表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/49

第11話:ブライトン家と「娘」

覚悟を決めたら即行動。 マリエルと共に、片道20日の過酷な馬車旅へ出発します。


普通の令嬢なら発狂しかねない環境ですが、元・社畜にとっては「屋根があるだけマシ」なようです。

「――母親あなたが育てるのが、・・ですから」


(……)


 マリエルの冷徹な宣告は、安宿の貧しいランプの光を、ギロチンの刃のように冷たく光らせた。

 部屋は、重苦しい沈黙に包まれる。


(母親……私が?)


 絶望が、じわりと内臓を冷やしていく。


(元・私の罪を償うのは、もう覚悟した。でも、母親? この、何の生活能力もない私が? Excelもパワポもない世界で、どうやって子供を育てるっていうのよ……)


 私は、か細い、喉に張り付いたような声で、目の前の少女に問うた。


「……私に、できると、思う?」


 マリエルは、その夜の海のような青い瞳を、わずかに細めた。


「できるかできないか、ではありません。やるのです」


 彼女の言葉に、慈悲や激励は一欠片も含まれていない。ただ、変えようのない事実だけがそこにあった。


「それが、あなたの『娘』を……私たちが金銭的に見捨てないための、唯一の道ですから」


(……ああ、そうか)


 その瞬間、私は理解した。

 逃げ道はない。


 これは「利害の一致」だ。マリエルは「娘の養育」という実利と生活の安定が欲しい。私は「公爵家の『処理』」から逃れ、生きる場所と、罪を償う機会、そして何より、この有能すぎる少女という一本の命綱が必要だ。


 言葉にはならない、歪な「契約」が、ランプの揺れる薄闇の中で、私と彼女の間に結ばれた。


   *


 翌朝、私たちは何事もなかったかのように、再び乗合馬車の人となった。

 だが、二人の関係性は、昨日までとは明確に変わっていた。

 以前が「謎の誘拐犯」と「怯える人質」だったなら、今は「超スパルタな教育係」と「絶望した(が、やるしかない)新人」だ。


 会話は、必要最低限の業務連絡のみに削ぎ落とされた。


「宿に着きました。荷物を運んでください」

「食事です。残さずに」

「見張りがいます。頭巾を深く」

「はい……」


 それから二十日間。旅は、過酷を極めた。


 馬車の硬い座席は尻の肉を削ぎ、宿のベッドは背中に板の感触を伝えてくる。食事は日に日に粗末になり、やがて石のように硬い黒パンと、具のない薄いスープだけになった。スープからは、薪の焦げた匂いしかしない。


 だが、ここで。

 私、佐藤葵(28)の前世で培われた「社畜耐性」が、地味に、しかし確実に効果を発揮した。


(前世の、デスクで突っ伏して仮眠三時間、食事は栄養ゼリーだけ、っていうデスマーチに比べれば……屋根のある場所で、横になれるだけマシだ)

(この黒パン、硬いけど……三十回噛めば唾液でふやける。……噛んでると、だんだん味は、する……!)


 文句も言わず、体調も崩さず(崩すという発想がなかった)、出されたものを淡々と胃に流し込み、馬車で揺られ続ける私を見て、マリエルは一度だけ、本当に不思議そうに「……あなた、本当に壊れているのですね」と呟いていた。その声に、同情も侮蔑もなかった。


   *


 そして、二十日目の午後。

 荒れた街道から外れ、馬車がゆっくりと坂を登りきると、風景は一変した。


 目に鮮やかな、緑豊かな田園風景が広がっていた。

 王都とは比べ物にならない田舎。しかし、貧しいというより、ただ静かで、人々の営みの気配がする、落ち着いた村。


(スローライフ……)


