壱
知人の紹介で会った青木靖という男は、どうも難しい人間のようだった。
隙なく着こなした上品なスーツと、一筋の乱れもない髪。生真面目を絵に描いたような顔つきは親しみやすくはないが、初対面の人間に誠実さを印象付けるには十分だった。
その印象そのままに彼が訥々と語った話は俄かには信じがたいものであったが――。
「一応、調べるだけはするんですね」
「まあな」
「もの好きですね、相変わらず」
「今さらだろ」
に、と口角を上げた神野に、尾上は肩をすくめただけだった。
「同じ人間を探してほしいという依頼が二件。それぞれ別口で来るなんて、如何にも貴方が好きそうな話だ」
「わかってんなら報告しろ、報告」
「………」
聞こえよがしなため息を吐いて、尾上は手にした紙に視線を落とした。
添えられた写真には、着物を着た青年が映っている。
「行方不明として警察に届けられているのは萩野匡一郎。萩野一族宗主の息子ですね。彼が消息を絶ったのは十日前。とは言っても、彼も成人男性ですから。三日ほどは萩野家の方でもあまり気にしてはいなかったようです」
「たったの三日? 早すぎるだろ。成人男子たるもの、一月行方をくらましたところで――」
「僕が話している時は黙っていてくれませんか。鬱陶しい」
「……ハイ」
神経質な男だ。神野はふいと尾上から視線をそらした。
笑みで神野を黙らせた尾上は、もう一枚の紙を取り出す。
「萩野家といえば、江戸の時代まで遡れば武家。明治の新政府政権下でもうまく生き残った家柄らしく、現在は伯爵位を有する正真正銘の名家です。萩野匡一郎氏は、現萩野伯爵の直系長子、つまり、このまま何事もなければ次期伯爵だったはずの人間です。本人の意志による失踪ならまだしも、彼の立場上、何らかの犯罪に巻き込まれた可能性の方が高い。萩野伯爵もそう思ったんでしょう。対外的には病気により静養中となっていますが、実際は持てる権力のすべてを駆使して匡一郎氏の捜索に当たっています。――ここまでは青木氏の依頼とさして変わりません。逆に言えば、ここからの違いがこの件の奇妙な点です」
尾上が一枚の写真を机の上に置く。
それはどこかの写真館で撮られたものではなく、ごく個人的な趣味の延長として撮られた写真のようだった。写っているのは白の単衣に桜色の羽織りを羽織った少女。採光がうまくいかなかったのか背景は白く焼けてしまっているが、彼女がたたえる儚げな微笑が印象的だった。
「彼女の名前は萩野千歳。萩野匡一郎氏の妹です。そしてこの少女は、匡一郎氏と同じ日に、彼と同じように萩野家から姿を消しています。けれど」
「萩野家は、この娘の捜索は」
「していません。するつもりもないようです」
青木は、匡一郎の腹心の部下だったらしい。
部下というよりは、側近と言った方が彼らの関係としては正しかったかもしれない。萩野家の分家筋にあたる青木家の跡継ぎとして生まれた彼は、生まれる前から本家の嫡男である匡一郎に仕えることが決まっており、またそうなるべく育てられた。学び舎さえともにする徹底ぶりだったというのだから、一般人である神野からすれば空恐ろしいものがある。
そんな青木が、匡一郎の妹である千歳の存在を知ったのは、本当に偶然だったという。
ある日、いつものように匡一郎を本家の邸宅まで迎えに行った青木は、匡一郎の支度ができるまで庭でも散策していてはどうかと女中に言われ、萩野家の庭に出た。
庭とは言っても、そこは旧家の庭である。想像していたよりも広大なそれに、気がついた時には立ち入りを許されていない区域にまで入り込んでいた。
慌てた青木は急いで元の部屋に戻ろうとしたが、冷静さを失った頭は来た道すら正しく示さない。方向感覚が鈍いわけでもないのにと、焦れば焦るほど道の左右も前後もわからなくなっていく。
そうして辿りついた先で、青木は見知らぬ少女――萩野千歳に出逢ったのだ。
