表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
22/49

第21話:監査役(しゃちく)、燃え尽きる(そしてペンディング)

「代官」という国家権力の登場に、絶望するブライトン氏。 このままでは反逆者として潰される。


絶体絶命のピンチに、徹夜明けの元社畜が下した「決断」とは――。

 ブライトン氏が引きずられていった扉の向こう側、その音が完全に消えると、執務室には埃とカビの匂いが混じった、よどんだ沈黙だけが満ちていた。嵐は、物理的な破壊ではなく、ただ重たい真実だけを残して去った。


 ゲルマンの吐き捨てた「代官様にもご挨拶を」という言葉が、壁に染み込んだ染みのように、私の思考にこびりついて反響している。


 私は、無言で指先に触れる、ざらりとした紙の感触を確かめていた。ゲルマンが隠し持っていた『裏帳簿』――その一冊に、この館の三十年分の腐敗が凝縮されている。


 几帳面きちょうめんな、しかし今は憎悪すべき対象でしかない筆跡が、ブライトン家の血肉であるはずの金を、「用途不明金」として「代官事務所」へ流していた。その事実エビデンスが、黒々と、生々しくそこにあった。


(……クソ)


 喉の奥で、前世しゃちくで擦り切れるほど使った悪態が、音にならない塊となって転がった。


 これは、家令ゲルマンという一匹の害虫が屋敷の柱を食い荒らしていた、という単純な「内部犯行(横領)」ではない。

 彼は家の金を盗み、その一部を、この地を統べる「公権力(領主代官)」に差し出すことで、自らの安全を買い、その地位を三十年間も維持していたのだ。


(『癒着ゆうちゃく』……最悪のパターンだ)


 ゲルマンは代官を「共犯者」に引きずり込み、代官はゲルマンの不正を「黙認」する見返りに、甘いワイロを吸い続けていた。


 もし、この黒い証拠ノートを小脇に抱え、「代官様、こんなものが出てきました」と愚直に差し出せば、何が起こる?


(……私(ブライトン家)が、ゲルマンと共犯だったと断定され、まとめて『処理』される)


 公権力(代官)にとって、長年安定した「副収入」をもたらしたゲルマンは、もはや脅威ではない。

 その金の流れを断ち切り、面倒な事実を掘り起こした私(監査役)こそが、今や最大の「脅威」だ。


 背筋を走ったのは、この古い執務室の冷気ではなかった。もっと本質的な、存在そのものを脅かすような冷気が、皮膚の内側を凍らせていく。


「だ、代官様まで……!」


 私の背後で、か細く、引きつった声がした。ブライトン氏が、壁に手をついたまま、わなわなと震えている。


「我々は……我々は、家令どころか、王家直属の代官様にまで、弓を引こうとしていたというのか……!」


 支えを失ったように、彼は壁を伝ってずるずると崩れ落ちた。昨夜の「横領発覚」時よりもさらに血の気を失い、まるでろうで出来た人形のように真っ白だ。


「終わりだ……もう終わりだ……。領地は召し上げられ、我々は反逆者として……」


(あーあ……)


 その絶望的なつぶやきが、やけにクリアに耳に届く。


(始まった。経営者トップの鬱モード。一番、対処に困るやつだ)


 前世しゃちくにもいた。問題が火を噴くと、消火方法を考えるより先に「もう全焼だ」「我々はどうなるんだ」と、その場で膝を抱えて機能停止する上司。


 私は、血走った、乾いた目で、床に転がるブライトン氏と、手の中にある『裏帳簿(=新たなデスマーチ確定通知書)』を、まるでピントの合わない絵画のように、ゆっくりと交互に眺めた。


『代官(本社監査)』の介入。

『公権力(コンプライアンス部門)』との癒着発覚。

経営者トップ』の完全な戦意喪失。


 そして、私(担当者)は、昨夜から一滴の水も、一瞬のまどろみも許されなかった、『徹夜明け(HP1)』。


 ……。

 …………。

 プツン。


 その瞬間。

 私の頭の中で、限界まで引き絞られていた何かが、明確な音を立てて切れた。


 それは、前世しゃちくで経験した、あの感覚。

 金曜の深夜三時。地獄のプロジェクト(デスマーチ)を完遂し、震える指でサーバーにデータをアップロードし終えた、あの瞬間。


 全身を無理やり突き動かしていた、恐怖と、焦燥と、無意味な責任感アドレナリンが、一斉に、真夏の潮のように引いていく。


(……あ、無理)

