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終わった大戦の、終わらせ方 〜TSおじさんは機械の身体で戦後の世界を謳歌する〜  作者: 兼沢ほろろ


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五機目

 

 戦闘区・第十伍区画の外れ、崩れた四機の送電塔の並ぶ谷で、Dollsは三度目の足止めを食っていた。

 近づけるギリギリまで、戦闘車輛で足を運んでいたのだが……。


「……また、です」


 アイシアの声が、リンク越しに硬かった。


「前方の瓦礫。磁場が急上昇。何かが、目覚めようとしています」


 谷の両脇に、大戦期の装甲車輌の残骸が、折り重なって埋もれていた。

 辰砂由来の赤錆に覆われ、半ば地面と一体になっている。外から見れば、ただの鉄屑の山だ。


 その山の一つから、乾いた破裂音が三つ、続けざまに鳴った。


 弾が、隊列の先の地面を抉った。


「伏せろっ」


 ルヴィリアが言うより早く、三機は瓦礫の陰に身を沈めていた。


 撃ってきたのは、敵ではなかった。

 誰も乗っていない、誰も触れていない、二十年前の残骸だった。

 辰砂に食われ、磁化した撃鉄が、通りかかった機体の重みと振動に、勝手に反応した。


 辰砂やジャンクを回収する専門の業者たちは、これを「鬼火」と呼んでいる。

 チルダの店に持ち込みに来る業者から、何度か聞いていた言葉だった。


「撃ち抜く」瓦礫越しから、クローザーがダイダラを構えた。


「待て」


「一発で抜ける。機関部の位置、読めた」


「抜けば、隣が起きる」


 クローザーの指が、引き金の手前で止まった。


 谷の両脇に、同じような残骸が、何十台も並んでいる。

 一台を撃ち抜けば、その振動と金属の揺れが、隣の磁化した鉄に伝わる。隣が起きる。その隣も。


「……連鎖」


「一度、見ただろう」


 先月、第九区画の外れで、クローザーが一台を撃ち抜いた。

 その一発で、周囲の七台が一斉に撃発した。

 チルダの外套の裾が裂け、アイシアの計測器が一つ、壊れた。


 ルヴィリアは、自分の肩のディヤウスを見た。


 実弾とEMP誘導弾を撃ち分けられる、雷神の名の一丁。電子系の敵なら、EMPで止められる。


 だが、鬼火は電子ではなかった。


「ボス、EMPは」チルダが、瓦礫の陰から小声で言った。


「撃てん」


「だよね」


「鬼火の撃鉄は、鉄そのものが磁石になって動いている。EMPの磁場の揺れを浴びせれば、止まるどころか、谷じゅうの残骸が一斉に起きる。私の弾丸が、起爆剤になる」


 ルヴィリアは、ディヤウスの安全装置を、指で確かめた。


 撃てる銃を持ちながら、撃てない。


 二十年前の戦場でも、そういう場面はあった。

 だが、今は、敵すらいない。ただ、捨てられた鉄が、近づく者を拒んでいるだけだった。


「……撤収する」


「また?」チルダが言った。


「また、だ。迂回路を探す」


 四機は、谷に背を向けた。


 背後で、鬼火の残骸が、かすかに軋んでいた。



 その週の終わり、ルヴィリアは本社に呼ばれた。


 戦術対策部門統括局長室。蘇芳が、機械の指で報告書をめくっていた。


「第十伍区画、三度目の撤収か」


「はい」


「理由は、鬼火」


「はい。業者の言葉ですが、他に呼びようがありません」


 蘇芳は、報告書を閉じた。


「それで、何が要る」


「目です」ルヴィリアは言った。

「どこに鬼火が潜んでいるか、踏み込む前に分かる目。計測器では、近づかないと数値が出ません。近づいた時点で、起きる」


「目、か」


「クローザーの地図は、侵食の規則から推定できます。ですが、どの鉄屑が、今、起きかけているか、までは分かりません。アイシアの計測も、同じです。チルダは、鉄の癖は読めますが、遠くからは無理です」