「千歳嬢は、生まれつき体が弱かったそうですね。萩野家の主治医は愚か、彼女を診たどの医者も、彼女を普通の人間並みに健康にすることは困難だという見解を示しています。嫁げない娘に対して、萩野家が取った対応は彼女を『いないものとする』こと。青木氏も、その時庭で迷わなければ、存在すら知らされなかっただろうと」
木の葉を頭につけた青木を見て、千歳はひと目で彼が迷っていることを看過したらしい。『迷いでもしなければ、こんな場所に来る人はおりませんから』と微笑んだ彼女に、青木の心は奇妙に疼いた。
彼女が語る「兄」が匡一郎であることはすぐに知れた。その兄の側近だと名乗った青木のことも、あまり警戒することなく受け入れたという。兄と世話係の侍女以外の人と話すのは久しぶりだからと少しぎこちないところもあったが、僅かな会話から少女が聡明であること、そして兄をとても慕っていることがわかった。
彼女に教えてもらった道をたどって戻る途中、青木は何度も何度も振り返った。そうすれば、彼女がまだあの縁側で微笑んで自分を見送ってくれているのではないか。そんな姿が見えるのではないか。そんな馬鹿な考えを振り払うことができなかったのだ。
部屋に戻ってしばらく。現れた匡一郎に、青木は先ほど出逢った少女のことを尋ねることができなかった。もともと、個人的なことを話すような関係ではなかったこともあるが、直感的に、彼女のことは触れてはいけないことなのではないか、と。そう感じたことが原因だった。
青木が次に彼女を目にしたのは、一度目の邂逅から半年が経った頃だった。
以前と同じように待たされて、促されるままに庭に出た。既視感を覚えながら記憶を頼りに辿りついた先。そこには、匡一郎に支えられて庭を眺める千歳がいた。
二人は遠目から見ても仲睦まじく、匡一郎は青木が見たこともないほど穏やかで優しい表情をして妹に接していた。
その時の衝撃をどう言い表せば良いのか、青木は知らない。匡一郎が微笑を浮かべることはあってもそれはすべて計算されたものであり、どこか「演じている」ような空虚さが拭えなかった。それが、青木の知る匡一郎という男であった。他の人間は気がつきもしていなかっただろう。それは、長年彼の側近く仕えてきた青木だからこそ感じていた違和感であった。だから、まるで普通の人間のような表情をする匡一郎を見て、青木は初めて匡一郎が自分と同じ血の通った人間なのだと実感することができた。
『匡一郎様を、人でないと思っていたわけではありません。知っていました。あの方が人以外の何者でもあるはずがないのだと。ただ、わかってはいなかったのです、あの時までは』
青木は、意を決して匡一郎に千歳のことを尋ねてみた。
匡一郎は、なにも言わず青木をじっと見つめたらしい。何の感情も込められていない瞳で。
けれど、青木は引かなかった。恐らく、あれほど長く主の目を真っ直ぐに見返したのは生涯で初めてだったろう。
瞬きすら憚られる沈黙の後、匡一郎はひとつ頷いた。実際はどうだったか知らないが、青木にとっては半日も経ったのではないかというほど長い沈黙だった。
次の日、匡一郎は青木を連れて千歳のもとへ訪れた。そしてそれが、青木が彼女を見た最後の時だったという。
その時、青木は匡一郎に写真機を持ってくるように言われた。ここにある写真が、その時撮った写真だ。
青木は、この写真を二枚焼いたという。一枚は匡一郎に渡し、一枚は千歳本人に渡そうと思っていた。
結局、それ以降青木が彼女に会うことはなく、萩野家の兄妹は行方がわからなくなった。
兄の消息がわからないことで、彼を慕っていた千歳がどれほど心痛めているだろうと心配した青木が忍んで行った部屋には、なにもなかった。――まるで最初から誰もいなかったかのように。本邸に仕える使用人も皆口を揃えてそんな娘はいない、青木の勘違いではないかと言った。
彼女との邂逅はどれも現実味の薄いものであったから、青木自身、彼女は己の作りだした幻想なのではないかと疑ったこともあったという。けれど、そのたびにこの写真を取り出し、彼女が現実に存在していたのだと自分に言い聞かせた。
