誘導灯
最初に来たのは、音だった。
地の底から突き上げるような、低い唸り。
店の棚が一斉に鳴り、ジャンクの部品が床に雨のように降った。作業台の上のディヤウスが、台ごと横に滑った。
ルヴィリアは、それを片手で押さえた。
揺れは、長かった。
二十秒。三十秒。古い鉄骨の軋む音が、店の外から、路地の向こうから、旧仙京の屋根の連なりから、いくつも重なって聞こえてきた。
揺れが収まった瞬間、灯りが消えた。
*
店の照明が消えた。
路地の外灯が消えた。
新都の大通りの辰砂の電飾が、端から順に、波が引くように消えていった。
窓の外が、真っ暗になった。
普段ならネオンに照らされている新都の夜が、暗い。
ルヴィリアは、その光景を、しばらく見ていた。
二年近くこの街にいて、一度も見たことのない暗さだった。
「……全員、無事か」
「無事です」アイシアの声が、暗がりの中で答えた。「同期、全機確認。損傷なし」
「ボス、配電が全部落ちてる」チルダが、懐中灯を点けた。床に散らばった部品の上に、白い光の輪が落ちる。「西地区の変電所、たぶんやられた。あと、旧仙京の方角、何か燃えてる匂いがする」
コラプスが、二階の階段の途中で、鼻先を上げていた。
「……燃えてる。木と、油。それと、ナノエーテルの配管が、どこかで割れてる。赤銀の匂い」
クローザーが、窓辺に立っていた。
「火元、三か所。旧仙京の東側に二つ。境目の路地に一つ。……風が、こっちに向いてる」
そのとき、街の底から、光が湧き上がった。
路面だった。
新都の大通りの、石畳の継ぎ目の一つ一つから、シアンの光が滲み出してきた。
光は線になり、線は矢印になった。
大通りの路面に、巨大な光の矢印が、いくつも浮かび上がった。
非常用電源で起動した、メビウスの避難誘導AI。
矢印は、路地へ、角へ、交差点へと伸びていった。どれも同じ方角を指していた。新都の中央、高台の避難区画へ。
旧仙京の路地から、人が出てきた。
最初は数人。それから数十人。
寝間着のまま、子供を抱いて、老人の手を引いて。暗がりの中で、足元の光の矢印だけを見て、人々は歩き出した。
矢印は、一定の間隔で脈打っていた。進め、と言うように。こちらだ、と言うように。
ルヴィリアは、店の扉の前に立って、それを見ていた。
光の矢印に沿って、人の流れが、暗い街を一本の川のように流れていく。
ルヴィリアは、その光景を、知っていた。
二十年前。元・第十九採掘区、現在は第十九戦闘区。撤退戦の夜。
あの夜も、暗かった。
前線の照明はすべて落とされ、敵に位置を悟られないよう、明かりは一つもなかった。
ただ、足元に、等間隔で、小さな誘導灯が置かれていた。退路を示す、低く絞った光。
兵たちは、その光だけを見て歩いた。負傷兵を担ぎ、肩を貸し、振り返らずに。一列になって、暗い谷を、光の点から光の点へ。
最後尾に、殿がいた。
誘導灯を一つずつ消しながら、追ってくる敵を食い止める役。退路を示した光を、自分の後ろで消していく役。
あの夜、殿を引き受けたのは、ルヴィンの上官だった。
ルヴィンは、負傷兵を連れて、前を歩いた。誘導灯を追って。振り返るなと言われて、振り返らなかった。
上官は、帰ってこなかった。
「……指揮官」
アイシアの声で、ルヴィリアは我に返った。
「避難誘導AIと、同期が取れました」アイシアは、暗がりの中で端末を開いていた。画面の光が、彼女の顔を下から照らしている。「メビウスの制御AIを基底にしているので、私たちのリンクから接続できます。西地区の避難経路、全部見えます」
「状況は」
「住民の約七割が、すでに矢印に沿って移動を開始しています。ただ」
アイシアの声が、少しだけ硬くなった。
「旧仙京の東側、乾物屋の通りの先。矢印が、崩れた路地を指しています」
ルヴィリアは、アイシアの端末を覗き込んだ。
避難経路の地図。旧仙京の細い路地を抜けて、新都の大通りへ出る、一番近い道。
その道の上に、シアンの矢印が、変わらず脈打っていた。