「お前は」


「私は、この頭の中の二十年前の地図しか持っていません」

 ルヴィリアが、前頭葉を二回指で弾く。

 蘇芳は、少しだけ口元を緩めた。


「正直だな」


「嘘をついても、谷は抜けられません」


 蘇芳は、しばらく黙っていた。それから、机の引き出しを開け、薄い書類を一枚取り出した。


「……ルヴィ。珍しいことが起きた」


「何がですか」


「お前の悩みと、本社の悩みが、一致した」


 蘇芳は、書類をルヴィリアの前に置いた。


『試験機 collapse-05(通称:コラプス) の配属先について』


「資源試験部が、持て余している機体がある」蘇芳は言った。

「辰砂による磁性付与の限界を測るためのType-LI型の試験機だ。生の辰砂――粉末状の辰砂を、出力に変えられるように調整されている」


「生の、辰砂を」


「普通の機体なら、砂鉄を飲むのと同じだ。だが、こいつは飲める。飲んで、動く。……代わりに、手がつけられん」


 蘇芳は、書類の二枚目をめくった。

 試験記録の抜粋。数字の羅列の間に、短い記述がいくつも並んでいた。


 《人格制御、逸脱。コアデータより復帰》 《試験室の計測機器、磁化により三台損壊》 《人格制御、逸脱。コアデータより復帰》 《担当技術者一名、軽傷。本機に悪意なし》 《人格制御、逸脱。コアデータより復帰》


「この三か月で、二十八回、人格制御が飛んでいる」蘇芳が言った。「本人は、『向こう側に行ってきた』と言うそうだ。毎回、戻ってくる。戻ってくるが、そのたびに再起動の診断と、壊れた機器の始末書だ。試験部の連中は、もう、アイツの面倒を見たがらん」


