序
名前を呼ばれたような気がして、千歳はふと視線を庭にやった。
はらはらと舞っているのは薄紅の桜。もう盛りを終え、散るだけしかない花だ。
それに自分を重ね合わせて、千歳は浅く息を吐いて胸を押さえた。
十まで生きられるかどうか。そう言われた自分が命を削るように日々を生きていることを知っている。床から離れられるほど体調が良い日などごく稀で、こうして寝て過ごすだけでほとんどの日が終わる。もう、桜が散る姿など何度も眺めてきた。
なのに、何故だろうか。その時見た桜は、何故かひどく胸を締めつけた。
「起きたのか」
さらり。衣ずれの音とともに、襖が開け放たれる。
「まだ夜が明けたばかりだ。寝られるならもう少し眠っておいた方がいい」
「……いいえ。もう起きます」
「ならば、手を」
差しのべられた手。その持ち主の顔を見たくなくて、顔を俯かせたまま半身を起こす。
苦笑する気配が頭上でした。
「強情な娘だ」
『強情な妹だ』
声が、した。
今目の前にいる男と同じ声が。でも、決定的に違う声が。
手を握る。震えるそれは青白く、不健康だ。自分で見ても、あまり気持ちの良いものではない。
この手を、握ってくれた人がいた。医者どころか両親にも見捨てられ、忘れられていた自分を見つけてくれた人が。微笑みと親のように惜しみない愛情をくれた人がいたのだ。
千歳、と。柔らかく、優しく名前を呼んで、頭を撫でてくれた。それだけのために、千歳は明日も生きていたいと思うようになった。
「千歳」
瞳を閉じれば。その声は大切な存在と重なる。
「それほど、この姿が嫌いか? そなたの兄、匡一郎のものだろうに」
「………」
答えがわかっている問いを投げる男は、どこまでも残酷に千歳に真実を突きつける。
違うのだと。目の前にいる己は匡一郎ではなく、その命を、魂を喰らい、成り代わった妖なのだと。
思い知らされるたび、千歳の心は軋む。軋んで、揺らいで、わけのわからない感情に押しつぶされそうになる。
(兄上)
祈るように、縋るように一度心の中で兄を呼び、千歳は意を決して顔を上げた。
「ようやく我を見たな」
見知った他人なのだと、千歳は思う。
兄と同じ顔、なのにそこから人間らしい感情をすべて拭い去った表情。黒かった髪は白く、瞳は紅く。とても人間とは思えないその色彩。
歪で不格好な兄の模造品を見ているようで、千歳は胸を襲った痛みに表情を歪ませた。
「……兄上のものではありません」
「うん?」
「あなたは、兄上と、似ても似つかない。一緒に、しないでください」
だって、兄は、匡一郎は、こんな表情をしなかった。
取るに足らないものを見るようでいて、気に入りの玩具で遊ぶ子どものように。悪意のない残酷さを隠しもせず、男は笑う。
「そなたは面白い。人間の娘」
反論する千歳のことも、飼い猫がじゃれて爪を立てたかのように気にとめてすらいない。そんな態度が、余計に千歳の心を塞ぐ。
面白い。繰り返し、男は千歳の顔を覗き込んだ。
「そなたを生かしてほしいと、そう言った匡一郎の気持ちも、わからぬでもない」
「っ……」
それは、ひと月前。まだ桜も蕾すらつけず、名残り雪が空をちらつく殊更に冷え込む夜のこと。
隣の部屋で自分自身すら諦めている命を惜しみ、なんとかならないのかと医者に詰め寄る兄の声を聞きながら、砂がこぼれるように自身の命が欠けていくのを、千歳は諦めに似た気持ちで受け入れていた。
もともと、十まで生きられるかどうかと言われていたからだだ。この前の正月で十六になった自分の体は、もうとっくに悲鳴を上げていた。
ここ二、三年は布団の上で起き上がることもままならなかった。だからというわけではないが、とうとう寿命が尽きたのだと、覚悟して夜を迎えた。
もう、明日の朝日は拝めないだろうと。沈痛な面持ちで医者が告げた言葉に色を無くしたのは千歳ではなく兄の匡一郎だった。
襖を開けて入ってきた兄が手を握り顔を伏せるのを、申し訳なく思いながら、どうにもならないのだと、慰めて。
だから、どうか泣かないでと。千歳が好きなのは、匡一郎の日だまりのような笑顔だったから。重くなる瞼を堪えそう言った。
『駄目だ……逝くな、逝かないでくれ、千歳……っ』
『………』
ごめんなさい。ありがとう。もう、いいの。
沈んでいく意識の中、最後に聞こえたのは、兄の魂切るような叫びだった。
