解放区
中央区の会館へ出向くのは午後八時。セーフハウスを出たのは、夜六時を少し過ぎた頃だった。
車を呼べば十五分で着く。ルヴィリアは、歩くことにした。
裏路地を抜けると、光が押し寄せてくる。
縦に長い看板が、ビルの壁面を上から下まで埋め尽くしていた。赤、桃色、朱。どれも辰砂の光だ。精製の度合いと混ぜ物で色味は変わるが、根にあるのは同じ赤い脈動で、それが街中の管と配線を通って、夜を内側から照らしている。
歩道の脇では、半透明の案内表示が宙に浮かび、通行人の歩みに合わせて文字を流していた。すれ違いざま、表示がルヴィリアの識別信号を拾い、一瞬だけ青く明滅する。《メビウス・テック所属機体》。それだけ告げて、次の通行人へ移っていった。
誰も振り返らない。
コートの裾が、ビル風に煽られて大きく翻る。肩に掛けた小銃の重さは、この街では目立つはずのものだった。だが、この区画の人々にとって、武装したアンドロイドは信号機と同じ程度の風景でしかない。
*
二十年前、ここはこんな街ではなかった。
辰砂の光は、もっと少なかった。あるにはあったが、それは街を照らすためのものではなく、前線へ送るためのものだった。
精製された辰砂は夜のうちに輸送列車で運び出され、街に残るのは搾りかすのような鈍い灯りだけ。窓のほとんどは、灯火管制で黒く塗られていた。
今は違う。光は余っている。
余った光が、看板になり、案内表示になり、誰も見ていない広告になって、街路に溢れ出している。
交差点の角で、屋台が湯気を上げていた。
串焼きの匂いと、合成油の焦げる匂い。その前で、十代半ばくらいの子どもが三人、端末を覗き込みながら笑っている。
大戦が終わったのは二十年前だ。あの子たちは、灯火管制を知らない。
ルヴィリアは、それを悪いことだとは思わなかった。
歩きながら、ふと、視線の高さがずれる。
昔の身体は、もう少し目線が高かった。人混みの中でも頭一つ抜けて、前方の状況が見えた。今の身体では、人の肩越しに看板を見上げることになる。二十年経っても、この感覚だけは慣れない。
左足が、半歩引かれていた。
立ち止まって周囲を見る時の癖だ。射線を確保するための、前線で染みついた構え。この街に射線を気にする理由はない。分かっていても、身体が勝手に位置を取る。
ルヴィリアは足を戻し、また歩き出した。
大通りの突き当たりから、中央辰砂特区の塔群が見え始める。
メビウス・テックの本社は、その中でもひときわ高い。
外壁を這う辰砂の光が、脈打つように上へ上へと流れていく。
二十年前、この場所には何もなかった。瓦礫と、焼けた鉄骨と、仮設の指揮所があっただけだ。
その指揮所のことを、ルヴィリアは覚えている。覚えていることになっている。
記録と記憶のどちらなのか、今の彼女には区別がつかない。区別をつける必要もない、と決めている。
あの頃、戦闘区という言葉はなかった。
解放区という言葉もなかった。
街の全部が戦場で、戦場の全部が街だった。
どこからどこまでが安全かという線は、誰にも引けなかった。
朝に確保した通りが、夜には敵の制御下にある。自分の持ち場の地図を握りしめて、その範囲だけを信じて動いた。
今は線がある。
境界区の先に検問所があり、その先が戦闘区で、こちら側が解放区だ。線の内側では、子どもが串焼きを食べ、看板が誰にも見られないまま光り続けている。線の外側では、二十年前の命令が、まだ応答を待っている。
線を引けたことは、復興の成果なのだろう。
そして線を引いたということは、向こう側を切り離したということでもある。
ルヴィリアは、それを悪いことだとも、良いことだとも決めなかった。ただ、線のこちら側を歩いていた。
端末が短く鳴った。
『指揮官、アイシアです。到着予定時刻が表示されていませんが、車輌は手配しなくてよろしいですか』
「歩いている」
『……歩いて、ですか』
「時間には間に合う」
『了解しました。お気をつけて』
少し間があって、もう一行だけ届いた。
『街は、きれいですか』
ルヴィリアは顔を上げた。赤い看板と、青い案内表示と、その隙間の夜空。
「明るすぎる」
そう返してから、少しだけ付け足した。
「悪くはない」
通信を切り、彼女は会館へ向かって、光の中をまた歩き始めた。