「本社の悩み、というのは」


「どこかに、押し付け……面倒を見させたい。だが、生の辰砂を食う機体を、普通の部隊には置けん。都市の警備隊に回せば、街中で向こう側へ行く」


 蘇芳は、ルヴィリアを見た。


「で、試験部の報告書の、ここだ」


 指が、記録の一行を差した。


 《本機は、辰砂の濃度に対して異常な感受性を示す。試験室外の辰砂貯蔵庫の位置を、壁越しに、匂いで言い当てた》


 ルヴィリアは、その一行を、二度読んだ。


「……匂いで」


「生の辰砂の匂いが、分かるらしい。濃いところ、溜まっているところ。……鉄が辰砂に食われて、磁化しているところも、おそらくな」


 ルヴィリアは、顔を上げた。

 蘇芳は、椅子の背にもたれていた。


「お前は、鬼火を見つける目と鼻が欲しい。本社は、辰砂中毒の試験機を、誰かに預けたい。……こんなことは、そうそうあるもんじゃない」


「珍しい、と」


「珍しい。大抵、本社の都合と現場の都合は、逆を向いている。今回だけは、同じ方を向いた」


 蘇芳は、少しだけ笑った。


「気味が悪いくらいにな」


*


 資源試験部の試験室は、本社の地下第十伍層にあった。


 ルヴィリアは、チルダを連れて降りた。生の辰砂を扱うなら、工兵の目が要る。


 試験室の扉を開けた瞬間、チルダが顔をしかめた。


「……うわ。磁場、すご」


 部屋中の金属が、少しずつ同じ方向に傾いていた。計測器の針、工具棚の扉、天井から下がった配線。全部が、部屋の中央に向かって、わずかに引かれている。


 その中央に、一機の機体が、床に座り込んでいた。


 長い銀色の髪。頭に、角のように突き出たアンテナ状の装備。紺のボディスーツに、マゼンタの発光線。


 瞳が、マゼンタに光っていた。口元が、大きく吊り上がっている。


「……だぁれ?」


 間延びした声だった。


 床の上に、空になった薄紙の包みが、三つ、散らばっていた。


 試験室の隅で、白衣の技術者が二人、計測器を抱えて縮こまっていた。


「今日は、三包目です」技術者の一人が、疲れた声で言った。「出力のデータを、上限まで取る予定で」


 チルダが、技術者を見た。笑顔だった。だが、目は笑っていなかった。


「……三包、一度に?」


「はい。試験計画どおりです」


「この子の喉、見たことある?」


「喉、ですか」


「未加工の辰砂は、金属を食うの。この子の中、毎回、削れてるよ。三包も入れたら」


 技術者は、困ったように顔を見合わせた。


「……出力データには、影響ありませんので」


 チルダは、何も言わなかった。ただ、作業着のポケットの中で、拳を握ったのが、ルヴィリアには分かった。


*


 ルヴィリアは、床に座り込んだ機体の前に、膝をついた。


「collapse-05」


「コラプスって、呼んで」マゼンタの瞳が、ルヴィリアを見上げた。「識別名、長いもん」


「コラプス」


「なぁに」


「私は、ルヴィリア。戦術対策部門の、特命部隊の指揮官だ」


「ルヴィリア」コラプスは、名前を舌の上で転がすように繰り返した。それから、鼻先を、すん、と鳴らした。


「……ルヴィリア、古い鉄の匂いがする。二十年くらい前の」


 ルヴィリアは、表情を変えなかった。


「銃の手入れをしてきた」


「そっか。ふぅん」コラプスは、今度はチルダの方を向いて、また鼻を鳴らした。「そっちのお姉さん、錆と、油と……ジャンクの匂い。いろんな鉄の匂い。いっぱい混ざってる」


