決断という答えを求めて……
「……」
――あと、どれだけ考え抜けば……。
天賦の才と認められたこの軍師たる決断のすべてを施行させて、トゥブアン皇国を災厄から護りきることができるのだろうか?
ハシュたち伝書鳩たちが集められた大広間から下がると、「決断の長」である十月騎士団団長のユーボットは自身の秘書官さえも下がらせて、とある一室へと向かう。
そしてただひとり、この庁舎にあるさらなる大広間を使って床に描かせた、今度は世界地図の上に立ち、じっくりと思案を巡らせるように目を閉じた。
――それから数時間。
ユーボットは微動もせず、ずっと、ずっと心中で思案を巡らせている。
辺りはすっかり時間経過とともに夜を迎えてしまった。
先ほどハシュたち伝書鳩を集めた大広間と同様、この大広間にも家具らしきものはひとつもなく、窓にはカーテンさえ掛けていない。
天井にある吊るし照明にはひとつも灯りが点っていないが、いまは蒼月の時季。
窓から差し込む青みを帯びた月光があれば、視界はそれで充分だった。
きっと――。
夜を好めないハシュがこの場に立つのは到底不可能だろうけど、ユーボットは闇さえものともしない。
太陽と月。天体がもたらす明暗に、何を恐れろというのだろうか?
足もとにある世界地図はトゥブアン皇国を中心に、西の大陸、東の大陸がそれぞれ描かれていた。そのどちらの大陸に向かうにしても、軍船規模のしっかりとした船でふた月比近くも要する航海の旅をつづけなければたどり着けない。
そのため――。
トゥブアン皇国は両方の大陸の中継地点となる唯一の島大陸として、かつては交易航路の港としてにぎわったものだが、それも遥か昔……。
いつしかこの大海洋を四方に持ち、海洋と島大陸からもたらされる恩恵を目的に、西の大陸の中央諸国地域……それらが信仰する宗教の総本山として強大な権力を握る「シャトラリス聖皇国」を筆頭に侵略戦争を仕掛けられる、その対象となってしまった。
――いまも、そうだ。
彼らはほんとうにまちがった観点を妄信し、トゥブアン皇国を永遠の楽園のように捉え、「シャトラリス聖皇国」の正しき園として掌中に収めようと躍起になっている。
その準備は確実に、このトゥブアン皇国に面した軍港で行われているという。
それがわかっていても、自身に絶対の決断が下せない――。
「――この情報はすでに一年近く前から、暗躍と謀略を司る十一月騎士団から届いています。彼らが西の大陸に散らばって見聞きしているので、この情報に憶測というものは存在しません。だから、海戦時期と規模は読み取れるんです」
ユーボットはその海戦時期をいくつもの条件に当てはめながら、何百、何千、何万という単位で予測海戦を描き、海軍騎士の七月騎士団で実際の海戦で参謀職を経験している武官たちも幾度と招いて図面演習をして、その勝敗率を徹底して調べ上げた。
ときには裁可が下せると、ようやく自身も納得しかけた案もあったが、まばたきを三度する間にその案も敗因が見えてくる愚案となって、棄却になる。
それがほんとうに何万と繰り返してきたが、いまもなお真の決断には至れない。
「わかっています。もう主軸としての案を決定し、遂行しなければならない時期だっていうのはわかっています。でも……それだって僕の持論です」
ただの机上で生まれた、ただの統計数字の確率が高い、ただの予測。
「そんな不確かなものに命運を懸けさせて、七月騎士団にすべてを預けるわけにはいかないんです」
コツ、コツ……と足音を立てながら、ユーボットは地図上での大海洋を渡る。
徒歩にして十数歩。
床に描かれた大海洋は波もなく静寂で。
そして苦もなく西の大陸へと向かうと、「シャトラリス聖皇国」が国土をかまえる細長い半島の上に立つ男の足もとが見えたので、ユーボットは静かに顔を上げた。
もしハシュがこれに遭遇したら、一瞬で心臓を止めるだろう。――永遠の勢いで。
そう。
――本来であれば。
ここに立っているはずもない男だった。
ましてやユーボットがこの大広間に入ってきたときには、どんな人影も存在していなかった。
ユーボットはあれからずっとひとりで立っていたはず。
それにおどろいて声を上げてもよかったかもしれないが、蒼月が見せる男の顔は見知っている顔であったし、彼は思いのほか神出鬼没だ。これにはもう慣れてしまったので、ユーボットは特段動揺しない。
むしろ、いつの間にか現れた男に向かい、ユーボットは先ほどからひとりしゃべりをしていた。
「――貴様はいったい、何の情報を待っているのだ?」
そこに立つ男が尊大な態度を纏いながら腕を組み、ユーボットに尋ねてくる。
ユーボットはほんとうに苦悩な表情を浮かべて、気弱そうな眉根を震わせるように寄せながら、
「あなたもご存じのとおり、シャトラリス聖皇国はいま、国主である教皇と呼ばれる人物が高齢を迎え、静かにその人生を終えようとしています。それを踏まえてすでに次期教皇が選出されようとしているのですが……」
他国の国主が――ましてや敵国の総大将がどのような理由で倒れ、どのような理由でその頂点の座を入れ替わろうと、それはこのトゥブアン皇国には微細も関係がない。
だが……。
