第22話:育児(Lv.1)は『スケジュール管理』できない
丸一日の爆睡を経て、HPを回復させた主人公。 「監査(仕事)」の次は、「育児」です。
前世で培った最強の武器「スケジュール管理」を引っ提げ、3歳児に挑みます。
離れの物置部屋。
埃と、時間の経過が染み込ませたカビの匂いが、澱んだ空気の中で満ちている。その粗末なベッドの上で、私はゆっくりと目蓋を押し上げた。
全身が、水底に沈んでいたスポンジのように重く、水を吸いすぎて原形を留めないほどに膨れ上がっている。いや、この感覚を知っている。前世の記憶で言えば、二徹明けに冷たいデスクの下(仮眠室)で三時間だけ意識を飛ばした後の、あの鉛を全身に流し込まれたような、最悪の倦怠感だ。
「……ん……あさ……?」
喉から漏れたのは、錆びた蝶番のような、かすれた音だった。軋む体を無理やり起こすと、関節が悲鳴を上げる。
窓から差し込む光は、とっくに朝のそれではない。白々しい輝きはなく、すでに傾き始めた太陽が、部屋の床に気だるいオレンジ色の四角形を描いている。……夕方?
「――お目覚めですか、ロザリア様」
声がした方へ、重たい首を巡らせる。部屋の隅、光の届かない場所に置かれた小さな椅子に、マリエルが座っていた。
彼女は、ロザリーのものらしき小さな服の破れを、無表情のまま、しかし恐ろしいほど正確な針仕事で繕っている。その指の動きだけが、この静止した部屋で唯一、時を刻んでいるかのようだ。
「……マリエル。今、いつ……?」
「あなたがブライトン様の書斎で倒れられてから、丸一日が経過いたしました」
「(まるいちにち……!?)」
二十四時間。
私は、あの黒い真実(裏帳簿)を前に、丸一日、完璧に存在を放棄していたらしい。
マリエルは、針の手を止めぬまま、ただ淡々と事実を報告する。
「昨夜、お父様と二人で、この離れまでお運びしました。今朝方、一時的に呼吸が浅くなっているのをお母様が発見なされ、『本当に死んでいるのでは』と、大変、狼狽なさっていましたが」
「……それは、ただの『シャットダウン(深い睡眠)』です」
まだ覚醒しきらない頭で、ぼんやりと反論する。
「(シャット……ダウン?)」
マリエルが、異世界の呪詛でも聞いたかのように、わずかに眉をひそめたが、私は構わなかった。
(……寝た。丸一日。HP、ゼロから……30%まで回復)
(『代官(本社監査)』案件は、戦力が整うまでペンディング(保留)。ブライトン氏も、私が倒れたという揺さぶり(事実)で、少しは頭が冷えただろう)
よし、と私はベッドの上で、まだ鈍く痺れる拳を握った。
(だが、私には、もう一つの『契約』が残っている)
(――そう、『育児』だ!)
ガバッ、と。
まるでゼンマイが巻かれたように、私はベッドから起き上がった。
その唐突な勢いに、繕い物をしていたマリエルと、彼女の足元で、床に炭で何かを(お絵描きらしきものを)描いていたロザリーが、ビクッと小さな肩を震わせた。
私の目には、昨日までの「燃え尽きた死んだ魚」の光はない。
新たなプロジェクト(・・・・・)――『育児』という名の、仕様書すらない未知なるデスマーチに挑む、あの「社畜の光」が、爛々(らんらん)と戻っていた。
(そうだ、育児も『仕事』だ。今までは、場当たり的な『現物対応』で進めていた。だから失敗する)
(まずは『現状把握』と『計画』の策定から!)
私は、マリエルの前に、バッ、と立ちはだかった。
「マリエル!」
「……はい。(椅子に座ったまま、わずかに後ずさりながら)」
「今すぐ、『ロザリー(3)』の『行動分析表』を作成します!」
「……は?」
マリエルが、この世の何よりも理解不能なものを見る目で、私を見返した。
「起床時間、平均睡眠時間、食事の所要時間、昼寝のパターン! 好きな食べ物(=インセンティブ)と、嫌いな食べ物(=デッドロック要因)のリストを、今すぐください!」
「……イン、セン?」
「報酬です!」
「……好きな食べ物は『甘いもの』。嫌いな食べ物は『野菜全般』です」
私の(また始まった)狂気じみた「仕事モード」に、マリエルは(明らかにドン引きしつつも)反射的に、要求に応じた。
「よし!」
私は、マリエルから聞き出した情報(という名の、恐ろしく雑なデータ)を元に、ブライトン氏から(ゲルマンの件で)巻き上げておいた綺麗な羊皮紙(貴重品)を、無造作に壁に貼り付けた。
そして、インク(これも貴重品)を使い、そこに恐るべき速度で『計画』を書き殴っていく。
【ロザリー様(3) 日次スケジュール表(業務フロー)】
7:00 起床(タスクA)
7:30 朝食(タスクB)
9:00 知育(お絵描き)(タスクC)
11:00 戸外活動(日光浴)(タスクD)
12:00 昼食(タスクE)
13:00 昼寝(タスクF)
(以下略)
(よし、完璧な『業務フロー』だ!)
