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 高原(プナ)の景色も見納めだ。果てない地平の彼方をぐるりと見渡す。ケチュア族の都は山の中にあるという。向こうへ行ってから暫くはこの開放的な景色を懐かしく恋しく思うだろう。目を閉じればすぐにでも浮かんでくるようにとキヌアは高原(プナ)の風景を瞼の裏に焼き付けようとしていた。

 明日にはいよいよケチュア族の都クスコへ向けて出発する。キヌアに従って行くのは五人の側仕え。その中でクスコでもキヌアの世話をするティッカを残し、ほかの者たちは帰ることになっている。ティッカが居るとはいえ、クスコに着けばまったく新しい生活が待っているのだ。

 ワスランはその生活こそが戦いだと言った。はじめはその言葉の意味するところが分からなかったキヌアだが、ようやくいま彼の言った意味を理解し、それに臨む覚悟を決めたところだ。


(あらが)いはしない! けれど、決して屈しはしない!」


 風に揺れる(イチュ)にか、または上空を飛ぶ鳥にか、草原の向こうでこちらを見つめているビクーニャにか……。いや、誰にでもなく自らに言い聞かせるために、キヌアはその決意を高原(プナ)に向かって叫んだ。



「キヌアさま! こちらにいらしたんですか!」


 丘の向こうからティッカが呼び掛け、慌てて駆けてきた。ティッカは血相を変えてキヌアに走り寄るとその腕を強く掴んだ。


「どうしたの?」


「大変です。兎も角、すぐに戻ってください!」


 そう言ってキヌアの腕を掴んだまま大股で歩き出したティッカの顔は非常に深刻だ。もう一度その理由を訊くのが躊躇われて、キヌアは黙ってティッカに従った。


 部落では、女王の館の門の前に人だかりが出来ていた。ティッカは強引にその集団に割って入っていく。キヌアに気づいた群集は一斉に憐れむような視線を彼女に向けた。ざわざわと騒ぎが起こるが、その音は決してはしゃいでいるわけではないことが分かる。何か悪いことが起こったのだ。キヌアの鼓動が早くなった。


 女王の間は、キリスカチェの主だった者たちが顔を揃え、ものものしい雰囲気だった。ティッカに引かれて部屋の中へと進んでいくと、玉座に座るふたりの女王の前に、ひれ伏すふたりの男が見えた。身なりから、その者たちがキリスカチェ族でないことは分かる。

 そしてふたりの前にはひとつの髑髏(どくろ)が置かれていた。

 地の女王が部屋に入ってきたキヌアに気づき、呼びかけた。


「キヌア、この者たちはコヤ王の使者だ」


 キヌアは急いで玉座の横に行き、正面から改めてふたりの男とその前に置かれた髑髏を見つめた。


「ワスランの進言によってキリスカチェがケチュアとの関係を深めたことを知ったコヤ王は、われらと不可侵条約を結ぶと宣言したそうだ。

 その後ワスランは、フリカの王子を殺害したことに対してその命を以って償った。それにより今回の戦に関する因縁は無いものにしてほしいと言い残して命を絶ったそうだ。

 王はワスランに敬意を示し、その首をキリスカチェに返すよう使者に託したそうだが……。果たしてそれは本当にワスランかどうか……」


 天の女王が鋭い視線でコヤの使者を睨んでいる。その前で使者たちは身を縮こませていた。

 犠牲となった敵方の首を返すということは、その相手を尊重し相手の提示した条件を呑むということだ。しかし、その首を替え玉にして条件を呑んだように見せかけ、欺く場合もあり得る。もしもその画策が暴かれれば、使者の命は無い。ところがこのふたりはコヤの重要職にあるものではなく、コヤが支配した他の部族から王の奴隷として連れてこられた者のようだ。つまり使者が命を奪われようとコヤ王に痛手はないのだ。そのことが余計に天の女王の疑念を強くしていた。

 天の女王は側近に申し付けた。


「急ぎ、大巫女さまをこちらへ。大巫女さまにこの髑髏の魂に呼び掛けていただくのだ」


 それを聞いてキヌアが声を上げた。


「お母さま、それには及びません。私が確かめましょう」


 キヌアはそう言って使者たちに近づき、髑髏の前に膝をついた。死後、丁寧に処理されたのであろう遺骸の表面は、磨かれた石のように艶やかだ。そろそろと手を伸ばし、両掌で髑髏を包んだ。目を閉じ、その手ざわりを感じ取る。それはあの夜、彼女がその両手で何度もなぞったワスランの頬骨に違いなかった。

 そっと目を開けると、キヌアは髑髏に向かって小さく呟いた。


「おかえりなさい。ワスラン」


 最後に優しくいたわるようにその頬を撫でると、立ち上がって女王に告げた。


「これは、ワスランに間違いありません。彼は立派に役目を果たして帰還したのです。コヤとの条約は確かに結ばれたのです」


 キヌアの言葉で表情を弛めた天の女王は、隣の地の女王と目を合わせて深く頷いた。そして安心したようにコヤの使者に声を掛けた。


「コヤの遣いよ。役目、ご苦労であった。同志を連れ帰ってくれたことに感謝する」



 戦いで命を落とした者たちの身体は、キリスカチェの部落の中心にある『(びょう)』に納められる。部落の中心で、生きている者たちの生活を見守り続けるのだ。

 使者たちが帰ったあと、大巫女によって穢れを払われたワスランもその中に納められた。


 ひととおりの儀式が済んだあとも、キヌアはひとりその廟に残っていた。ワスランの髑髏は、彼の妻だといわれる頭蓋と並べて置かれていた。死してようやく妻と寄り添うことが出来たワスランの顔が穏やかに微笑んでいるように見えるのは思い過ごしだろうか。キヌアは、ワスランの頬に片手を添えて言った。