二度と目覚めないのだと思った。千歳が落ちたのは眠りではなく死の淵であったから、もし目覚めるならば彼の世であるのだと。そう信じていた千歳は、だから、目が覚めて愕然とした。
耳が痛くなるほどの静寂に包まれた邸。いつか千歳が好きだと言ったままの庭。そして、兄の姿をした妖。
「なにか、勘違いをしているようだが」
猫がネズミを嬲るように、男は瞳を細めた。
「なにも、我が取りこんだのは匡一郎の姿だけではないが?」
「あなたに兄上の記憶があろうと、同じことです」
姿と記憶。それが宿る魂。それは、死に行く妹のため、匡一郎が目の前にいる妖に渡したものだ。
「わからぬな。ならば、そなたはあとなにがあれば我が匡一郎であると思える」
「………」
本当にわからないのだろう。尋ねる声に含みはない。
けれど、そういう問題ではないのだ。なにが足りないのでも、欠けているのでもない。彼と匡一郎は、根本的に異なるのだから、二人が同じになることなどあり得ない。
ああ、と千歳はこみ上げるものを堪え唇を噛んだ。どこまでも兄に近く、同時に誰よりも兄とかけ離れた妖。その存在が自身を生かし、代償に兄がいなくなったというのなら。この命はどれほど罪深く、浅ましいのだろう。
「噛むな。傷がつく」
労わるように触れるこの指でさえ、まやかしなのだ。
彼は、ただ待っているだけでよかった。
何百という歳月を生きた大妖である彼の興味を引いたのは、魂の強さに反してそれを宿す肉体がひどく脆弱であったからだ。
大概の人間は、魂と肉体の均衡が崩れればまず一日たりとて生きられはしない。だというのに、彼が見つけた人間は生まれた時から魂と釣り合わぬ体を抱え、五年を超す歳月生き永らえていた。
特にこれと言って特徴のある人間ではなかった。けれど、その魂の在り方だけが奇妙で、暇を持て余していた彼はその人間がどのような終わりを迎えるか、見物することにした。
そうして眺めていれば、いかに妖である彼とはいえその人間に愛着もわく。気まぐれに名前を覚え、なにを好んでいるのかも知った。
歳の離れた兄。体調の良い時だけ開けられる襖から見える庭。兄がくれた手玉。兄の読む物語。それが彼女の世界のすべてで、そこに時折世話係の侍女が訪れる以外、変化に乏しい日々が続く。
まどろみのような時間。その終わりは、彼が彼女に気づいてから十年と少しが過ぎた頃だった。
人間にしても早すぎる生の終わりを受け入れようとしていることは明白で、けれどその傍に、そのことを良しとはせぬだろう人間がいることにも気がついていたから、彼は待った。
遠からず必ず訪れる彼女の死に際に、魂を贄として己を喚ぶ声が聞こえるまで。
極上の人間の魂に引きつけられた雑魚妖怪を消し去り、己しか残らぬようにして。そうして姿を現した彼に、その男は予想と違わぬ取引を持ちかけた。
男が自身の魂を、存在を引き換えに望んだのは、この世でただ一人愛した妹の命。
彼は、男がけして良い人間などではないことを知っていた。両親は愚か、いずれ妻となると定められた許婚も、同じ学び舎を出た友人も、手足となる部下たちも、皆すべて同じように欺き、利用し、捨てることになんの躊躇いもない男なのだと。その同じ心で、何故か妹のことだけは大切に慈しみ、愛情を感じているのだと。そのことだけが、男が持つ人間らしい感情であったから、妹を失えば最早男は人間として生きることさえ出来なくなるであろうことも、容易に想像できた。
叶えてやろう、と彼は言った。その望み、すべて。その代わり。
男が持っていた寿命の分だけ、生き永らえた娘。
男の記憶通りに『兄』として振舞ってやっても、たやすくそれを見抜き、頑なに彼を拒絶する、強情な――だからこそ、なんとしても受け入れさせたくなる。
その一方で、取り込んだ男の記憶は歓喜していた。妖に惑わされず、男を想う姿に満たされながら心を痛めていた。矛盾した、実に人間らしい感情。己の中でせめぎ合うそれらは馴染みのないものだったが、それすらも長すぎる生に飽いた彼には愉快であった。
脆弱で、愚かで、同じだけ賢い人間。これであと少しずるくさえあったなら、これほど傷つかず楽に生きる道もあったろうに。その魂の在り様がこれほど奇異でなければ、己のような妖を引き寄せることもなかっただろうに。
「本当に――強情な娘だ」
あにうえ、と。音もなく紡ぐ唇に指を這わせて、彼は紅い瞳を輝かせた。




