第27話:平穏(コメディ)と侵食(バグ)
ロザリーちゃんの中で、私のポジションが「怖い人」から「変な生き物」に確定しました。 作業エリアに入り浸り、私の真似をして「お絵描き(業務)」に励むクライアント。
将来有望な「ジュニア・アソシエイト」の誕生です。 平和な日常に見えましたが……。
あの日、私が(監査報告書を守るため)インク瓶とロザリー(クライアント)を同時にキャッチするという荒業を演じ、結果、ロザリーに「変な生き物」認定されてから、数日が経過した。
離れの物置部屋の空気は、奇妙な均衡の上で安定していた。
北側、私の『作業ゾーン』。インクと埃の匂い。
南側、ロザリーの『安全ゾーン』。磨かれた床板の冷たさ。
そして中間地点、マリエルの『監視ゾーン』。
ロザリーは、もはや私を怯えることはない。
それどころか、私が『作業ゾーン』に引きこもり、鬼の形相で監査資料をめくり始めると、彼女も『安全ゾーン』からトコトコとやってきて、私の足元で自分のお絵描き用の裏紙を(私と同じ、真剣な顔で)めくり始める。
私が羽ペンでカリカリと数字を書き込めば、彼女も炭で(私と同じ、真剣な顔で)謎の線を書き込む。
(……クライアントが、こちらの業務フローを自発的に模倣している!)
私は、その奇妙な「共同作業」の光景に、密かな感動を覚えていた。
(なんて効率的なOJTなんだ! このまま育てば、五年後には優秀なジュニア・アソシエイトになるぞ!)
前世のデスマーチでは決して得られなかった、歪な達成感と、奇妙な平穏がそこにはあった。
その平穏を、いつも通りの足音が破った。
マリエルだ。
彼女は、私たちの「共同作業」など意にも介さず、掃除道具を手に、淡々と部屋の床を水拭きし始めた。
『作業ゾーン』と『安全ゾーン』の境界線を、まるで国境を定めるかのように、一糸乱れぬ動きで拭き清めていく。
いつも通りの、完璧な業務遂行。
私が、その姿を(ああ、今日も仕事が正確だな)と、ある種の尊敬をもって眺めた、その瞬間だった。
((―――なぜ、お前は、そんなに冷静なのだ))
ズキン、と。
頭痛ではない。熱いマグマのような感情が、私の内側から勝手に湧き上がった。
((私が、こんなに苦しんで、こんなに必死で(監査を)やっているのに))
((お前はいつも、私を置いて、一人で『正しい』場所にいる!))
「なっ……!?」
私は、自分の内側から噴き出した、あまりに理不尽な「被害者意識」と、マリエルへの「歪んだ苛立ち」に、愕然とした。
(違う!)
心臓が、恐怖で冷たくなる。
(私(葵)は、マリエルに感謝している! 尊敬している! なのに、今の、この黒い感情は何だ!?)
(これは、私(葵)の感情じゃない。ロザリア(元)の感情だ!)
この前の頭痛を「疲労」だという現実逃避は、もうできない。
私は、ついに真実と直面した。
『統合』が始まっている。
ロザリア(元)の精神が、私(葵)の精神(OS)を、オーバーライドしようとしている。
前世のどんなデスマーチよりも恐ろしい、「自分が失われる」という本質的な恐怖が、背筋を駆け上がった。
「……ロザリア様? 顔色が」
「(遮るように)何でもない! 監査の続き!」
私は、マリエルの声から逃げるように、その「侵食」から逃れるように、さらに深く、目の前の『監査』という名の仕事に没頭していった。
*
その夜。
私は、侵食の恐怖で、粗末なベッドの上で寝付けずにいた。
(このまま眠ったら、朝、目覚めた私は、『私(葵)』ではなくなっているかもしれない……)
(あの、理不尽な感情に、乗っ取られていたら……)
冷たい汗が、背中を伝う。
その時だった。
隣の寝台から、もぞもぞ、と小さな気配が動いた。
ロザリーだ。
彼女は(寒いのか、あるいは私を「変な生き物」として気に入ったのか)おもむろに寝台を這い出すと、トコトコと歩いてきた。
そして、私の(粗末な)ベッドに、何の許可もなく勝手に潜り込んできた。
「……おい。クライアントの無断侵入」
私が戸惑っていると、ロザリーは、私の腕の中にすっぽりと収まり、すーすーと安心しきった寝息を立て始めた。
(……クライアントが、監査役のベッドで寝てる……)
その、小さな温もり。
前世でも、ロザリアとしても味わったことのない、純粋な「安らぎ」。
その「安らぎ」に、「侵食」への恐怖が、一瞬だけ和らいだ気がした。
(……温かい)
私は、ロザリーをそっと抱きしめたまま、抗うのをやめ、深い眠りに落ちていった。
だが、その「安らぎ(油断)」が、ロザリア(元)の記憶の、最も深く暗い場所への扉を開いてしまった。
夢を見た。
視点は、完全に「ロザリア(元)」だった。
母親の甲高い声が、鼓膜を突き破る。
『お前は失敗作だ!』
『リオン(弟)の爪の垢でも煎じて飲め!』
ストレスが限界に達し、豪華な自室で泣き崩れる。
そこへ、マリエルが入ってくる。
「お嬢様、落ち着いてください」
(うるさい!)
ロザリア(元)の感情が、葵の感情として爆発する。
(お前に何が分かる! お前だけは、私の味方のはずだ! なのに、なぜ、そんな『正しい』顔をしている!)
(やめろ!)
夢の中の「葵」の意識が、必死で叫ぶ。
(やめろロザリア! 違う! マリエルは味方だ! 手を上げるな!!)
葵の意志に反して、ロザリア(元)の腕が、勝手に上がった。
パァン!!
乾いた音が響く。
マリエルの頬が、赤く腫れ上がる。
殴ってしまった「絶望」と、殴ったことでマリエルが(一瞬)自分のモノになったように感じた「歪んだ安堵」。
そして、マリエルの、痛みよりも「諦め」に満ちた、あの無表情な青い瞳が、私の視界に焼き付いた。
「ああああああーーーーーっ!!」
私は、絶叫と共に飛び起きた。
腕の中では、ロザリーが(突然の絶叫に)ビクッと震え、火がついたように泣き出している。
だが、その泣き声も耳に入らない。
私は、自分の手――先ほどまでロザリーを抱きしめていたはずの、温かい手――を、戦慄と共に見つめた。
「……私が……マリエルを……殴った……?」
お読みいただきありがとうございます。
「並んで仕事(お絵描き)」をする二人。 これぞ理想的なOJTです。 警戒心が完全に解け、寝顔を見せてくれるまでになりました。
しかし、その温もりに触れた瞬間。 「ノイズ」が走りました。 私(葵)の記憶ではない、冷酷な父親の声。 「お前の価値は美貌と王家との繋がりのみ」
典型的な「条件付きの愛」。これでは歪むのも無理はありません。 そして一番の恐怖は、この記憶が「私(葵)」を侵食し始めていること。
次回、『監査役の責任』。 ただの頭痛ではありません。感情までもが、乗っ取られ始めます。 目覚めた主人公が取った行動とは。
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