「貴方は最後に私を騙したわ。私のことを、この世で愛するたったひとりの人だなんて。結局貴方はこうして妻の許に行ってしまったんですもの。本当は、貴方は心の奥でずっと妻のところへ帰りたがっていたに違いないわ。

 貴方は、私が本当の恋を知らないと言ったわね。この想いが恋というものでないのなら、本当の恋とはもっと辛く苦しいものなのかしら。それとも、もっと楽しくときめくものなのかしら。新しい生活の中で、私にもその機会が訪れると貴方が言うのなら、その言葉を信じてみるわ。どのような暮らしが待ち受けていようと、夢を抱き続けるわ」


 見つめるワスランの首が少し前に傾いたようにキヌアは感じた。


「これまで、ありがとう。さようなら、ワスラン」


 キヌアはワスランの頬骨を包み込み、広く硬い額に口付けた。




 旅立ちの日は穏やかだった。高原(プナ)の風は優しく吹いていた。空にはいくつもの白く耀く雲が浮かんでいて、これからキヌアが向かおうとする北の方角へゆっくりゆっくりと流れていた。


「キヌアさま、まだお支度をされていなかったんですか!」


 もうすでに、クスコまで付き従う側仕えたちも、二人の女王や見送る部族の者たちも、すっかり準備を整えて館の外で待機しているというのに、中から姿を現したキヌアは、いつもどおりの丈の短い薄い毛皮の服を着て、髪をきつく束ねて高い位置で纏め上げていた。ケチュアの都へ向かうのではなく、戦に向かうような姿だ。

 当然、ケチュアから贈られた裾の長い服を着、髪もケチュア風に下ろして支度を済ませていると思っていたティッカが呆れ顔で言ったのだ。


「いいえ、支度は出来ているわ。私はこのままクスコへ向かうのよ。長い道のりですもの。慣れた服がいちばんよ」


 あっけらかんとしてキヌアは言い放ち、天の女王に問い掛けた。


「お母さま、この姿ではクスコで捕えられて首を刎ねられるのかしら?」


「その様なことは無いが……」


 天の女王も呆れ顔だ。たとえ捕えられないにしても、ケチュアの者たちはさぞかし驚き、奇異な眼で見るだろう。本当にこの娘は皇族の妃となる覚悟があるのかと疑うかもしれない。


「姿かたちは赦されるとしても、夫となる者に逆らうような真似だけはするのではないぞ」


 非常に心配そうな顔で娘を諭す。しかしキヌアはそんな母の心など考えずに明るく言った。


「もちろん、分かっているわ。でもキリスカチェ族の誇りだけは決して失わないわ。どこに暮らそうとも、私はキリスカチェの戦士なの。偉大なカリの娘なの」


 俄かに進路を振り返り、キヌアは颯爽と歩き出す。長い感動的な挨拶を期待して横に控えていたティッカと側仕えたちは、慌てて立ち上がり姫君の後を追いかけた。


 天空にいくつも浮かんだ耀く雲が、まるでキヌアに従うように、彼女と同じ速度で空を滑っていった。

 二度と戻ることのない高原(プナ)の風を背中に感じながら、新しい世界へとキヌアは進んでいった。

                                    


                                  (完)       




**************************************************


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


これは『皇子クシ』のヒロイン、キヌアがクスコに嫁いでくるまでの物語で、『皇子クシ』を完結させてから俄かに思いついて書き始めたものです。

結果、なんとか本編へと繋ぐことが出来たとは思いますが、思いつきで始めてしまったもので、本編との辻褄合わせに四苦八苦していました。


『クシ』は多くの資料を参考にして、なるべく丁寧に考証しながら書き進んでいましたが、この作品はほとんど資料など見ずにあくまでファンタジーとして書きました。


舞台とした高原(プナ)について……。

アンデス山脈は、西アンデス山脈、東アンデス山脈というふたつの山脈から成っていて、その間には標高3000~4000Mの高原=アルティプラーノが拡がっています。もちろん直に見たわけではないのですが、この広大な高原は、まるでほかの惑星にいるのではないかと思われるような不思議な空間です。標高が高いために木もほとんど生えず見渡すかぎり何も無い赤い大地が広がり、空気が薄いために空の色はとても深く……。


不毛の大地で生き抜く勇壮な部族。

野生的で純粋なヒロインが活躍するにはちょうどいいかなと思って設定してみました。


雄大な風景の中に立っているつもりになって、いろいろイメージするのですが、それを読んでくださる方にどう伝えようか、それも非常に苦労した点です。

少しでも伝わってくれたのならうれしいですが。


キヌアのその後は『皇子クシ』に書いたとおり。

実は自分でも書きながら、『クシ』に出てくるキヌアの行動はこんな生い立ちが原因だったのか、などと改めて思ってみたり。

こちらの作品を読んでから『クシ』のキヌアを見ていただくと、彼女の違った一面が見えるかも?しれません。


最後までお付き合いいただいて、ありがとうございました。



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