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 桜。紫陽花。女郎花。鳳仙花。躑躅。蝋梅。秋桜。百合。水仙。金盞花。椿。芍薬。空木。金木犀。

 四季折々の花々が、時をなくしたように咲き誇っている。

 本来ならあり得べからざる光景に、千歳はもう慣れてしまった。花の囲む道をどこまで歩いてもどこにも辿りつくことがないように。太陽も月も見えない空が、紫色であるように。

 この場所はどこなのだろう。自問する。もう何度目かの問いに、答える者はいない。

 兄の姿をした妖は姿を見せない。けれどわかる。見られている。千歳がどこにいようと、なにをしていようと。あの男は、彼女を見失うことはない。

 誰の支えもなく歩けるようになったのは、この場所に来てからだ。

 一刻も体を起していればすぐに寝込むことになった以前と違い、今では一日中起きていることもできる。今までまったく使っていなかったことがたたり足はすぐに疲労し体力もないが、こうして毎日歩いていれば少しはましになるのではないか。そう思って、千歳はあてもなくただ歩いている。

 これだけたくさんの花が咲いていれば、花の匂いで胸が悪くなりそうなものだが、ここにある花はどれもまったく匂いがしなかった。顔を近づけて試したのだ。匂いの強い百合でさえ、一切芳香を放ってはいなかった。

 なのに、どうしてだろう。ここは、いつも微かに花の香がする。何の花かはわからないのに、花の香だということはわかることも奇妙だ。

 ふわり。風が揺れた。

 はっとして顔をあげれば、そこには見知らぬ女。目に鮮やかな緋の衣を纏った、この世のものとは思えぬ美しい女だった。

 何の感情も映らぬ面はまるであの妖のようで、自然、千歳の身はこわばる。

『――……』

 女が唇を動かす。

 けれど紡がれているはずの音は聞こえない。

『――……』

 千歳はじっと女の口を見た。

 繰り返し、繰り返し。女は同じことを口にする。

 オ、マ、エ、ノ、セ、イ、ダ。

「っ……!」

 息をのむ。

 ぞわりと背に走ったのは悪寒だ。

 風が騒ぐ。そのざわざわとした音もまた、千歳の心を乱した。

 気がつけば、千歳は女に背を向けて走り出していた。いや、走るという表現は適切ではないだろう。いくら歩いて体力をつけようとしているとはいえ、つい最近までほとんど自分の部屋から出たことのない千歳だ。逃げなければという恐怖心が彼女の歩みを速めているだけ。歩くよりは早いそれは、常人とはまるで速度を異にするものである。

 躓いて、立て直して。右足と左足を交互に前に出すだけなのに、その動きのなんと儘ならないことか。

「っ……!」

 鼻緒が切れた。

 衝撃を覚悟して咄嗟に目を瞑る。

 けれど次に千歳を襲ったのは、予想とは程遠い小さな衝撃と、もう慣れてしまった薫香だった。

「大事ないな」

 低い声。

 何故、と問う気は何故かしなかった。顔を見られたくなくて俯く。

 手が震えているのがわかった。きっと血の気も引いているだろう。

「……無粋なものが入り込んだものだな」

 男が眉をひそめる。

 その視線の先には、先ほどの女がいるのだろう。

 未だ去らない恐怖の正体を見極めようと、千歳は顔だけ振り向いた。

 目を凝らす。何故か、見知った相手のように思った。

 女は口を閉じ、最早千歳のことなど見てはいなかった。その瞳は、ただ千歳を抱えたままの男に向けられている。

「消えよ。我は貴様の立ち入りを許した覚えはないぞ」

 不快そうに男が言った。それだけで、瞬きの後に女はいなくなっていた。

(今、のは……)

