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キヌアはただじっと時が経つのを待っていた。部落はあまりにも静かで、時の流れが分からない。それはキヌアを限りなく不安にする。
部屋にいることに耐えられなくなり、キヌアは河へ下りていった。河畔に腰を下ろして空を見上げ、雲を観察した。ワスランが彼女の運命を例えた雲は、その日は気持ち良さそうに紺碧の大空に浮かんでいた。風がそれほど無いのだろう。ながされることなくやわらかそうなその形を保ったまま、ただじっと佇んでいた。
高原の風がまったく凪いでいることなど初めてだった。周囲の草も固まってしまったようにじっとしている。河だけが相変わらず休むことなく流れ続けていた。
時が経つのをこれほど長く感じたことはなかった。
日の光が傾き始めたころ、ようやく風が吹き始め、草を揺らし始めた。やがてそれは徐々に強くなっていった。さきほどまでぽつんと浮かんでいた雲はいつのまにか大きく拡がり、空全体を覆っていった。その色は日が傾くに従って不穏な色へと変わっていき、やがて日の光をすべて遮ってしまった。
大地は灰褐色に染まり、強い風が枯れた草を巻き上げて彼方まで浚っていった。風の音に混じって、どこからか、獣の遠吠えが聞こえたように思えた。
日暮れが迫るころ、俄かに部落のほうが賑やかになったように思えて、ようやくキヌアは河畔から腰を上げた。
丘を上って部落に近づくと、戦い終えた戦士たちがぞろぞろと帰ってくるところだった。途端に表情を耀かせて、キヌアは帰還してきた戦士たちが集う場所へと駆け寄った。
誰もが疲れた表情の中にも喜びを滲ませている。それだけでこの戦が勝利に終わったことが分かる。キヌアは戦士たちの間に割って入り、ひとりひとりに労いの言葉を掛けた。
キヌアの姿を目にした途端、疲れた戦士たちの表情がぱっと耀く。そのうちキヌアの周りを取り囲んで思い思いに戦の様子を報告し始めた。
「姫さま! 作戦は大成功ですよ! あの壁を前にコヤの毒矢はまるで歯が立たなかった!」
「キヌアさまのお知恵があってこそ! 敵は毒矢で我らを一網打尽にしようと目論んでいた。それを覆されて大慌てでした」
「あんな姑息な手段でキリスカチェに勝とうとは、浅はかなことよ! これでキリスカチェの恐ろしさを思い知ったことでしょう!」
キヌアを何重にも取り囲んで、戦士たちは誰もが嬉々とした様子で一斉にキヌアに話しかけてきた。あまりの騒ぎにキヌアが声を発しても聞こえない。ともかく戦士たちの笑顔を見れば、とくに問い掛けるまでもない。キヌアは周囲を見回して、戦士たちひとりひとりに笑顔で頷いていった
その後、地の女王と天の女王も帰還してきた。キヌアを取り囲んでいた戦士たちがようやくキヌアを解放し、女王たちに敬意を示して跪いた。そのときになって、ようやくキヌアは女王たちに詳しい戦況を聞くことができた。
「フリカの王子が仕掛けたこの戦は終結した……」
地の女王は他の戦士たちとは違い、複雑な表情をしていた。それにつられてキヌアも神妙な顔になり、女王の言葉の続きを待った。
「フリカの王子は討ち取った。王子が率いた軍も掃討した。これでフリカは、キリスカチェに報復することは容易ではないと思い知ったであろう。王家の生き残りである王子を亡くし、彼らの拠り所は残る王女のみ。しかしキリスカチェと対峙できるほどの戦力は彼らには残っていない。
…………コヤが動かねば、だが」
女王が最後に付け加えた言葉でキヌアははっと顔を上げた。そしてふたりの女王をゆっくりと交互に見てから、覚悟を決めた表情になって言った。
「ここから先は私の務めなのですね。ケチュアという後ろ盾を得てキリスカチェを護るために、私はケチュア族の都クスコへ行くのですね。私の大切なこの一族を護るのだと思えば、私はこの使命を受けることにもう抵抗は感じません。覚悟は出来ています」
キヌアはようやく女王たちの前で決意を語った。逃げられない運命だとは知っていても、彼女が心から承諾したのは初めてだ。それを聞いて女王たちは揃って安堵の溜め息を吐いた。
勝利に浮かれていた周囲の者たちは、鎮痛な面持ちになった。部族の危機を救うためとはいえ、彼らの希望であった若い王女を失うことは辛い。皆一様に押し黙って下を向いた。
「ところで、ワスランはどうしたのですか? 私の代わりを立派に果たしてくれたのです。彼にも労いの言葉を……」
出陣前にふたりの間にあったことを悟られないように、キヌアは淡々と訊いた。
しかし、女王たちは険しい表情になり、キヌアの問い掛けにすぐには答えなかった。しばらくキヌアを見つめていた天の女王は、やっとのことで重たい口を開いたという風に話し始めた。
「……ワスランはフリカの王子の首を持ってコヤへ向かった。コヤが援軍を寄越す前にキリスカチェの勝利を伝え、ケチュアと同盟を結んだことを報せるために。ほかにも何人かの者を従わせようとしたのだが、それではわれわれが攻めてきたものと誤解され、攻撃される可能性があるからと、ひとりで向かったのだ。
おそらくワスランは、はじめからそうするつもりだったのだろう。捨て身でコヤを説得する覚悟なのだ」
―― 潔く、敵に首を捕らせてこい、ワスラン ――
キヌアは顔を伏せ、自分の叫んだ言葉を何度も頭の中で反芻した。あのときの言葉が彼を追い詰めたのか。いや、ワスランの性格を考えれば、キヌアに言われるまでもなく決意していたことなのだ。それを知らずにキヌアは彼の決意を後押しするような言葉を投げ掛けたのだ。
「……わかりました。ワスランの決死の行動を無駄にはしません」
顔を伏せたまま、女王たちに軽く頭を下げ、キヌアは踵を返して走り出した。そして再び河畔へとやってきた。
突然激しいスコールが降り立ち、川面を白く泡立てた。
水面を叩く激しい雨音の中でキヌアは叫び声を上げた。涙は雨粒と一緒に流れ落ちて、キヌアの頬や首筋を濡らしていった。