「ジャンク屋だからね」チルダが言った。


「ジャンク屋さん? 行ってみたい。いろんな匂い、しそう」


 ルヴィリアは、試験室の壁を見た。それから、コラプスに訊いた。


「この壁の向こうに、何がある」


 コラプスは、首を傾げた。それから、目を閉じて、鼻先を壁の方へ向けた。


 数秒。


「……生の辰砂。たくさん。左の奥。棚の三段目に、一番濃いの。それと、右の奥に、磁石になりかけた鉄の箱。中で、何かが、ゆっくり動いてる」


 技術者の一人が、息を呑んだ。


「右の奥……廃棄予定の、試験用の旧式銃の保管箱です。先週、戦闘区から回収したものを」


「磁化してるよ」コラプスは、目を閉じたまま言った。「寝返りを打ってる。触ったら、撃つかも」


 試験室が、静まり返った。


 チルダが、ルヴィリアを見た。ルヴィリアは、まだコラプスを見ていた。


 鬼火を、壁越しに嗅ぎ当てた。


 蘇芳の言った通りだった。


*


 配属の手続きは、三日で済んだ。


 資源試験部は、驚くほど早く書類を回してきた。

 引き取り手が見つかったことを、明らかに喜んでいた。


 ただ、一つだけ、書類に抜けている項目があった。


「……燃料は?」


 本社の通用口で、チルダが試験部の担当者に訊いた。


「燃料、ですか」


「生の辰砂。この子の。誰が出すの」


 担当者は、書類をめくった。めくって、もう一度めくった。


「……試験部の予算は、試験期間中のものでして。配属後は、配属先の部隊で、と」


「部隊の予算に、生の辰砂の項目なんてないよ」


「では、その、各自で」


 チルダは、担当者をじっと見た。担当者は、目をそらした。


「……分かった」チルダは言った。「あたしが仕入れる」


「よろしいのですか」


「よろしくないけど、誰もやらないなら、あたしがやる」


 担当者は、ほっとしたように頭を下げて、通用口の奥へ戻っていった。


 チルダは、その背中を見送ってから、長く息を吐いた。


「……裏の伝手、当たらなきゃ」


「すまん」ルヴィリアが言った。


「ボスのせいじゃないよ。本社のせい」チルダは言った。

「試験機の燃料を、試験してた部署が投げるって、どういうことなの」


「本社は、そういうものだ」


「知ってるけどさ」


*


 コラプスは、店に来た初日に、店の中を一周、嗅いで回った。


 ジャンクの棚。作業台。カウンター。階段の下。


「いろんな匂い……すごぉい……」


 そして、店の奥の、「非売品」の札が下がった古い棚の前で、少しだけ足を止めた。


 鼻先を、すん、と鳴らす。


 チルダの手が、カウンターの上で止まった。ルヴィリアは、作業台の前で、ディヤウスの手入れを続けていた。手は、止めなかった。


「……ここ、古い匂い」コラプスが言った。「でも、静か。寝てる。全然、動いてない」


「古いジャンクだからね」チルダが言った。声は、いつも通りだった。


「ふ~ん」


 コラプスは、それ以上は興味を示さず、次の棚へ移っていった。


 チルダは、ルヴィリアの方を見なかった。ルヴィリアも、チルダの方を見なかった。


 ただ、二機とも、それぞれの手の中のものを、少しだけ強く握っていた。


*


 その夜、チルダは作業台の上に、小さな天秤を置いた。


 裏の伝手で、急ぎで手に入れた生の辰砂。純度は、試験部が使っていたものより、ずっと低い。


 天秤の皿に、粉を少しずつ落としていく。


「一包」


 チルダは、天秤の皿の粉を、薄紙に包んだ。


「これが、あんたの一日分。任務がある日は、出発前に一包だけ」


 コラプスは、カウンターに頬杖をついて、それを見ていた。瞳は、シアンに戻っていた。試験室を出てから、まだ一包も口にしていなかった。


「……一包だけ?」


「一包だけ」


「試験室では、三包くれたよ」


「試験室は、あんたからデータが欲しかったの」チルダは言った。「あたしは、あんたに、帰ってきてほしいの。任務の途中で向こう側に飛ばれたら、全員帰れない」


 コラプスは、少しだけ黙った。


「……向こう側に行っても、戻ってこれるよ。コアデータから」


「知ってる。でも、戻ってくるのは、本社の診断室でしょ。戦闘区の真ん中で飛んだら、あんたを担いで帰るのは、あたしたちなの」


「あ、そっか」


「それに」


 チルダは、包みをコラプスの前に置いた。


「喉、削れるの、嫌でしょ」


 コラプスは、包みを見下ろした。それから、自分の喉に、そっと手を当てた。


「……試験室の人は、喉のこと、訊かなかった」


「訊かないよ、あの人たちは。数字しか見てないから」


 コラプスは、しばらく包みを見ていた。


「ケチぃ」


「ケチじゃない」


「でも、ちょっと、嬉しい」


 チルダは、目を瞬いた。


「……なんで」


「わたしの喉のこと、気にしてくれたの、チルダが初めて」


 チルダは、何かを言いかけて、口を閉じた。それから、乱暴に天秤を片付け始めた。


「……一包だけだからね」


「うん」


*


 一週間後。


 Dollsは、第十伍区画の谷へ戻ってきた。三度撤収した、あの谷。


 先頭に、コラプスがいた。出発前に、一包。瞳が、マゼンタに染まっている。


「……匂う」


 谷の入口で、コラプスが立ち止まった。鼻先を上げ、風を嗅ぐ。


「いっぱい、いる。左に七つ。右に九つ。奥に、もっと」


 クローザーが、端末から印刷した、紙の地図を開いた。

 端末では、辰砂由来の磁場には近づける事ができない。 


「位置、言って」


「左、手前から。ちょっと先の、ひしゃげた車。あれ、寝てる。その奥の、横倒しのやつ。起きかけてる。……その隣、寝てる」


 コラプスが一つずつ言うたびに、クローザーが地図に印を打っていく。寝ているものに青、起きかけているものに赤。