(もう無理。HPゼロ。MPもゼロ。思考リソース、完全に枯渇)


(徹夜明けに、次の『超・炎上プロジェクト(代官)』とか、前世なら労基署に駆け込むどころか、その場でビルの窓を突き破ってるレベルだ)


 へなへな、と。


 ロザリアは、その場に(埃まみれのドレスの裾が広がるのも構わず)座り込んだ。

 まるで関節から糸を抜かれた操り人形のように、身体に一切の力が入らない。


「ロ、ロザリア様!? どうかなさった、急に!」


 私の唐突な行動(脱力)に、絶望の淵にいたはずのブライトン氏が、素っ頓狂な声を上げる。

 私の隣で、この一部始終を「冷徹な監査役」として観察していたマリエルも、その無表情のまま、わずかに瞳を見開いていた。


 私は、執務室の冷たい石の床に座り込んだまま、光を失った魚のような目で、呆然ぼうぜんとする二人を見上げた。


 そして、この世界に転生してから、最も力の抜けた、虚無きょむの声で、告げた。


「……ブライトン様」

「は、はい!?」

「この『代官(本社監査)』の件……一時ペンディング(保留)とします」


「……ぺ、ぺんでぃんぐ?」


 ブライトン氏が、異世界の呪詛じゅそでも聞いたかのように、間の抜けた顔で首をかしげる。


「はい。今、この『証拠データ』一枚で突撃しても、体力(ウチの財政)も、戦力(私)も、圧倒的に不足しています」


 私は、床に(前世で身につけた)完璧な『謝罪(土下座)』の姿勢を取ろうとして、それすらも億劫おっくうになり、中途半端な体勢で止まった。


「……返り討ち(処理)に遭うだけです」


 そこまで言い切ると、もう、何もかもどうでもよくなった。

 思考が、急速に白く、遠くなっていく。


「……私、寝ます」

「……え?」

「もう、限界です。……三日、寝かせてください……おやすみ、なさい……」


 私は、ブライトン氏とマリエルの返事を聞くよりも早く、埃っぽい執務室の床に、バタリ、と横向きに倒れ込んだ。


(……あ、床……冷たくて、きもちいい……)


 前世の仮眠室(デスクの下)の、硬く冷たい感触を、ぼんやりと思い出しながら。

 私(佐藤葵、二十八歳、現ロザリア)の意識は、強制終了シャットダウンさせられたPCのように、ぷつり、とブラックアウトした。


「え……?」

「……ロザリア、様……?」


 執務室には、この国の闇を凝縮したような『裏帳簿』と、絶望に打ちひしがれる領主(ブライトン氏)と、そのすべてを解決(?)したはずが、今、目の前で(ドレスのまま埃まみれで)倒れて寝始めた(・・・・・・)監査役ロザリア、そして、そのあまりにもシュールな光景を、変わらぬ無表情で見つめる元メイド(マリエル)だけが、残された。

お読みいただきありがとうございます。


「私、寝ます」 究極の危機管理リスクマネジメントです。 キャパシティを超えた案件トラブルが降ってきた時、徹夜明けの脳で判断するのは自殺行為。ならば、まずは「寝る(HP回復)」。 これぞプロの社畜です(※良い子は真似しないでください)。


「ペンディング(保留)」という魔法の言葉。 解決はしていませんが、とりあえず今のストレスからは解放されます。 床で寝始めた主人公を見て、マリエルさんは何を思ったのでしょうか。


さて、監査(仕事)は一時中断。 起きたら、もう一つの大事な「契約タスク」が待っています。


次回、『育児(Lv.1)は『スケジュール管理』できない』。 3歳児相手に「ガントチャート」を持ち出す愚かな元社畜の姿をご覧ください。


「そこで寝るんかいw」「ペンディング便利すぎ」と笑っていただけた方は、 ぜひ【ブックマーク】や【評価】で応援をお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