第23話:母親業(Lv.1)は『マニュアル』にない
スケジュール管理は崩壊しました。 ならば次は、実務での勝負です。
「嫌いな野菜」という強敵に対し、元社畜は「プレゼン」「交渉」「隠蔽」のフルコースで挑みます。
離れの物置部屋。昼食の時間が、重たい沈黙と共に訪れた。
マリエルが、あの忌まわ(いまい)しき「スケジュール表(業務フロー)」を冷たい指先で断罪してから、数時間。
私は、あの『プロジェクト炎上』の残骸が散らばる床に座り込み、必死で反省を続けていた。
(……マリエル(教育係)の言う通りだ。『スケジュール(仕様書)』は、3歳児という名の自然現象の前では、紙くず同然だった)
(だが、落ち込んでいる暇はない。タスクは終わらないのだ。反省(PDCA)を回してこそ、社畜としての存在価値がある!)
(よし、分かった)
私は、床に落ちていた埃を見つめたまま、カッと目を見開いた。
(ウォーターフォール(計画)型がダメなら、『アジャイル(俊敏)』型で対応するまで!)
(つまり、発生した『インシデント(問題行動)』に対し、適切な『対応マニュアル(手順書)』を、その場で適用し続ければいいんだ!)
私が、新たなソリューション(解決策)という名の、さらなる勘違いに辿り着いた、その時。
マリエルが、昼食(黒パンと、豆のスープ、そして問題の少量の茹でた青野菜)を運んできた。
その、瞬間。
ロザリーが、スープの皿の隅に浮かぶ「青野菜(この世界のピーマン的な何か)」を、前世の凄腕SEが、数万行のコードからたった一つの致命的なバグを発見したかのように、正確無比に、その小さな瞳で見つけ出した。
そして、小さなスプーンを使い、それを器用に弾き出す。
「(プイッ)……イヤ!」
(――来た!)
私の目が光る。
(『インシデント:特定タスク(野菜)の拒否』、発生! ……よし、マリエル! あなたの『マニュアル』、見せてもらうわ!)
……だが、マリエルは動かない。
彼女は、自分の分のスープを、ただ無表情で口に運んでいる。その所作は、まるで育児など存在しないかのように静かだ。
(……見本(OJT)を見せる気がない!? なら、私がやる!)
私は、マリエルが動く前に、ロザリーの前に(前世のクライアント会議室でそうしたように)真剣な顔で座り込んだ。
「ロザリー様」
「(無視。豆だけをスプーンでいじっているロザリー)」
「この『タスク(野菜)』を拒否した場合の『リスク』について、ご説明いたします」
(……はぁ)
マリエルが(私にだけ聞こえる音量で)深いため息をついたのが分かったが、構わない。
私は、食育という名の、ロジック(論理)によるプレゼンテーションを開始した。
「この青いの(野菜)を食べないと、お腹の中の『バイキン(悪玉菌)』が元気になり、ロザリー様のお腹が『痛い痛い(システムダウン)』になります!」
「ですが! これを食べれば『バイキン(悪玉菌)』を倒し(デバッグ)、『健康(正常稼働)』という『ベネフィット(利益)』が得られます! さあ!」
どうだ、この完璧な『論理』!
リスクとベネフィットの提示。ビジネス(育児)の基本中の基本だ。
ロザリーは、豆をいじる手をピタリと止めた。
(……刺さった(・・)!?)
ロザリーは、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、私の『論理』ではなく、ただ一点――「バイキン」という刺激的な単語――に、爛々(らんらん)と輝いていた。
「(目を輝かせ)バイキンさん!」
「え?」
「バイキンさん、アタックー!」
ロザリーは、高らかに勝利を宣言すると、拒否した青野菜をその小さな手で掴み、私に向かって投げつけた。
ベチャッ。
湿った、不快な音と共に、青野菜が私の額の中央にクリーンヒットした。
「(顔面に野菜が貼り付いたまま固まる私)……なっ!? 『リスク』を説明したのに、なぜ『攻撃』に転じる!? 『論理』が、全く、通用しない!」
「プランA(説得)失敗! ただちにプランB(交渉)に移行!」
私は、額の野菜を振り払い、気を取り直した。
「ロザリー様。では、『取引』をご提案します」
私は、懐(いったいどこに隠し持っていたのか)から、このブライトン家では(ゲルマンの横領のおかげで)非常に貴重な「干しブドウ(甘いもの)」を一粒、取り出した。
ロザリーの目が、野菜から、干しブドウ(特別報酬)へと、即座にロックオンされる。
(……食いついた!)
私は、(前世の営業スマイルで)ニヤリと笑った。
「この『青野菜(タスクA)』を完遂すれば、こちらの『干しブドウ(特別報酬)』を差し上げます!」
「(ニパッ)……ほしい!」
「(ニヤリ)では、まず野菜(タスクA)を……」
私が、勝利を確信し、野菜を差し出そうとした、その一瞬の隙。
ロザリーは、3歳児とは思えぬ電光石火の速さで、私の手から干しブドウ(報酬)だけを、ひったくった。
パクッ。
(あ)
そして、ロザリーは、自分の皿にあった青野菜(タスクA)を掴むと、あろうことか、私の隣で静かに食事をしていたマリエルの皿に(まるで証拠隠滅するかのように)ポイと捨てた。
「あーーーーーっ!!」
私の絶叫が、埃っぽい離れに響き渡る。
「報酬だけ奪取して、タスク(業務)を放棄した! 契約不履行だぞ、お客様!!」
(プランB(交渉)も、完膚なきまでに失敗……!)