 アイシアが、計測器を谷へ向けた。


「……ここからでは、まだ数値が出ません。磁場は、平均的です」


「でも、匂うもん」


「根拠が、匂い」クローザーが言った。


「根拠が、匂い」コラプスは、楽しそうに繰り返した。


 ルヴィリアは、クローザーの地図を見た。

 赤い印と青い印が、谷の中に散らばっている。その間を、縫うように通れる細い道が、一本だけ浮かび上がっていた。


「……この線で行く」


「計算上、赤の射線を全部外れてる」クローザーが言った。

「青の近くは通るけど、寝てるなら、起きない。……コラプスの鼻が、正しければ」


「正しいよぉ」


「試す」ルヴィリアは言った。「コラプスが先頭。私が二番目。全員、コラプスの足跡を踏め。一歩も外すな」


*


 谷の中を、五機は一列になって進んだ。


 コラプスは、ふらふらと歩いているように見えた。

 鼻先を左右に振り、時々立ち止まり、時々、急に向きを変える。

 だが、その足跡は、クローザーの地図の細い線の上を、一度も外れなかった。


「……ここ、ちょっと、右」


「止まって。……今、左の子が、寝返り打った。三つ数えて」


「いいよ」


 一度だけ、コラプスの足が、赤い印の方へ向きかけた。


 谷の中ほど、横倒しになった大型の補給車輌。その残骸の奥から、ひときわ濃い匂いが漂っていた。


「……いい匂い」


 コラプスの瞳が、強く光った。足が、そちらへ一歩、出かけた。


「コラプス」


 ルヴィリアが、すぐ後ろから、彼女の肩に手を置いた。


「……あ」


「そっちは、赤だ」


 コラプスは、しばらく、残骸の奥を見ていた。それから、ゆっくりと、元の線へ足を戻した。


「……降りたら、帰ってこれないもんね」


「そうだ」


「戻ってこれるけど、面倒だもんね」


「そうだ」


「えへ」


*


 谷を抜けたのは、進入から一時間半後だった。


 一発も、撃たれなかった。一発も、撃たなかった。


 谷の出口で、アイシアが振り返った。


「……全機、損傷なし。鬼火の撃発、ゼロです」


 チルダが、長く息を吐いた。


「三回撤収した谷を、一回も撃たれずに抜けちゃった」


 クローザーが、端末の地図を見ていた。赤の印が十六。青の印が十一。その間を縫う、一本の線。


「記録した。コラプスの鼻の、精度。……推定じゃない。実測」


 ルヴィリアは、谷の出口で、肩のディヤウスに手を当てた。


 撃てない銃を持ったまま、撃たずに抜けた。


 コラプスが、ルヴィリアの隣に来て、首を傾げた。


「ねぇ、ルヴィリア」


「なんだ」


「わたしの鼻、役に立った?」


 ルヴィリアは、少しだけ間を置いた。


「立った」


 コラプスは、マゼンタの瞳で、にこりと笑った。



 その夜、ルヴィリアは、本社の蘇芳に、有線で報告を入れた。


「第十伍区画、通過しました。鬼火の暴発、ゼロ」


『そうか』


 蘇芳の声は、短かった。それから、少しだけ間があった。


『試験部の連中が、礼を言いに来た。配属先が見つかって、助かったとな』


「燃料の予算を、配属先に投げていきました」


『……聞いた。すまん。私の判で通った書類だ』


「チルダが、裏の伝手で仕入れています」


『いずれ、何とかする』


「期待はしていません」


『手厳しいな』


 蘇芳は、短く笑った。それから、少しだけ声を落とした。


『ルヴィ。本社の都合と、お前の都合が、同じ方を向いた。私は、それを、珍しいと言った』


「はい」


『珍しいことは、長くは続かん。本社は、いつか、あの試験機のデータを、また欲しがる。お前は、あの鼻を、手放したくなくなる。そのとき、また、逆を向く』


 ルヴィリアは、受話器を持ったまま、少し黙った。


「……そのときは、そのときです」


『そうだな』


「ただ」


『ただ?』


「今日、谷を抜けました。それは、本社の都合でも、私の都合でもありません」


 電話の向こうで、蘇芳は、しばらく何も言わなかった。


『……そうだな。それは、あの機体の都合だ』


「はい」


『大事にしてやれ』


「チルダが、もう、そうしています」


 電話が切れた。


*


 店の二階には、扉が四つしかなかった。


 コラプスの区画は、階段脇の物置を片付けて作られた。窓のない、狭い部屋。チルダが申し訳なさそうに案内すると、コラプスは中を一周、嗅いで回った。


「……ここ、いい」


「狭いよ」


「いろんな鉄の匂いがする。ジャンクの匂い。落ち着く」


「物置だったからね」


 コラプスは、床に座り込んで、膝を抱えた。瞳は、シアンに戻り始めていた。


 階段の下から、クローザーが顔を出した。


「コラプス」


「なぁに、クローザー」


「次の任務、鼻、借りる」


「いいよぉ。一包、くれたら」


「一包は、チルダが決める」


「チルダぁ」


「一包だけ!」階下から、チルダの声がした。


 コラプスは、物置の床に寝転がって、天井を見上げた。


「……ケチぃ」


 それから、少しだけ、笑った。


*


 その夜、クローザーは、自分の区画で端末を開いた。


 記録の頁に、一行、書き足す。


 《コラプス、加入。鼻がいい。うるさい。チルダに懐いた。》


 少し考えて、もう一行。


 《本社の都合と、ボスの都合が、珍しく一致した。統括が、気味が悪いと言っていた。》


 さらに、もう一行。


 《でも、谷を抜けたのは、たぶん、コラプスの都合。》


 クローザーは、端末を閉じた。


 階段脇の物置から、かすかに、寝息のような音が聞こえていた。アンドロイドに寝息はない。ただ、磁化した何かが、ゆっくりと、穏やかに、落ち着いていく音だった。

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