第16話:開かずの間と絶望的な台帳(データ)の山
カビと埃とネズミの糞。 普通の令嬢なら悲鳴を上げて逃げ出す「開かずの間」。
しかし、社畜にとってはそこは「宝の山(未処理タスクの塊)」でした。 ブライトン氏とマリエルがドン引く中、監査スタートです。
(『私の専門分野』だ……!!)
その確信が、冷え切った背骨に一本の熱い鉄芯を通した。
恐怖と絶望で麻痺していた思考が、カチリ、と音を立てて切り替わる。前世で鍛え上げられた、冷徹な「戦闘モード」へと。
私は、まだ状況が飲み込めていないマリエルに、即座に向き直った。その勢いに、彼女の肩がわずかに揺れる。
「マリエルさん」
「……はい」
「今すぐ、お父様(ブライトン氏)に『お話』がしたい。その『開かずの間』を、私に見せていただきたい、と」
私の、獲物を見つけた獣のそれにも似た異様な気迫と、貴族令嬢にあるまじき「仕事」への渇望に、マリエルの鉄仮面が一瞬(本当に一瞬だけ)たじろいだ。
「……分かりました。交渉してみましょう」
彼女は、私の意図を(理解は超えているが)承諾した。
*
舞台は再び、あの埃っぽい応接室。
マリエルから私の申し出を聞いたブライトン氏は、心底から怪訝な顔で、私を値踏みするように見ていた。
「……ロザリア様。あれは、あなたが想像するような『貴族のご婦人のお手伝い』などでは、断じてない」
彼は、私を諭すように言う。
「カビと埃に塗れた、ただの紙のゴミ山だ。あなたのような高貴な方が、触れるような代物では……」
(『高貴』。昨日は『厄介払い』しようとした男が、今度はその『高貴』を盾に私を排除するのか)
私は、ブライトン氏の言葉――その奥に隠しようもなく滲む「どうせすぐ音を上げるだろう」という侮蔑を、冷ややかに遮った。
あの「交渉モード」の目で、彼をまっすぐに射抜く。
「ブライトン様。私は昨日、『この資金が尽きる前に稼ぐ』と申しました。これは、その『稼ぎ口』の査定です」
「……さてい?」
「はい。私にその『ゴミ山』を処理する能力があるか、まずは『現物』を見て判断させていただきたい」
私は、前世の上司にスケジュールを突き返す時の、あの容赦のない速度で畳みかけた。
「もし私に無能だと判断されれば、きっぱり諦め、別の稼ぎ口を探します。……時間は、有限ですので」
「査定」「無能」「時間」。
元・公爵令嬢の唇から放たれた、場違いな単語の羅列に、ブライトン氏が言葉を詰まらせる。
彼は、私の(理解不能だが、尋常ではない)気迫に押し流されるように、重い腰を上げた。
「……よろしい」
「お見せしよう。だが、見て後悔なさっても、私は知らんぞ」
*
ブライトン氏に案内され、私とマリエルは母屋の奥、日も差さない薄暗い廊下の突き当たりに立っていた。
一枚の扉。まさしく「開かずの間」。
長年の湿気で歪んだ扉。赤黒く錆びついた鉄製の鍵穴。
「ええい……!」
ブライトン氏が、錆びた取っ手に体重をかけ、扉を押す。
ギイイイイイィィィィ……ッ。
まるで拷問器具が立てるような、耳障りな軋む音と共に、扉はゆっくりと開いた。
その瞬間。
圧縮されていた「絶望」が、物理的な悪臭となって、私たちの顔を叩いた。
「うっ……!」
カビと、紙が腐敗した酸っぱい匂い。獣の糞尿が混じった、鼻を曲げる悪臭。
部屋の中は、窓一つなく、足の踏み場もなかった。
羊皮紙の巻物や、革綴じの分厚い台帳が、天井に届かんばかりに山積みになっている。
何十年、放置されたのか。
天井からは雨漏りの跡があり、壁際のいくつかの紙の山は、水を含んで溶け、一つの巨大な「紙の塊」と化していた。
