第11話:ブライトン家と「娘」
覚悟を決めたら即行動。 マリエルと共に、片道20日の過酷な馬車旅へ出発します。
普通の令嬢なら発狂しかねない環境ですが、元・社畜にとっては「屋根があるだけマシ」なようです。
「――母親が育てるのが、筋ですから」
(……)
マリエルの冷徹な宣告は、安宿の貧しいランプの光を、ギロチンの刃のように冷たく光らせた。
部屋は、重苦しい沈黙に包まれる。
(母親……私が?)
絶望が、じわりと内臓を冷やしていく。
(元・私の罪を償うのは、もう覚悟した。でも、母親? この、何の生活能力もない私が? Excelもパワポもない世界で、どうやって子供を育てるっていうのよ……)
私は、か細い、喉に張り付いたような声で、目の前の少女に問うた。
「……私に、できると、思う?」
マリエルは、その夜の海のような青い瞳を、わずかに細めた。
「できるかできないか、ではありません。やるのです」
彼女の言葉に、慈悲や激励は一欠片も含まれていない。ただ、変えようのない事実だけがそこにあった。
「それが、あなたの『娘』を……私たちが金銭的に見捨てないための、唯一の道ですから」
(……ああ、そうか)
その瞬間、私は理解した。
逃げ道はない。
これは「利害の一致」だ。マリエルは「娘の養育」という実利と生活の安定が欲しい。私は「公爵家の『処理』」から逃れ、生きる場所と、罪を償う機会、そして何より、この有能すぎる少女という一本の命綱が必要だ。
言葉にはならない、歪な「契約」が、ランプの揺れる薄闇の中で、私と彼女の間に結ばれた。
*
翌朝、私たちは何事もなかったかのように、再び乗合馬車の人となった。
だが、二人の関係性は、昨日までとは明確に変わっていた。
以前が「謎の誘拐犯」と「怯える人質」だったなら、今は「超スパルタな教育係」と「絶望した(が、やるしかない)新人」だ。
会話は、必要最低限の業務連絡のみに削ぎ落とされた。
「宿に着きました。荷物を運んでください」
「食事です。残さずに」
「見張りがいます。頭巾を深く」
「はい……」
それから二十日間。旅は、過酷を極めた。
馬車の硬い座席は尻の肉を削ぎ、宿のベッドは背中に板の感触を伝えてくる。食事は日に日に粗末になり、やがて石のように硬い黒パンと、具のない薄いスープだけになった。スープからは、薪の焦げた匂いしかしない。
だが、ここで。
私、佐藤葵(28)の前世で培われた「社畜耐性」が、地味に、しかし確実に効果を発揮した。
(前世の、デスクで突っ伏して仮眠三時間、食事は栄養ゼリーだけ、っていうデスマーチに比べれば……屋根のある場所で、横になれるだけマシだ)
(この黒パン、硬いけど……三十回噛めば唾液でふやける。……噛んでると、だんだん味は、する……!)
文句も言わず、体調も崩さず(崩すという発想がなかった)、出されたものを淡々と胃に流し込み、馬車で揺られ続ける私を見て、マリエルは一度だけ、本当に不思議そうに「……あなた、本当に壊れているのですね」と呟いていた。その声に、同情も侮蔑もなかった。
*
そして、二十日目の午後。
荒れた街道から外れ、馬車がゆっくりと坂を登りきると、風景は一変した。
目に鮮やかな、緑豊かな田園風景が広がっていた。
王都とは比べ物にならない田舎。しかし、貧しいというより、ただ静かで、人々の営みの気配がする、落ち着いた村。
(スローライフ……)
一瞬、私の脳裏にそんな甘い言葉が浮かんだが、すぐに冷たい現実に掻き消えた。
違う。これは、これから始まる「育児」という名の、未知なるデスマーチの入り口だ。
故郷の風景を見ても、隣に座るマリエルの表情は一切変わらなかった。
馬車は、村の外れに立つ一軒の屋敷の前で止まった。
ブライトン家。
貴族の屋敷と呼ぶには古びていたが、地方の名家としての威厳はかろうじて保っている。……いや、よく見れば、壁にはツタが蛇のように絡まり、屋根のあちこちが痛んでいる。マリエルが言っていた通り、経済的に困窮しているのは明らかだった。
屋敷の前で、中年の夫婦が私たちを待っていた。
マリエルの両親だろう。優しそうだが、その顔には深い疲労が刻み込まれている。
「マリエル! よく……」
母親が駆け寄り、娘の帰還を喜ぼうとした、その時。
彼女の視線が、マリエルの隣に立つ私を捉えた。
その顔は一瞬で強張り、父親も、私を見て息を呑む。
憎悪、恐怖、そして「(元)金づる」を見るような、戸惑い。
あらゆる感情がごちゃ混ぜになった、複雑怪奇な視線が、私に突き刺さった。
「お父様、お母様。ただいま戻りました」
マリエルは、両親の動揺を意に介さず、淡々と告げる。
「……こちら、ロザリアさま。事情により、しばらくお世話になります」
「あ……お、お世話になります……」
私は、その視線から逃れるように、深々と頭を下げるしかなかった。
(娘さんをDVして愛人にして人生狂わせた挙句、養育費まで止まらせた元凶です、どうも……)
気まずい沈黙が、場を支配する。
その、瞬間だった。
私は、夫妻の背後――屋敷の開かれた扉の影から、小さな気配が、怖々とこちらを覗いているのに気がついた。
マリエルの母親の、そのスカートの裾をぎゅっと掴み、おずおずと顔を出す、一人の小さな女の子。
――燃えるような、赤毛。
私と、そしてあの母と同じ。
誰もが見間違えようのない、ヴェルデ公爵家の、鮮烈な赤。
息が、止まった。
空気が、肺からすべて抜け出ていった。
頭では理解していた。だが、実物を目にした衝撃は、私の想像を、思考を、すべてを麻痺させた。
(……あの子が。私の子……。元・私が……産んだ……)
私がその場で凍り付いていると、それまで冷徹な「上司」だったマリエルが、すっ、と屋敷の入り口に進み出た。
そして、その小さな女の子の前に、静かに膝をついた。
彼女の声から、私に向ける「怒り」も「苛立ち」も、綺麗に消え去っていた。
ただ静かで、驚くほど、わずかに優しい声色だった。
「ロザリー。ただいま戻りました。……大丈夫、怖くありませんよ」
マリエルは、ロザリーと呼ばれたその子の小さな手を取ると、立ち上がらせ、ゆっくりと私の方へ向かせた。
ロザリーは、怯えた目で私を見上げている。
マリエルは、その子の頭をそっと撫でながら、私に紹介するように言った。
「ロザリー。ご紹介しますね」
「――あなたのお母様ですよ」
お読みいただきありがとうございます。
「硬い黒パンは30回噛めば味はする」 悲しい社畜のライフハックです。栄養ゼリーと仮眠室で生きてきた葵にとって、馬車の旅などデスマーチに比べればピクニック同然でした。
そして到着したブライトン家。 両親の冷ややかな反応は予想通りですが、そこに現れた小さな影。 燃えるような赤髪の少女、ロザリー。
ついにご対面です。 マリエルさんの「あなたのお母様ですよ」という紹介が、優しくも逃げ場のない宣告として響きます。
次回、『初めての接触』。 感動の対面……となるはずが、そう簡単にはいきません。
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