第21話:監査役(しゃちく)、燃え尽きる(そしてペンディング)
「代官」という国家権力の登場に、絶望するブライトン氏。 このままでは反逆者として潰される。
絶体絶命のピンチに、徹夜明けの元社畜が下した「決断」とは――。
ブライトン氏が引きずられていった扉の向こう側、その音が完全に消えると、執務室には埃とカビの匂いが混じった、よどんだ沈黙だけが満ちていた。嵐は、物理的な破壊ではなく、ただ重たい真実だけを残して去った。
ゲルマンの吐き捨てた「代官様にもご挨拶を」という言葉が、壁に染み込んだ染みのように、私の思考にこびりついて反響している。
私は、無言で指先に触れる、ざらりとした紙の感触を確かめていた。ゲルマンが隠し持っていた『裏帳簿』――その一冊に、この館の三十年分の腐敗が凝縮されている。
几帳面な、しかし今は憎悪すべき対象でしかない筆跡が、ブライトン家の血肉であるはずの金を、「用途不明金」として「代官事務所」へ流していた。その事実が、黒々と、生々しくそこにあった。
(……クソ)
喉の奥で、前世で擦り切れるほど使った悪態が、音にならない塊となって転がった。
これは、家令という一匹の害虫が屋敷の柱を食い荒らしていた、という単純な「内部犯行(横領)」ではない。
彼は家の金を盗み、その一部を、この地を統べる「公権力(領主代官)」に差し出すことで、自らの安全を買い、その地位を三十年間も維持していたのだ。
(『癒着』……最悪のパターンだ)
ゲルマンは代官を「共犯者」に引きずり込み、代官はゲルマンの不正を「黙認」する見返りに、甘い汁を吸い続けていた。
もし、この黒い証拠を小脇に抱え、「代官様、こんなものが出てきました」と愚直に差し出せば、何が起こる?
(……私(ブライトン家)が、ゲルマンと共犯だったと断定され、まとめて『処理』される)
公権力(代官)にとって、長年安定した「副収入」をもたらしたゲルマンは、もはや脅威ではない。
その金の流れを断ち切り、面倒な事実を掘り起こした私(監査役)こそが、今や最大の「脅威」だ。
背筋を走ったのは、この古い執務室の冷気ではなかった。もっと本質的な、存在そのものを脅かすような冷気が、皮膚の内側を凍らせていく。
「だ、代官様まで……!」
私の背後で、か細く、引きつった声がした。ブライトン氏が、壁に手をついたまま、わなわなと震えている。
「我々は……我々は、家令どころか、王家直属の代官様にまで、弓を引こうとしていたというのか……!」
支えを失ったように、彼は壁を伝ってずるずると崩れ落ちた。昨夜の「横領発覚」時よりもさらに血の気を失い、まるで蝋で出来た人形のように真っ白だ。
「終わりだ……もう終わりだ……。領地は召し上げられ、我々は反逆者として……」
(あーあ……)
その絶望的なつぶやきが、やけにクリアに耳に届く。
(始まった。経営者の鬱モード。一番、対処に困るやつだ)
前世にもいた。問題が火を噴くと、消火方法を考えるより先に「もう全焼だ」「我々はどうなるんだ」と、その場で膝を抱えて機能停止する上司。
私は、血走った、乾いた目で、床に転がるブライトン氏と、手の中にある『裏帳簿(=新たなデスマーチ確定通知書)』を、まるでピントの合わない絵画のように、ゆっくりと交互に眺めた。
『代官(本社監査)』の介入。
『公権力(コンプライアンス部門)』との癒着発覚。
『経営者』の完全な戦意喪失。
そして、私(担当者)は、昨夜から一滴の水も、一瞬のまどろみも許されなかった、『徹夜明け(HP1)』。
……。
…………。
プツン。
その瞬間。
私の頭の中で、限界まで引き絞られていた何かが、明確な音を立てて切れた。
それは、前世で経験した、あの感覚。
