第15話:「私」にできること(生活能力の棚卸し)
育児は失敗。農作業も無理。魔法も使えない。 「私」の市場価値はゼロなのか?
絶望する主人公に、マリエルが提示した「ある仕事」。 それは普通の人なら嫌がる「汚くて退屈な作業」でしたが……。
夜が明けた。
だが、その光は離れの部屋の冷気を温めるには至らず、夜通し吹き込み続けた隙間風以上に、室内の空気は冷え切っていた。
私は、粗末なベッドの上で毛布にくるまったまま、一睡もできていなかった。
昨夜のマリエルから突きつけられた「無能です」という冷徹な宣告。そして「契約です」という、業務命令の冷たさ。それらが鉛のように重く、私をベッドに縫い付けていた。
(……最悪の目覚めだ)
前世のデスマーチ中、アラームより早く叩き起こされた、あの硬い仮眠室のベッドの感覚に酷似している。
簡易寝台の方で、カサリ、と小さな衣擦れの音がした。
ロザリーが目を覚ましたのだ。
私が、ベッドから身を起こし、彼女の方へ視線を向ける。
その瞬間。
目が合ったロザリーは、ビクッ、と撃たれる寸前の小動物のように体を震わせた。
そして、私が「おはよう」の一言を紡ぐ前に、泣き出すのをこらえるように慌てて寝返りを打ち、隣で静かに寝息を立てている(ように見える)マリエルの影に、その小さな顔を隠してしまった。
……また、拒絶された。
胸の奥が、チクリと冷たい針で刺される。
やがて、マリエルが(本当に寝ていたのか疑わしいほど)静かに身を起こすと、その光景を当然のこととして受け入れ、機械的な手つきでロザリーの着替えを手伝い始めた。
ロザリーは、私から完全に目を逸らしたまま、マリエルの手をぎゅっと握っている。
マリエルは、私に一言も告げず、ロザリーの手を引いて朝食(おそらく母屋で食べるのだろう)のために、冷たい部屋から出て行ってしまった。
バタン、と無情に閉まる扉の音。
一人残された部屋で、私は隅に無造作に置かれた「資金」の革袋を、胃がねじれるような思いで見つめた。
(育児(母親業)は、信頼関係の構築からだ。時間がかかる。昨日の失敗(夜泣き対応)を考えれば、焦りは禁物だ)
(でも、こっち(カネ)は違う!)
(この革袋は、時間が経てば確実に、無くなる。待ったなしだ)
二つの重く、巨大な課題。
私は、頭を強く振ると、思考を強制的に切り替えた。
まず、目に見えて減っていく「カネ」の問題。短期的な問題を解決しなければ、長期的な「育児」の課題に取り組む権利すら失う。
ベッドの上で胡坐をかき、前世の企画会議よろしく頭を抱え、「私」にできることの棚卸しを始めた。
「まず、この体……『ロザリア・ヴェルデ』。彼女に出来たことは?」
うっすらと靄がかかったように残る「元・ロザリア」の感覚を探る。
(……貴族の作法? 優雅なダンス? 刺繍? 扇子を使った華麗な罵倒の仕方? ダメだ、全部、この村では一文にもならない!)
いや、異世界転生といえば、魔法だ。
「(出ろ!)ファイア!」
中二病のように、乾いた手のひらを壁に向かって突き出す。
……シン。
隙間風の音が、私の無謀な試みを嘲笑うかのように、虚しく響くだけ。
(ダメだ。マニュアルもチュートリアルもない。仮に魔力(MP)があっても、使い方が分からない。使えない。役立たず!)
なら、私はどうだ。
「『佐藤葵(28)』のスキルは?」
前世の履歴書を、脳内で展開する。
(PCスキル。Excel。関数、VLOOKUP、ピボットテーブル。PowerPoint。人を眠らせる美しすぎる資料作成。秒間10タッチの高速タイピング……)
私は、電気も通っていない、粗末な木目の壁を睨みつけた。
(全部、PCが無いと意味がない! クソ! 役立たず!)