ブライトン氏は、諦めきった表情で、そのゴミ山を指し示した。
「……これが、ブライトン家の『財産目録』であり『税収台帳』だ。もはや、何がどこにあるか、誰にも分からん」
「……想像をはるかに超えた『ゴミ溜め』ですね」
マリエルが、無表情のまま、的確な感想を述べた。
二人は、元・公爵令嬢(私)が、この悪臭と汚物に顔をしかめ、悲鳴を上げて逃げ出すだろうと予想していたはずだ。
だが、私は違った。
私は、その「カビと埃の匂い」を、スーッ、と深く吸い込んだ。
(……ああ。この匂い)
(前世、終電後の誰もいない地下の資料室。あの、古紙と埃の匂いだ)
私は、その「ゴミ山」を前に、怯まなかった。
一歩、部屋に足を踏み入れ、手近な台帳を(埃を払いもせず)手に取る。
パラリ、とページをめくる。
インクは滲み、数字の桁はバラバラ。前のページの合計金額と、次のページの開始残高が、全く合っていない。
(……うわぁ……。すごい。これは、ひどい)
(フォーマットが統一されてない。項目もバラバラ。前任者(=過去の領主)、入力(記帳)したまま放置してる。最悪だ……)
(これは……前世で、倒産した取引先の、差し押さえられたダンボール全部開けてデータ突合した時と同じ地獄……!)
それは、絶望的な光景。
それは、常人なら見た瞬間に匙を投げる、終わらない作業。
私は、その地獄のようなデータ(ゴミ)の山を振り返り、呆然と立ち尽くすブライトン氏に向かって、言った。
私の顔に、恐怖も絶望もなかった。
むしろ、前世の社畜(佐藤葵)が、解決不可能なトラブルを前にした時にだけ見せる、あの、血走った目と、戦闘的な、歪んだ笑み(・・・)が浮かんでいた。
「ブライトン様。いくつか、ご用意いただきたいものが」
「……な、何をだね?」
ブライトン氏が、私の異様な雰囲気に気圧されている。
「(指を折りながら)まず、綺麗な紙。大量に。それとインク、羽ペン」
「そして、この部屋の埃をすべて掃き出すための掃除道具と、ここと離れを往復するためのランプ。それと……この作業をするための、清潔な机を」
「ま、待て。本気で……これを、整理すると言うのか? 無理だ、何十年も……」
ブライトン氏の「無理だ」という言葉。
前世の無能な上司が、いつも口にしていたセリフ。
「無理?」
私は、カビ臭い台帳を、埃まみれの手で愛おしげに撫でた。
「これは『無理』なのではありません。『未処理』なだけです」
埃で汚れた手の甲で、自分の頬を(楽しそうに)拭う。
「――さあ、ブライトン様。まずは『監査』の準備を始めましょう」
その、異様なまでの「やる気」に満ちた(常軌を逸した)姿に、マリエルは初めて、自分の復讐相手の中に潜む「未知の何か」に対して、かすかな戦慄を覚えていた。
お読みいただきありがとうございます。
「食事をしながら仕事を?(ドン引き)」 マリエルさんの反応が正常です。でも、納期(資金枯渇)が迫った社畜に食事休憩などありません。左手でパンを齧り、右手でペンを走らせる。これぞマルチタスク(悲しき習性)。
そして、ついに尻尾を掴みました。 数字が合わない。しかも「減る」方向だけで。 これは単なるミス(管理不足)ではなく、意志を持った「犯罪」です。
次回、『詳細プロット案「社畜、作業環境を構築する」』……改め、『疑惑の家令』。 元・悪役令嬢が、獲物を見つけた獣の顔で笑います。
「仕事してる時が一番輝いてるw」「横領バレた!」とスカッとした方は、 ぜひ【ブックマーク】や【評価】で応援をお願いします!




