第28話:監査役(わたし)の責任(プロジェクト
悪夢からの目覚め。 自分の手に残る、殴った感触。 それは、私が確かに犯した「罪」でした。
パニックに陥った元社畜が、徹夜で導き出した「責任の取り方」とは。
「ああああああーーーーーっ!!」
離れの物置部屋の冷たい空気を、私の絶叫が引き裂いた。
腕の中が、突然、燃えるように熱くなった。ロザリーだ。私の(自分でも制御できなかった)絶叫と殺気に、その小さな体がビクッと硬直し、次の瞬間、この世の終わりのような大声で泣き叫び始めた。
「いやああああ!! いやああああ!!」
だが、その甲高い悲鳴すら、今の私には届かない。
私は、自分の手を見つめていた。
ロザリーを抱きしめていたはずの、温かい手。
今、この手のひらには、夢の中でマリエルの頬を殴った、あの乾いた衝撃と、鈍い痛みの感触が、現実のものとして生々しく焼き付いていた。
(殴った。私が。マリエルを)
「ロザリア様! 何をなさったのですか!」
鋭い声が飛んできた。
離れの隅の寝台で寝ていたマリエルが、音もなく飛び起きていた。
彼女が見た光景は、地獄だっただろう。
鬼の形相で自分の手を見つめてフリーズする私と、その私の腕の中で(まるで今まさに虐待でもされたかのように)泣き叫ぶロザリー。
マリエルの青い瞳が、一瞬、DVの記憶が蘇ったかのように、冷たい怒りと軽蔑に凍りついた。
「っ……!」
マリエルは、私にそれ以上何も言わず、私の腕から(汚れた布でも払うかのように、事務的に、しかし素早く)ロザリーを奪い取った。
「大丈夫です、ロザリー。大丈夫。怖くありません」
マリエルは、いつもの「見本」のように、ロザリーの背中を正確なリズムで叩き、冷静に(しかしその目は私を危険物として鋭く監視しながら)あやし始める。
私は、ロザリーを奪い取られたことにも気づかなかった。
ただ、ロザリーをあやすマリエルの、その「頬」を、戦慄と共に見つめていた。
((殴った。私が。この頬を))
((あの、乾いた音。手のひらの感触。マリエルの、諦めた目……!))
私は、その視線に耐えきれず、よろよろと後ずさった。
そして、自分が積み上げた監査資料の砦、あの『作業ゾーン』へと、文字通り転がり込むように逃げ込んだ。
*
眠れるはずがなかった。
眠れば、また『ロザリア(元)』に意識を乗っ取られるかもしれない。
あの悪夢が、現実の私を支配するかもしれない。
私は、自分の『作業ゾーン』で、ランプの心もとない光の下、震える手で(前世のデスマーチのように)新しい羊皮紙に向かった。
これが、私、佐藤葵の、唯一の「現実逃避」であり「問題解決」の手段だった。
(落ち着け。パニックは最大の非効率だ。現状を整理しろ。これは『プロジェクト』だ)
私は、震える手で、羽ペンを握りしめた。
プロジェクト名:『マリエル・ブライトン 人生補償プロジェクト』
(そうだ。これは『インシデント』だ)
インシデント(問題): 私による、マリエルへの「DV(身体的・精神的虐待)」および「婚活妨害(機会損失)」。
ルートコーズ(根本原因): ロザリア(元)の精神的脆弱性。そして、私(葵)の『統合』による制御不能。
そこまで書き殴った時、強烈な吐き気がこみ上げてきた。
あの夢の感触。
殴った瞬間の、ロザリア(元)の「歪んだ安堵」。
(違う。私はあんな奴じゃない。でも、あの感触を、私は『知って』しまった)
私はもう、ただの『佐藤葵』じゃない。
私は、『ロザリア(加害者)』だ。
その事実が、氷の杭のように胸に突き刺さる。
(……続けろ)
私は、吐き気を堪え、ペンを走らせる。
ダメージ(損害)の定量化:
尊厳の喪失。
安全な生活の喪失。
そして、最大の損害――『結婚(という名の、彼女が望んだ人生プロジェクト)』の完全な頓挫。
そうだ。私は、彼女の人生を奪った。
ならば、どうする?
(謝罪?「ごめんなさい、DVの記憶を追体験しました」?)
(ふざけるな。それはただの「ステータス報告」だ。何の解決にもならない)
(損害は、賠償しなければならない)
(私は、マリエルから『夫』と『安定した未来』を奪った)
(ならば、私が賠償すべきは、その『夫』と『安定した未来』そのものである)
……そうだ。
『夫』の機能とは何か?
私の(社畜)思考が、恐怖から逃れるために猛烈な速度で回転し始める。
経済的安定(これは私の『監査』スキルで、ゲルマンの横領金を回収し、ブライトン家を立て直せば提供できる)
育児の共同遂行(ロザリーは私の子だ。これは当然の責務)
生涯のパートナーシップ(これが『夫』の最重要契約事項だ)
(……これだ)
(ロジックは、完璧だ。これ以外に、彼女の失った人生を賠償する方法はない)
私は、一晩かけて書き上げた「監査報告書(という名の人生計画書)」を完成させた。
夜が明け始めていた。
離れの窓から差し込む薄明りが、私の顔を照らす。
私の目は、一睡もしていないために(ゲルマンを発見した時以上に)爛々(らんらん)と血走り、狂気的なまでの「達成感」に満ちていた。
私は、その「完璧な解決策」が記された羊皮紙を手に、マリエルの寝台――ロザリーが(昨夜の恐怖からか)マリエルに抱きついて眠っている――の前に、仁王立ちした。
(待ってて、マリエル。今、私があなたの『損害』を、完璧に『補填』する)
(私が奪った『夫』は、私が『代わり』になることで、賠償する)
お読みいただきありがとうございます。
「私が奪った『夫』は、私が『代わり』になることで、賠償する」 ……どうしてそうなった。 論理的思考を突き詰めすぎた結果、一周回って狂気に行き着きました。 「経済的安定」「育児の共同遂行」「パートナーシップ」。 確かに夫の機能ですが、それを元・DV加害者が提案するのはリスクが高すぎます。
しかし、本人は大真面目です。 徹夜で書き上げた「監査報告書」という名の「プロポーズ(のようなもの)」を手に、いざ出陣。
次回、『監査報告と、差し戻し(リジェクト)』。 マリエルさんの反応は、恐怖か、呆れか、それとも……?
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