私は、壁に貼り出された美しいガントチャート(?)を眺め、満足げに頷いた。
(このスケジュール通りに進捗させれば、育児は必ず『オンスケ(予定通り)』で完了する! 私の『監査』の時間も、キッチリ捻出できる!)
私は、その完璧な「仕様書」を片手に、ちょうど寝起きで機嫌が悪そうに目をこすっているロザリー(クライアント)に向き直った。
「ロザリー(クライアント)!」
「……(ビクッ)」
「7時半(……ではないが、今から開始する)! スケジュール(仕様書)通り、朝食(タスクB)の時間です!」
私は、マリエルが用意していた朝食(冷えた黒パンとスープ)を、ロザリーの前に、ドン、と置いた。
ロザリーは、寝起きの悪い頭で、目の前の黒パンと、異様なテンションで自分を監視する私を交互に見た。
そして、彼女は、三歳児に許された最強の「拒否権」を発動した。
「……イヤ! ご飯(タスクB)いらない! まだ寝るの(タスクAに戻る)!」
プイッ、と顔をそむけ、マリエルが使っていた(今は空の)ベッド(マリエルの寝床)に潜り込もうとする。
「(混乱)なっ!?」
私の思考が、一瞬フリーズする。
(タスクA(起床)はすでに完了したはず! なぜ、今になって『差し戻し(リバート)』が発生する!? スケジュールが押す!)
「こ、困ります、お客様! では、タスクBをスキップして、タスクC(知育)を前倒しで……」
私は、慌ててお絵描き用の炭と紙を差し出した。
「9時です! 知育(タスクC)の時間です! お絵描きを!」
ロザリーは、床で(タスクAもBも拒否して)ゴロゴロと転がりながら、私を睨みつけた。
「イヤ! お絵描き(タスクC)しない!」
そして、次の瞬間、とんでもない「仕様変更」を要求してきた。
「お腹すいた! ご飯(タスクB)がいい!」
「(絶叫)――なぜだーーーーー!!」
私は、ついに頭を抱えて絶叫した。
「さっき棄却したタスクB(朝食)を、今になって要求!? そんな場当たり的な仕様変更、スケジュールが崩壊する!!」
「ご飯はー?」「ご飯ー!」
私の絶叫など意にも介さず、ロザリーは「ご飯(タスクB)」を連呼し、床を叩き始めた。
(……無理だ。このプロジェクト、開始五分で炎上する……!)
私は、3歳児(という名の理不尽なクライアント)に振り回され、離れの冷たい床に、ガックリと両手両膝をついて崩れ落ちた。
……その、瞬間。
一部始終を、壁際で(今度はロザリーの靴下を編みながら)無表情で観察していたマリエルが、静かに立ち上がった。
彼女は、床に突っ伏す私を、冷ややかに見下ろした。
「ロザリア様」
「……(床から、死んだ目で顔だけ上げる私)」
マリエルは、私の(前世の知識と努力の結晶である)『完璧なスケジュール表』を、トン、と冷たい指先で指差した。
「それは『業務改善』ではなく、ただの『現実逃避』です」
「……え?」
私の、掠れた声が漏れる。
「そもそも、3歳児が」
マリエルは、人形のように美しい顔を、わずかに傾げた。
「『仕様書』通りに動くとお思いですか?」
「育児は、あなたの『監査』とは違います」
「――ようこそ、『理不尽』の本当の現場へ」
お読みいただきありがとうございます。
「仕様変更」 「手戻り(イヤイヤ)」 「納期の崩壊(スケジュール遅延)」 3歳児というクライアントは、前世のどんなブラック企業よりも理不尽でした。
朝食を拒否しておいて、数分後に「ご飯!」と要求する。 プロジェクトマネージャーなら発狂するレベルの仕様変更ですが、これが育児の現場です。
ラストのマリエルさんの一言。 「それは業務改善ではなく、現実逃避です」 切れ味が鋭すぎます。
次回、『母親業(Lv.1)は『マニュアル』にない』。 スケジュールがダメなら、次は「論理」と「交渉」で挑みます。 (※なお、勝率は……)
「子供にスケジュールは無理w」「マリエルさん辛辣!」と笑っていただけた方は、 ぜひ【ブックマーク】や【評価】で応援をお願いします!