実際に関係は大ありで、とくに入れ替わりの時期というのは現教皇の人生最期を懸けた大海戦、あるいはすべてを継承した新教皇が最初の権威を示すためにこれを仕掛ける――双方とも野心が凄まじく、最初から総力戦で当たることが多い。
とくに「シャトラリス聖皇国」は西の大陸の中央諸国地域の同盟国をうまく使うので、とにかく力任せが厄介なのだ。
ゆえに敵国とはいえ……いや、敵国だからこそ「シャトラリス聖皇国」の情報は重要で、ここトゥブアン皇国でもその存在が謎に包まれている十一月騎士団が身を潜り込ませながら情報収集に努めている。
ただ、それにも限界がある――。
悲しいことに、敵国の情勢はつねに表裏としてトゥブアン皇国の国運を否応なしに揺るがしてくるのだ。
「現教皇、新教皇、どちらが主体となってもトゥブアン皇国は戦禍を迎えますが、僕は後者として選ばれる権力層が気になって仕方ないんです」
「……なぜ?」
「その中心人物が周囲を動かすのか、周囲がその中心人物のために動くのか。これは似て大いに非なり、今後の戦局に関わります」
ユーボットは慎重な表情を崩さないが、目の前に立つ男が不遜な眼光を黒縁眼鏡の奥から放ち、ふん、と鼻を鳴らしてくる。
「くだらん。狂犬に従順な駄犬か、内心逆転を狙う駄犬か。測るだけ無駄なこと」
「……ですが、駄犬に増長を与える狂犬も厄介極まりないです」
「所詮は烏合の衆。我々が犬の出来など気にする必要などない」
「ですが……」
「そんな下らぬことで悩むくらいなら、貴様はとっとと今年の収穫祭を開催すべきか否かの決断をしろ」
「……収穫祭、ですか?」
「現実、トゥブアン皇国においてこちらの有無が一大事だろうが」
「……」
敵国の頂点が入れ替わる――。
すなわち、そこに座する人物の人格次第でトゥブアン皇国の戦禍の頻度が増す可能性もある。
ユーボットにとって何より恐ろしい事態だというのに、目の前の男はそれを一蹴し、まさか、唐突にこのような話題を持ち込んでくるとは。
確かにトゥブアン皇国にとって収穫祭は、なくてはならない行事だ。
時期も近いのに国情が戦時になっては、誰もが有無を気にするだろう。
もっともだが、彼らしくない会話の切り替えにユーボットがほんのわずかにきょとんとしてしまうと、
「最近、奥方がな。私の嫌味を上書きするように吐き散らして、うるさいときたらありゃしない。私には立場上、国事、国政、軍事のすべてに決定権がないというのに、収穫祭の是非も決められないとは何とも器の小さい、――などと言ってくる始末」
「それは……」
「口うるさいのは見識ある証拠だが、おかげで私は家に帰るのが憂鬱でならん。何とかしろ」
「ぼ、僕に夫婦喧嘩の仲裁を求められても……」
会話を切り替えたまさかの理由にユーボットは何だかおかしくなってしまい、堪らず苦笑してしまう。
――ひとりでこんなふうに鬱々と考え事をしていると、こうだ。
悪い方向の取り憑かれる前に、不思議と彼が目の前に現れてくる。
悩みを口にしたところで嫌味と嘲笑が返ってくるだけなのだが、なぜかそれが引き金になって、奇妙なほど冷静さを取り戻すことができる。いつからか、ユーボットにとって彼は気付け薬のような存在になってきた。
ユーボットはすこしだけ頭を振って、目の前の男を見やる。
その表情に一片の温情もない。むしろ、心底呆れている。
尊大に溢れた容姿、七三分けの前髪が特徴の、黒縁眼鏡をかけた彼――四月騎士団団長は腕を組んだまま、
「ユーボット――十月騎士団団長、ご返答を」
などと不真面目を真面目に問うてくるものだから、堪らない。
ユーボットは口もとに手を当てながら、
「その件につきましては一昨日、五月騎士団団長もおなじようなことを仰せになられたので、決行する予定です」
――うちのカミさんがねぇ……。
皇都からいい男を――この場合は見栄えのいい、若くて凛々しいう武官のことだろう――追い出したのだから、収穫祭くらいは奮発してトゥーナ地方の牛肉でも振舞ってくれなければ割に合わない。
そう言って困るんだよねぇ、と。
つい、それを聞かされたときのやりとりを思い出してしまう。
ユーボットはそれを交えながら、
「トゥーナでもアサガンでも――。皇都地域は恒例の場所で行いますし、軍事配備をしている地域に向かった武官たちを鼓舞する意味でも、そちらで行えるよう手配します」
「ならば、――よし。トゥーナ地方の肉を用意してもらえるのなら、私はこれ以上、何も言わぬ」
トゥブアン皇国の牧畜はとくに牛肉に優れていて、トゥーナ地方やアサガン地方の牛肉は普段、高級料理の上品さに適している。
それを惜しみなく収穫祭名物の丸焼きにして、大勢で豪快に切り分けて食べてもいいというのであれば。
それとも、相応の捌きができる腕自慢を用意しろと要求するだろうか?
「そうですね。収穫祭は欠かせません」
ついつい苦笑しながら、ユーボットは四月騎士団団長との会話を楽しんでしまう。
――いつしか彼に怯えを見せなくなった、痩身の青年。
面白味は欠いてきたが、どんな口を叩いてもついてこられるのなら、――それも一興。
四月騎士団団長はそんなふうに捉えもしたが……ようやく本題に入る気になったのか、彼が特徴的な黒縁眼鏡に不協和を込めた光を走らせる。