「その路地は」
「さっきの揺れで、両側の家の壁が倒れています。でも、誘導AIの地図は、揺れの前の状態のままです。路地の監視機が、停電で止まっていて、崩れたことを知りません」
ルヴィリアは、窓の外を見た。
旧仙京の方角。火の手が、低い屋根の向こうに赤く見えていた。
その手前の暗がりから、矢印を信じた人々が、崩れた路地の方へ、歩いていく。
古い地図だった。
揺れの前の、安全だった頃の地図。誰も見張っていない、更新されない地図。
戦時中の地図と、同じだった。
「アイシア。矢印の向きを変えられるか」
「変えられます。誘導AIの経路を、こちらから上書きします。ただ、迂回路を計算するのに、少し時間が」
「クローザー」
「計算する」クローザーが、すでに端末を開いていた。
「迂回路、二本。乾物屋の裏手から、仕立て屋の物干し場を抜けて、境目の路地へ。……コラプス、仕立て屋の裏、匂う?」
「燃えてない」コラプスが、窓から身を乗り出して、鼻を鳴らした。「でも、境目の路地の手前、ナノエーテルの配管が割れてる。漏れてる。火が来たら、ボカン」
「チルダ」
「配管、閉めてくる」チルダが、工具袋を肩にかけた。「元栓、乾物屋の向かいの電柱の下でしょ。知ってる」
ルヴィリアは、全員を見た。
「アイシアは、矢印を書き換えろ。クローザーは、迂回路の瓦礫をどけろ。コラプスは、チルダと一緒に配管へ。漏れの場所を嗅げ」
「ボスは」チルダが訊いた。
ルヴィリアは、店の扉を開けた。
「私は、最後尾に立つ」
*
旧仙京の路地は、暗く、煙っていた。
ルヴィリアは、人の流れに逆らって、路地の奥へ歩いた。
肩に、ディヤウスはなかった。撃つ相手は、どこにもいない。
崩れた路地の手前で、足を止めた。
矢印が、そこで書き換わった。
崩れた路地を指していたシアンの矢印が、一度、消えた。それから、新しい矢印が、乾物屋の裏手へ向かって、点灯した。色が違った。シアンではなく、マゼンタ。急げ、という色だった。
『経路、書き換えました』アイシアの声が、リンク越しに届いた。『迂回路へ誘導を開始。……ただ、すでに崩れた路地に入りかけている方が、数名』
ルヴィリアは、崩れた路地の入口を見た。
暗がりの中、倒れた壁の前で、三人の家族が立ち往生していた。父親と、母親と、小さな男の子。父親が、瓦礫を前に、途方に暮れたように立ち尽くしている。足元では、さっきまで彼らを導いていた矢印が、消えていた。
ルヴィリアは、そこへ歩いていった。
「こちらだ」
父親が、振り向いた。暗がりの中、白い戦闘服と、ライトグリーンの髪が、新しいマゼンタの矢印の光に照らされていた。
「……メビウスの」
「そうだ。この先は塞がっている。裏手へ回れ。光が、新しい道を示している」
父親は、足元の矢印を見た。マゼンタの光が、乾物屋の裏手へ伸びていた。
「急げ。振り返るな」
家族は、矢印の方へ走り出した。男の子が、母親に手を引かれながら、一度だけ振り返った。ルヴィリアを見て、何か言いかけた。
「振り返るな」ルヴィリアは、もう一度言った。「前だけを見ろ。光を追え」
男の子は、前を向いた。
ルヴィリアは、迂回路の入口に立ち続けた。
矢印に従って流れていく人の列を、一人ずつ見送った。遅れている者には、声をかけた。道を間違えかけた者の肩を、そっと押した。
人の流れの最後尾に、ルヴィリアはいた。
殿だった。
二十年前の夜、自分がいたのは、列の前だった。
負傷兵を担いで、誘導灯を追って、振り返らずに歩いた。最後尾には、上官がいた。
今夜は、自分が最後尾にいる。
光の矢印は、自分の前で脈打っている。その光を追って、人々が去っていく。自分の後ろには、もう誰もいない。
『ボス、配管止めたよ。もうボヤもそこまで進行しないはず』
『チルダと一緒に、避難者がいないか見たら合流するね』
『瓦礫、どかした』クローザーの声。『迂回路、全部通れる』
「残っている者は」
『……確認中です』
ジャンク屋が私用で用いているリストから、アイシアが人物を提示してくる。
