表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/49

第14話:育児(Lv.1)とマリエルの見本

前話で大人たちを黙らせた「交渉のプロ」も、3歳児の前では無力でした。


通されたのは「離れの物置」。 そこで始まるのは、スローライフではなく、未知のプロジェクト「育児」です。

 古びた応接室のテーブルに叩きつけられた「現実カネ」の重みは、ブライトン氏の抵抗を粉砕するのに十分だった。


 会議(という名の査定)は、決着した。


 一つ。私が持参した資金から、当座の生活費コストという名の家賃・・を、ブライトン家に前払いで支払うこと。

 一つ。その資金が尽きる前に、私が新たな稼ぎ口を確立すること。


 この二つを引き換えに、私たちはこの屋敷での「滞在」を仮に許可された。

 そして、マリエルが「ロザリーの世話役、およびロザリア様(私)の監視役」として、私とロザリーに同室で生活することが決まった。


 あてがわれたのは、母屋から一度外に出た場所にある「離れ」だった。

 元は物置だったのだろう。扉を開けると、埃と、土に染み込んだカビの匂いが、冷気と共に鼻腔を刺した。


 粗末なベッドが一つ。運び込まれたばかりの簡易寝台が二つ。

 壁の亀裂から吹き込む隙間風が、容赦なく体温を奪っていく。


 だが、私(佐藤葵)は、この劣悪な環境に一切の文句を口にしなかった。


(……前世の仮眠室(デスクの下)よりマシだ。屋根と壁があるだけ、天国だ)


 さっそくどこからか雑巾を見つけ出し、無言で床を拭き始める。

 マリエルが、その私の姿を(またこの女は妙な耐性を見せている)とでも言いたげな、静かな目で見つめていた。


 *


 夜。

 最低限の掃除を終え、部屋の空気が外気と等しく冷え切った頃、離れの扉が軋んだ。


 ブライトン夫人(祖母)が、寝間着姿のロザリーを連れていた。

 ロザリーは祖母の手に強くしがみつき、明らかに「知らない女(私)」のいるこの薄暗い物置部屋を、全身で拒絶している。


 ブライトン夫人は、私の顔(公爵令嬢の面影を持つ、娘の人生を狂わせた元凶の顔)を、一度だけ冷ややかに一瞥すると、私を「存在しないもの」として扱い、事務的に告げた。

 その視線は、実の娘であるマリエルにだけ向けられている。


「……この子は、夜中に目を覚ますことがありますので」

「マリエル。あとは頼みますよ」


 彼女は、私を「母親」とは決して認めず、ロザリーを(娘である)マリエルに引き渡した。


 マリエルが「はい、お母様」とロザリーを受け取り、寝台へ。

 マリエルの慣れた存在に安堵したのか、ロザリーは私を怯えた目でちらちらと見ながらも、やがて泣き疲れて目を閉じた。


 私は、自分用の粗末なベッドに腰掛け、毛布にくるまる。

 娘に拒絶された気まずさと、「育児」という未知の業務への重圧が、冷たい石のように胃に沈み、とても寝付けそうになかった。


 *


 真夜中。

 冷え切った部屋の静寂を、甲高い金切り声が引き裂いた。


「いやぁっ! おばあちゃん! おばあちゃんは!? マリエルはどこ!?」


 ロザリーだ。

 暗闇と、いつもと違う寝床(物置部屋)の匂いが、彼女の小さな理性をパニックに陥らせている。


 私は、その泣き声に(前世の緊急アラートのように)心臓を鷲掴みにされて飛び起きた。


(きた! 夜泣き! 母親として、私が、私が対応しないと!)


 焦りだけが、寝ぼけた頭で空転する。

 ベッドから転がり落ちるように、ロザリーの簡易寝台に駆け寄った。


「ど、どうしたの!? 大丈夫!? 怖い夢でも見たの!?」


 暗闇の中、突然、知らない女(私)の顔がぬっと現れ、大きな声で揺さぶる。

 それが、ロザリーの恐怖を頂点にまで跳ね上げてしまった。


「いやああああ!! 来ないで! あっち行ってえええ!!」


 火がついたように泣き叫び、私に向かって小さな手を振り回す。激しい拒絶。

 差し伸べた手は、行く当てを失い、凍りつく。


(え、なんで? 泣き止ませようとしたのに、逆効果!? なぜ!?)


 どうしよう、どうしよう。

 私が「あ、う……」とパニックに溺れていると、部屋の隅で、カチリ、と小さな音。


 静かにランプが灯された。

 マリエルが、いつ起きたのか、冷静沈着な顔でランプを手に立っている。


 彼女は、私を(邪魔だ)とでも言うように無言で押し退け、泣き叫ぶロザリーの前に進み出た。


 いきなり抱き上げない。

 まず、寝台の横に静かに膝をつき、パニックに陥った視線と、自分の視線を合わせる。


「ロザリー。私です。ここにいます。怖くありません」


 静かだが、有無を言わせぬ、落ち着き払った声。

 ロザリーは、その声に気づき、泣きじゃくりながらマリエルの腕に縋りついた。


 マリエルは、ロザリーの背中を、無言で、一定のリズム(・・・)で叩き続ける。

 感情を込めるのではなく、まるで機械のように正確なリズムで、トントン、トントン、と。


 さらに、枕元の水差しから水を汲み、泣き叫んで乾いたであろう喉に、冷静に飲ませる。

 こくこくと水を飲み、マリエルの正確無比な背中叩きによって、ロザリーは荒い呼吸を徐々に鎮めていく。


 やがて、しゃくり上げる声が途切れ、泣き疲れたまま、マリエルの腕の中で再び眠りに落ちていった。


 私は、その一連の(あまりに手際が良すぎる)完璧な育児スキルを、ただ呆然と見ているしかなかった。


 マリエルは、眠ったロザリーを簡易寝台にそっと戻すと、ランプの光の中で、私を冷たく一瞥した。


「これが『見本』です」


 その声は、夜の冷気よりも冷たい。


「あなたは、母親としてあまりにも『失敗』ばかりだ。……ただロザリーをパニックにさせただけ。無能です」


 ぐうの音も出ない。事実、その通りだった。


「これは『契約・・・』です」


 マリエルは、私に宣告する。


「私たちの生活カネを脅かさないためにも、あなたは『稼ぐ』ことと同時に、最低限の『母親業・・』も習得していただきます」


「……よろしいですね?」


 目の前の冷徹な「教育係マリエル」に対し、私は、何も言い返せず、ただ小さく頷くことしかできなかった。

お読みいただきありがとうございます。


「無能です」 ぐうの音も出ません。 夜泣き対応でパニックになり、逆に子供を怖がらせる。前世で培ったスキルが全く通用しない「育児」という名の無理ゲー。


一方のマリエル先生。 背中を叩くリズムすら機械的かつ完璧。彼女こそがこの現場の「熟練リーダー」です。 そして突きつけられる「これは契約(仕事)だ」という事実。甘えは許されません。


次回、『「私」にできること(生活能力の棚卸し)』。 母親失格の烙印を押された主人公。 育児がダメなら、せめて「稼ぎ」で貢献するしかありません。 しかし、この田舎にExcelもパワポもありませんが……?


「マリエルさん厳しいw」「がんばれ社畜!」と思われた方は、 ぜひ【ブックマーク】や【評価】で応援をお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