他に! 他に私は何をしてきた!
地獄のようなデスマーチの日々を思い出す。
(……無茶なスケジュール管理。1円単位の経費精算。膨大な在庫データの照合。営業からの理不尽なクレーム対応。完璧なビジネス土下座。何百ページもの契約書の、睡眠不足の目で行う校正(誤字脱字チェック)……)
(……全部、『事務(雑用)』だ)
地味で、退屈で、誰でもできる、裏方の仕事。
こんなものが、この石と土の世界で、カネになるわけが……。
ロザリアのスキルも、佐藤葵のスキルも、この村では等しく「無価値」なのではないか。
その絶望に、膝から崩れ落ちそうになった、その時。
ガチャリ、と扉が開き、マリエルが一人で戻ってきた。
私は、この家で唯一の(恐ろしく冷たいが)情報源である彼女に、最後の望みを託すことにした。
「マリエルさん」
立ち止まり、無表情に私を見る彼女に向かって、私は、ベッドから降り、その場で深々と頭を下げた。
前世で、どうしようもない無茶を上司に頼み込む時の、完璧な角度で。
「私に、仕事をください。いえ、探すのを手伝ってください」
「……」
「体力仕事(農作業など)は、この体がおそらく役に立ちません。ですが、それ以外で、私にもできる仕事は、この村(領地)にありませんか? どんな雑用でも構いません」
マリエルは、貴族令嬢のプライドが欠片もない、私の必死の懇願を、冷ややかに見下ろしていた。
(こいつに何ができる)と、即座に切り捨てられるかと思った。
だが、違った。
彼女は、わずかに小首を傾げ、本当に「思考」しているようだった。
私を「元主人」ではなく、「使えない労働力(仮)」として、その価値を査定している目だった。
「……あなたに、できる仕事」
やがて、マリエルは母屋の方を見やり、事実を淡々と述べ始めた。
「お父様(ブライトン氏)が、領地の『税収管理』にずっと頭を悩ませていました」
「税収、管理?」
私の耳が、その単語にピクリと反応した。
「はい。そして『台帳』です。この領地は古いだけで、税の記録も何十年も、古い帳簿にただ継ぎ足しているだけだと」
「……」
「母屋には、開かずの間があります。そこは、カビ臭い、古い帳簿の山で埋まっています。誰も手を付けられません」
「お父様は『もはや領地の正確な税収(収入)すら把握できない』と嘆いていましたが、それを整理する時間も、技術も、人手もありません」
マリエルは、そこで言葉を切ると、私を見た。
「(元)貴族令嬢には、縁のない、汚くて退屈な作業ですが……」
マリエルの言葉は、そこで途切れた。
先ほどまで絶望に打ちひしがれていた私が、ゆっくりと顔を上げていたからだ。
(古い帳簿。継ぎ足し。カビ臭い。誰も手を付けられない。膨大なデータの山。正確な数字(収入)が把握できない……)
その単語の羅列は、絶望ではなかった。
それは、地獄の底で見つけた、一本の蜘蛛の糸だった。
(それって……)
(それって、前世で私が何度もやらされた、システム移行前の『旧データ突合&クレンジング作業』そのものじゃない!)
私の瞳に、マリエルが初めて見る、鋭く、飢えたような、強烈な「光」が宿っていた。
(『私の専門分野』だ……!!)
お読みいただきありがとうございます。
「『私の専門分野』だ……!!」 マリエルさんは「汚い雑用」として紹介しましたが、元社畜にとっては「未処理データの山(=宝の山)」に見えてしまいました。 目が死んでいた主人公に、狂気の光が宿った瞬間です。
ExcelもPCもない世界ですが、やることは前世の「システム移行前のデータ突合」と同じ。 ついに、佐藤葵のスキルが火を噴く時が来ました。
次回、『開かずの間と絶望的な台帳の山』。 マリエルも引くほどの熱量で、主人公がゴミ山へダイブします。
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