金曜の深夜三時。地獄のプロジェクト(デスマーチ)を完遂し、震える指でサーバーにデータをアップロードし終えた、あの瞬間。
全身を無理やり突き動かしていた、恐怖と、焦燥と、無意味な責任感が、一斉に、真夏の潮のように引いていく。
(……あ、無理)
(もう無理。HPゼロ。MPもゼロ。思考、完全に枯渇)
(徹夜明けに、次の『超・炎上プロジェクト(代官)』とか、前世なら労基署に駆け込むどころか、その場でビルの窓を突き破ってるレベルだ)
へなへな、と。
私は、その場に(埃まみれのドレスの裾が広がるのも構わず)座り込んだ。
まるで関節から糸を抜かれた操り人形のように、身体に一切の力が入らない。
「ロ、ロザリア様!? どうかなさった、急に!」
私の唐突な行動(脱力)に、絶望の淵にいたはずのブライトン氏が、素っ頓狂な声を上げる。
私の隣で、この一部始終を「冷徹な監査役」として観察していたマリエルも、その無表情のまま、わずかに瞳を見開いていた。
私は、執務室の冷たい石の床に座り込んだまま、光を失った魚のような目で、呆然とする二人を見上げた。
そして、この世界に転生してから、最も力の抜けた、虚無の声で、告げた。
「……ブライトン様」
「は、はい!?」
「この『代官(本社監査)』の件……一時ペンディング(保留)とします」
「……ぺ、ぺんでぃんぐ?」
ブライトン氏が、異世界の呪詛でも聞いたかのように、間の抜けた顔で首を傾げる。
「はい。今、この『証拠』一枚で突撃しても、体力(ウチの財政)も、戦力(私)も、圧倒的に不足しています」
私は、床に(前世で身につけた)完璧な『謝罪(土下座)』の姿勢を取ろうとして、それすらも億劫になり、中途半端な体勢で止まった。
「……返り討ち(処理)に遭うだけです」
そこまで言い切ると、もう、何もかもどうでもよくなった。
思考が、急速に白く、遠くなっていく。
「……私、寝ます」
「……え?」
「もう、限界です。……三日、寝かせてください……おやすみ、なさい……」
私は、ブライトン氏とマリエルの返事を聞くよりも早く、埃っぽい執務室の床に、バタリ、と横向きに倒れ込んだ。
(……あ、床……冷たくて、きもちいい……)
前世の仮眠室(デスクの下)の、硬く冷たい感触を、ぼんやりと思い出しながら。
私(佐藤葵、二十八歳、現ロザリア)の意識は、強制終了させられたPCのように、ぷつり、とブラックアウトした。
「え……?」
「……ロザリア、様……?」
執務室には、この国の闇を凝縮したような『裏帳簿』と、絶望に打ちひしがれる領主(ブライトン氏)と、そのすべてを解決(?)したはずが、今、目の前で(ドレスのまま埃まみれで)倒れて寝始めた(・・・・・・)監査役、そして、そのあまりにもシュールな光景を、変わらぬ無表情で見つめる元メイド(マリエル)だけが、残された。
お読みいただきありがとうございます。
「私、寝ます」 究極の危機管理です。 キャパシティを超えた案件が降ってきた時、徹夜明けの脳で判断するのは自殺行為。ならば、まずは「寝る(HP回復)」。 これぞプロの社畜です(※良い子は真似しないでください)。
「ペンディング(保留)」という魔法の言葉。 解決はしていませんが、とりあえず今のストレスからは解放されます。 床で寝始めた主人公を見て、マリエルさんは何を思ったのでしょうか。
さて、監査(仕事)は一時中断。 起きたら、もう一つの大事な「契約」が待っています。
次回、『育児(Lv.1)は『スケジュール管理』できない』。 3歳児相手に「ガントチャート」を持ち出す愚かな元社畜の姿をご覧ください。
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