 茫然と、女が消えた虚空を見つめる。

 現れた時も、消える時も唐突で、いったいどこから来てどこへ去ったのか。そもそも、あの女は何者であるのだろう。

「面倒なことになりそうだ」

 小さくこぼされた男の呟きに、千歳は何かを堪えるように瞼を閉じた。





 三条院家の廊下を歩いていた綾女は、向かいから来る男の姿におやと片眉をあげた。

 珍しい。主とともにならばいざ知らず、彼一人でこの家に訪ねてくるとは。今彼が置かれている立場を考えても、こんなところにいる暇などないだろうに。

 以前見た時よりもやつれたような風体の男を労うつもりで、綾女は彼に声をかけた。

「これは、綾女様。気づかずご無礼を」

「構いませんよ」

 慌てて頭を下げる男に苦笑する。

「何やら難しい顔でお悩みだったようですから」

「……はい」

「お話は聞いています。青木さんが思い悩むのも、無理からぬことでしょう」

 青木の主が――萩野匡一郎が姿を消したという話は、未だ表沙汰にこそされていないが萩野と三条院の両家では周知の事実だった。

「私など。それよりも、桃花様の方が余程」

「……ああ」

 頷き、綾女は青木が来た方角に視線をやる。

 匡一郎は萩野の後継者であると同時に、三条院の娘、三条院桃花の許婚であった。妾腹である綾女と桃花はけして仲が良いわけではないが、異母妹の許婚を知らぬほど、綾女は三条院から蔑ろにされていはいない。

「なるほど。呼びつけられましたか」

「………」

 無言。けれどそれがなによりも肯定を示している。

 許婚の行方が知れなくなってから、三条院の姫は塞ぎこみ寝込んでいる。普段から少しでも何か気に入らないことがあると無理難題を言って使用人らを困らせている娘だが、今回もその例に洩れず周りにいる者達に「匡一郎様を連れてきて」と訴えているらしい。「私の言うことが聞けないの!?」などという陳腐な言葉を綾女が聞いたのは昨夜のことだ。

 屋敷中が腫れものに触るように息をひそめて桃花の機嫌を窺っている。それが鬱陶しくてたまらず今まで外出していたのだが、どうやら今度は青木にまで被害が行ったようだと綾女は眉をしかめた。

「申し訳ありません。青木さんの立場も考えず、異母妹が御迷惑を」

 三条院と萩野は、けして同じ家格であるとは言えない。

 爵位こそ同じ伯爵位を戴いているが、元公家の三条院と元武家の萩野では三条院の方が位階が上に見られるのだ。だからこそ、三条院の直系である桃花の言うことに逆らえなかったのだろう。

(あの娘は、我儘に過ぎる)

 その原因が誰かといえば、間違いなく三条院の現当主とその正妻であろう。

 現当主は綾女の父でもあるが、そもそも子供に関心がない男で娘であろうと息子であろうと可愛がるということを知らない人間だ。対照的に、彼の正妻は娘の桃花を目に入れても痛くないほど溺愛していて、実母から厳しく躾けられて育った綾女には信じられないほど桃花に甘い。

 だが、桃花もいい加減分別のつく年齢だ。自分のことだけしか考えないその態度は褒められたものではないと、不本意ながら異母姉ということで再三再四窘め時には叱りつけもしているが、いっこうに改善される様子がないのに、綾女は深く息を吐いた。構わないと首を振る青木も、内心どれほど呆れていることか。

「本当に、申し訳ありません。あれには後できつく言っておきます」

「そんなことは……それに、ここに来たことも、まったくの無駄ではありませんでしたから」

「そう、ですか?」

「はい」

 気を遣われているのでは、と綾女は青木を窺った。

 だが、青木は疲れた表情ながらも「気になさらないでください」と微笑を浮かべている。

「むしろ、桃花様には感謝しているくらいです」

「感謝、ですか」

「ええ」

 青木の笑みが深くなる。

「どうすべきなのかも、その方法もすべてわかっていたんです。ただ、その手段がありませんでした」

「……青木さん?」

「桃花様が、持っていたんです」

 言って、青木は大事そうに手に持った“なにか”を撫でる。

 布に包まれたそれが何なのか、綾女にはわからない。けれど、何故だか血の気が引くような気がした。

「これで、やっと」

 その呟きの先を、綾女は聞き取ることができなかった。


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