そしてようやく、青木は彼女の存在を知る者に辿りつく。他でもない、彼女の主治医だった男だ。だがそこで、彼は衝撃的なことを知らされる。千歳は――彼女は、もうこの世にはいないのだということを。匡一郎が姿を消した日がまさに彼女の命日であったことを。
けれど奇妙なことに、彼女の遺体は匡一郎とともに消えてしまったのだと医者は言った。彼女の最期を看取ったのは匡一郎だけだ。その直前までは自分もその場にいたが、最期の数分、彼女の傍らには匡一郎しかいなかったのだと。そして、静まり返った隣室を不審に思い彼が襖を開けたところ、そこには匡一郎は愚か千歳の体さえもなくなっていたのだという。
『匡一郎様は、それは千歳様を可愛がっておられた。……せめて最期に、桜でも見せてやろうとしたのかと』
千歳は、庭の桜が好きだったという。桜だけではない。移り変わる四季の彩りすべてを愛で、慈しみ、その常ならぬ姿を惜しむように目に焼き付けていた。
己の命が長くないことを知っていたからでは、と医者は感じたという。後幾度見ることができるのか知れない、もしかすると最後になるかもしれない風景を、心に刻んで。
「青木氏は、匡一郎氏の失踪は自らの意志によるものと考えています」
『もしそうであるならば、匡一郎様の捜索などしない方が良いのでしょう。――ですが、千歳様は』
「実の親にすらその死を悼まれず、しかもなかったことにされる、か」
「むしろ、遺体がなくなって好都合、という者もいるようですよ。遺体があれば、どうしたって葬式をしないわけにはいかない。けれどいないはずの人間の葬式をどうしてできようか、と」
「……胸の悪くなる話だ」
千歳が真実亡くなっているのならば、彼女の葬儀だけでもと。そう語った青木は、こちらが心配になるほど顔色が悪かった。
匡一郎がいなくなったことで、萩野家では次期宗主の座を狙って早くも水面下で争いが起こっているらしい。匡一郎の側近だった青木を取り込めば、他の候補の二手も三手も先んじることができると、誰もが彼に近づいてくる。
だが、青木の心情としてはそれどころではないのだろうと、神野は思う。
下世話な想像かもしれないが、彼はその千歳という少女に惹かれていたのではないだろうか。だから、彼女のことについて語る彼の表情はあれほどまでに悲壮だったのだ。それは淡いものであったろう。まだ名前をつけられるほど確かな感情ではなかったかもしれない。けれど、憎からず思っていた相手が死んでいるかもしれないと聞いて、平気でいられる人間などまずいない。
「さて。どこから手をつけたものかな」
まず考えなければならないのは、匡一郎が失踪した理由だ。
妹の死に世を儚んで? 彼の存在を邪魔に思う誰かの陰謀?
(あるいは、そのどちらでもないか)
目を閉じる。
瞼の裏に広がる暗闇に、役者のように整った端正な顔立ちの青年が映る。写真にあった、萩野匡一郎だ。
彼は微笑を浮かべていた。けれど、その表情から窺える感情はほとんどない。およそ人間らしい感情をたたえていないのだ。纏う浮世離れした空気は、彼が本当にここにいるのだという実感が希薄である。
彼の隣に、よく似た顔立ちの少女が現れる。伏せられた瞳は憂いを帯び、その表情には悲愴ささえ漂っている。
(写真では、微笑っていたはずだ)
瞳を開ける。
何故だか、とても嫌な予感がした。
「……尾上。萩野家にお抱えの術士はいるか」
「ええ」
古くからある家柄にはよくあることだ。家の興亡をまじないで占うのは、かつては当然のことだった。
「その術士と会いたい。どうにかできるか」
それに意味があるのか、と尾上は問わない。
神野は何か根拠や確信があって行動を起こす人間ではないのだ。彼の行動は直感によってなり、理由は大概後からついてくる。
「やってみましょう」
「頼む」
神野は、もう一度少女の写真を見下ろした。
何故か、少女の微笑が泣くのをこらえているように思えた。