 一瞬、私の脳裏にそんな甘い言葉が浮かんだが、すぐに冷たい現実に掻き消えた。

 違う。これは、これから始まる「育児」という名の、未知なるデスマーチの入り口だ。


 故郷の風景を見ても、隣に座るマリエルの表情は一切変わらなかった。


 馬車は、村の外れに立つ一軒の屋敷の前で止まった。

 ブライトン家。


 貴族の屋敷と呼ぶには古びていたが、地方の名家としての威厳はかろうじて保っている。……いや、よく見れば、壁にはツタが蛇のように絡まり、屋根のあちこちが痛んでいる。マリエルが言っていた通り、経済的に困窮しているのは明らかだった。


 屋敷の前で、中年の夫婦が私たちを待っていた。

 マリエルの両親だろう。優しそうだが、その顔には深い疲労が刻み込まれている。


「マリエル! よく……」


 母親が駆け寄り、娘の帰還を喜ぼうとした、その時。

 彼女の視線が、マリエルの隣に立つロザリアを捉えた。


 その顔は一瞬で強張り、父親も、私を見て息を呑む。


 憎悪、恐怖、そして「(元)金づる」を見るような、戸惑い。

 あらゆる感情がごちゃ混ぜになった、複雑怪奇な視線が、私に突き刺さった。


「お父様、お母様。ただいま戻りました」


 マリエルは、両親の動揺を意に介さず、淡々と告げる。


「……こちら、ロザリアさま。事情・・・により、しばらくお世話になります」


「あ……お、お世話になります……」


 私は、その視線から逃れるように、深々と頭を下げるしかなかった。

(娘さんをDVして愛人にして人生狂わせた挙句、養育費まで止まらせた元凶です、どうも……)


 気まずい沈黙が、場を支配する。


 その、瞬間だった。


 私は、夫妻の背後――屋敷の開かれた扉の影から、小さな気配が、怖々とこちらを覗いているのに気がついた。

 マリエルの母親の、そのスカートの裾をぎゅっと掴み、おずおずと顔を出す、一人の小さな女の子。


 ――燃えるような、赤毛。


 ロザリアと、そしてあのミランダと同じ。

 誰もが見間違えようのない、ヴェルデ公爵家の、鮮烈な赤。


 息が、止まった。

 空気が、肺からすべて抜け出ていった。


 頭では理解していた。だが、実物を目にした衝撃は、私の想像を、思考を、すべてを麻痺させた。


(……あの子が。私の子……。元・私が……産んだ……)


 私がその場で凍り付いていると、それまで冷徹な「上司」だったマリエルが、すっ、と屋敷の入り口に進み出た。

 そして、その小さな女の子の前に、静かに膝をついた。


 彼女の声から、私に向ける「怒り」も「苛立ち」も、綺麗に消え去っていた。

 ただ静かで、驚くほど、わずかに優しい声色だった。


「ロザリー。ただいま戻りました。……大丈夫、怖くありませんよ」


 マリエルは、ロザリーと呼ばれたその子の小さな手を取ると、立ち上がらせ、ゆっくりと私の方へ向かせた。

 ロザリーは、怯えた目で私を見上げている。


 マリエルは、その子の頭をそっと撫でながら、ロザリアに紹介するように言った。


「ロザリー。ご紹介しますね」

「――あなたのお母様・・・・・ですよ」

お読みいただきありがとうございます。


「硬い黒パンは30回噛めば味はする」 悲しい社畜のライフハックです。栄養ゼリーと仮眠室で生きてきた葵にとって、馬車の旅などデスマーチに比べればピクニック同然でした。


そして到着したブライトン家。 両親の冷ややかな反応は予想通りですが、そこに現れた小さな影。 燃えるような赤髪の少女、ロザリー。


ついにご対面です。 マリエルさんの「あなたのお母様ですよ」という紹介が、優しくも逃げ場のない宣告として響きます。


次回、『初めての接触ファーストコンタクト』。 感動の対面……となるはずが、そう簡単にはいきません。


「社畜メンタル強すぎw」「ついに娘キター!」と思われた方は、 ぜひ【ブックマーク】や【評価】で応援をお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