクト完遂)」。
手段は「手持ちリソースの最大活用」。
何一つ、間違っていない。
マリエルは、目の前の狂気じみた計画書と私の顔を、何度も、何度も、視線だけで往復させた。
ランプの炎が揺らめき、彼女の顔に落ちる影が踊る。
数分にも思える長い沈黙の後、彼女は、肺の底から全てを絞り出すような、深すぎるため息をゆっくりと吐き出した。
「……本当に、あなたは……」
その声には、怒りも、悲しみも、拒絶も消え失せていた。
ただ、乾ききった「呆れ」と、奇妙な「納得」のような色が混じり合っていた。
(ああ、そうか)
彼女は、今、この瞬間に確信したのだ。
目の前にいる「ロザリア・ヴェルデ」は、かつて自分を虐げ、高慢に笑っていた令嬢とは、中身がまったく別物に入れ替わってしまったのだ、と。
そして同時に、彼女は理解してしまった。
その「化け物」が、今、自分自身の“最も汚れた在庫”を何の躊躇もなく「道具」として差し出そうとしているのは、紛れもなく「自分とロザリーのため」なのだ、と。
「……分かりました」
マリエルは、冷え切った、しかし強い光を宿した目で私を見据えた。
「その“投資”とやら、承認します」
(よし、承認が下りた)
私が内心で小さくガッツポーズをした、その瞬間。
「ただし、条件があります」
「(カウンター提案か。想定内だ)」
「なんでしょう」
「その“取引”の場には、私も同行します」
「人員は最小限がセオリーですが」
私がロジック(反論)を口にしようとしたのを、マリエルさんの鋭い言葉が遮った。それは、先ほどまでの怯えた声とは別人のように、私を射抜いた。
「あなたは、あの男を前にして、昔の“ロザリア”に戻らないと保証できますか?」
「……え?」
(戻る? 何に? これがデフォルト(私)だが)
私の本気の戸惑いを、彼女は別の意味に受け取ったらしい。
マリエルは、決意を込めた目で、はっきりと宣言した。
「――私が、あなたの“監査役”として、あなたを監査します」
お読みいただきありがとうございます。
「私の“醜聞”で、あなたの“未来”が買える」 悪魔のささやきか、あるいは究極の合理的判断か。 自分の黒歴史を「不良在庫」と言い切る主人公に、マリエルさんもついに悟りを開きました。 「あ、この人、本当に前のロザリアじゃない。ただの“化け物(社畜)”だ」と。
恐怖が呆れと納得に変わった瞬間、本当の意味での「承認」が下りました。
しかし、ただでは転ばないマリエルさん。 「私があなたの“監査役”になります」 対等なパートナーとしての宣言。熱い展開です。
次回、『『共同監査』の準備(報・連・相)』。 最強のバディ(?)が、悪だくみの準備を始めます。 まずは「裏社会」へのコネクションから……って、マリエルさん何者ですか?
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