最後の一人は、乾物屋の老人だった。
店の前で、ラジオを抱えたまま、動かずにいた。チルダが脱磁した、あのラジオ。停電で、もう鳴っていなかった。
「……店を、置いていけなくてね」
老人は、暗い店の中を見ていた。
「親父の代から、ここにある店だ。大戦も、ここで越えた。焼けたら、それっきりだ」
ルヴィリアは、老人の隣に立った。
「火は、止まった」
「そうかい」
「店は、焼けない。チルダが、配管を閉めた」
老人は、少しだけ顔を上げた。
「……チルダちゃんが」
「だから、来い。朝になったら、戻ってこられる」
老人は、しばらく店を見ていた。それから、ラジオを抱え直して、ゆっくりと立ち上がった。
「あんた、前にもこういうこと、したことがあるのかい」
ルヴィリアは、少しだけ黙った。
「……昔に」
「そうかい」
老人は、マゼンタの矢印の方へ、一歩ずつ歩き出した。ルヴィリアは、その後ろについた。
最後尾に。
*
避難区画に着いたのは、夜明け前だった。
新都仙京、西地区の高台。メビウスが災害時のために整えた講堂。
毛布と、非常食と、温かい湯。人々は身を寄せ合い、誰かのラジオから、非常放送が小さく流れていた。
光の矢印は、すべて、この講堂を指して止まっていた。
ルヴィリアは、避難区画の端に立って、振り返った。
西地区の方角。旧仙京の屋根の向こうで、火はもう消えていた。まだ電気の戻らない暗い街の中に、光の矢印だけが、シアンとマゼンタで、いくつも浮かんでいた。人の流れの消えた道に、退路を示す光だけが、律儀に残っていた。
二十年前の夜、あの谷に残っていた誘導灯も、こう見えたのだろうか。
上官は、殿として、最後に、この光を見たのだろうか。
「……ルヴィリア」
アイシアが、隣に来ていた。非番ではない。任務の最中だった。それでも、呼び方は、名前だった。
「全員、避難区画に到着しました。負傷者は軽傷のみ。死者は、いません」
「そうか」
「誘導AIの矢印、まもなく消灯します。非常用電源の残量が、限界です」
ルヴィリアは、遠くの矢印を見ていた。
それから、ほとんど聞き取れないほどの声で、呟いた。
「……全員、灯りのある方へ、帰れ」
アイシアの身体が、ほんのわずかに、固まった。
その言葉を、アイシアは知っていた。旧市場通りの音盤屋で、雑音の向こうから聞いた、低くかすれた声。
「……指揮官」
「なんだ」
アイシアは、何かを言いかけて、やめた。
代わりに、小さく言った。
「全員、帰りました」
ルヴィリアは、少しだけ、黙った。
「……そうだな」
遠くで、光の矢印が、一つずつ消えていった。端から順に、静かに、役目を終えたように。
最後の一つが消えたとき、東の空が、白み始めていた。
*
朝、チルダとコラプスとクローザーが、煤だらけになって避難区画に上がってきた。
「ボス、店、無事だった」チルダが、煤のついた顔で笑った。「棚は全部ひっくり返ってるけど。片付け、手伝ってね」
「ああ」
「乾物屋のおじいちゃんの店も、無事。ラジオ、また脱磁しなきゃだけど」
「ああ」
コラプスが、ルヴィリアの顔を覗き込んだ。鼻先を、すん、と鳴らす。
「……ルヴィリア、煙の匂い。と、なんか、古い匂い」
「古い?」
「二十年くらい前の。銃の手入れのときと、同じ匂い」
ルヴィリアは、答えなかった。
クローザーが、端末に何かを打ち込んでいた。
「記録。災害の夜。ボスが、最後尾にいた」
「記録するようなことか」
「する。ボスは、避難者の殿をやった」
ルヴィリアは、クローザーを見た。それから、遠くの、もう光の消えた西地区の街並みを見た。
「……殿は、帰ってこない役だ」
「ボスは、帰ってきた」
クローザーは、端末から顔を上げずに言った。
「だから、殿じゃない。最後尾」
ルヴィリアは、しばらく、何も言わなかった。
それから、近くの手すりを、指先で二回、軽く叩いた。
とん、とん。
朝の光の中で、西地区の電気が、一つずつ、戻り始めていた。