(こうなれば、最終手段。プランC(隠蔽)だ!)
私は、ロザリー(とマリエル)の皿から青野菜をすべて回収すると、物置の隅にある調理台に向かった。
そして、ナイフで(前世のシュレッダー作業のように)その青野菜を、恐ろしく細かく、細かく、原型が分からなくなるまで刻み込んだ。
「フフフ……『データ偽装』よ」
私は、その「偽装データ」を、残りのスープ(黒パンを浸したもの)に完璧に混ぜ込んだ。
「これなら、味も見た目も(クライアントには)判別できまい!」
私は、その「偽装スープ」を手に、今度こその勝利を確信してロザリーの前に戻った。
「さあ、ロザリー様。あーん」
ロザリーは、干しブドウ(報酬)を平らげた後で機嫌が良く、疑うことなく(・・・・・)口を開けた。
スープが、その小さな口に運ばれる。
(……勝った!)
私が、内心でガッツポーズをした、次の瞬間。
ロザリーの顔が、凍りついた。
彼女の、3歳児の純粋な味覚センサーが、私の『偽装』を遥かに超える精度で「異物混入」を検知したのだ。
ロザリーは、顔を真っ赤にして、私の顔を、まっすぐに見つめた。
そして。
「(全力で)……ぶーーーーーっ!!」
偽装スープが、放射状に噴射された。
それは、ブライトン家で一番マシな(リメイクされた)私の服と、顔面を、完璧に直撃した。
「(スープまみれで、固まる私)……」
スープが、顔から、髪から、滴る。
(……うそ)
(あんなに細かく、原型もなくしたのに)
(……検知された……)
(私の『偽装』が……負けた……)
私は、スープまみれのまま、力なく床に崩れ落ちた。
(……もう、無理。……マニュアル、ない。……詰んだ……)
その時だった。
私(の惨状)と、ロザリー(の勝利の顔)を、冷ややかに眺めていたマリエルが、深いため息を一つついて、静かに立ち上がった。
彼女は、スープまみれで床に突っ伏す私を、足で(!)軽く横にどけた。
「ロザリア様。邪魔です。そこをどいてください」
「(「どけ」って言った……!?)」
マリエルは、私のコントを意にも介さず、新しい青野菜を一つ、自分の皿に取った。
彼女は、ロザリー(クライアント)には、一切、目もくれない。
そして、マリエルは、その青野菜を自分の口に運び、ゆっくりと、そして(無表情なのに)この世の何よりも美味しそうに(・・・・・)、味わってみせた。
「(独り言のように)……ああ」
マリエルは、うっとりと(無表情で)目を閉じる。
「この、シャキシャキとした食感と、ほのかな苦味。……これは『大人』の味ですね」
そこで、マリエルは、ロザリーを(チラッ)と見た。
「ロザリー様には、まだこの美味しさ(・・・・・)は、早かったかもしれません」
「(ムッ)……?」
それまで床で「イヤイヤ」と転がっていたロザリーが、マリエルのその言葉と「美味しそうな顔(演技)」に、ピタリと動きを止めた。
「大人の味」「こどもには早い」。
その単語が、3歳児のプライド(・・・)を、的確に刺激した。
ロザリーは、マリエルの皿から(大人の味だという)青野菜を、奪い取るように掴んだ。
「(対抗心で)ロザリー、おとなだもん! たべれるもん!」
「あ!?」
ロザリーは、その青野菜を(無謀にも)丸ごと口に放り込んだ。
次の瞬間、ロザリーの顔が、阿鼻叫喚の形相に変わる。
「(にがっ!まずっ!)」
その顔は、そう叫んでいた。
だが、ロザリーは、マリエルへの対抗心だけで、涙目になりながら、必死にそれを(むしゃむしゃと)咀嚼し、飲み込んだ。
私は、スープまみれのまま、その信じられない光景を、呆然と見つめていた。
(……『論理』じゃない)
(……『取引』でもない)
(……『偽装』でもない……!?)
(……『嫉妬』と、『対抗心』を、利用した……!?)
(……まさか、育児は……『オフィス・ポリティクス(社内政治)』だったの!?)
(なんて高度な『心理戦』なのよ……!!)
私は、育児(という名の理不尽)の本当の恐ろしさと、マリエル(という教育係)の底知れぬ実力を、同時に叩きつけられた。
お読みいただきありがとうございます。
「ぶーーーーーっ!!(スープ噴射)」 ……完敗です。 リスク説明も、報酬(干しブドウ)による釣りのも、データ偽装(みじん切り)も、3歳児の野生の勘には勝てませんでした。 報酬だけ奪ってタスクを放棄する。なんて恐ろしいクライアントでしょう。
そしてマリエル先生の「高度な心理戦」。 「大人の味」というキラーワードで、子供のプライドを刺激する。これぞ熟練の技です。 勝てない……この人には勝てない……。
次回、『「私」にできること(生活能力の棚卸し)』改め、『前世のスキル、思わぬところで役に立つ』。 育児(メイン業務)で役立たずの烙印を押された主人公。 しかし、社畜の「貧乏生活スキル」が、意外な形でロザリーに刺さります。
「スープ吹いたw」「マリエルさん策士!」と笑っていただけた方は、 ぜひ【ブックマーク】や【評価】で応援をお願いします!




