継ぎ目
「やってるか、お前ら」
蘇芳が、ジャンク屋の扉を自分で開けて入ってきたのは、初めてのことだった。
カウンターの内側で、コラプスが釣り銭を数える手を止めた。
奥の長椅子で、クローザーが端末から顔を上げた。作業台の向こうで、ルヴィリアがディヤウスの銃身を拭く布を置いた。
「……統括」
「座ったままでいい」
蘇芳は、店の中を一度だけ見回した。棚に積まれた部品。非売品の棚。天井から下がった、ナノエーテル灯の白い光。機械の右腕で、上着の内ポケットから封筒を一通取り出した。
「来週、企業連合の試験場で、各社の新型戦闘車輌の発表がある。レセプションを兼ねた、内覧と試走だ」
封筒の表に、企業連合の印が押されていた。
「メビウスも、一台出す。名前は、ウルカヌス」
作業台の端で、工具を広げていたチルダの手が止まった。
「……新型の、戦闘車輌」
「そうだ」蘇芳は、チルダの方を見た。
「発表の場での試走に、運転手が一人要る。Dollsから出せと、支部長から言われている」
戦闘区までの運転は、だいたいルヴィリアかチルダの仕事だった。
アイシアは車輌の電子系に潜ってデータを調整し、クローザーは搭載砲かダイダラで狙い、コラプスは辰砂の濃さを読む。
ハンドルを握れる手が空いているのは、その二人しかいない。
ルヴィリアは、布を畳んだ。それから、蘇芳を見た。
「支部長は、もうお乗りに」
「三日前に」蘇芳は言った。「試験場を、二十周した。主砲も、六十発撃った」
ルヴィリアは、少しだけ間を置いた。
「なら、いい」
それだけ言って、ルヴィリアは、チルダの方へ顔を向けた。
「チルダが行け」
「……いいの?」
「新しい車輌の中を一番見たがっているのは、お前だろう」
チルダは、目を瞬いた。それから、ゆっくりと、笑った。
「見たい。すっごく見たい」
*
蘇芳が帰ったあと、店の中は少し騒がしくなった。
「砲手の席、あるのかな」クローザーが、長椅子から身を乗り出した。
「戦闘車輌でしょ。砲、積んでるよね」
「積んでるでしょ。支部長が六十発撃ったって言ってたし」
「六十発」クローザーは、指を折って数える真似をした。「……あの人、また撃ったんだ」
コラプスが、カウンターから顔を出した。
「また?」
「支部長は、メビウス仙京支部で作った兵器、全部自分で撃つの」チルダが言った。
「あたしたちに回ってくる前に。試験場で、上着脱いで、袖まくって」
「なんで?」
「人形だけに試運転を任せておいては、必ず綻びが出ます」
チルダは、少しだけ西の訛りを真似て言った。
「……って、口癖なの」
コラプスは、首を傾げた。
「綻び」
「アンドロイドの腕なら平気な反動でも、人間の肩は外れるとか。そういうの」チルダは、工具を袋に戻しながら言った。
「支部長は、自分が撃って、人間が使うときの『遊び』を足させるの。人間が使えないと、民間に売れないから」
「本社の人は、ただぶっ放したいだけって言ってる」クローザーが言った。
「それも、たぶん本当」
アイシアが、店の扉から入ってきた。手に、端末を持っていた。
「統括から、事前資料が届きました。ウルカヌスの電子系の仕様書と、支部長の試運転の記録です。試走の前に、運転手の操作の癖に合わせて、制御の設定を調整してほしいとのことです」
「アイシアがやるの?」
「はい。チルダの運転の記録は、待機室に全部あります。足回りの応答と、旋回の癖と、加速の踏み込み方。それに合わせて、事前に組んでおきます」
チルダは、少しだけ顔をしかめた。
「あたしの運転の癖、全部、記録にあるの」
「あります」アイシアは、当然のように言った。
「チルダは、曲がる直前に、一度だけ軽くブレーキを踏みます。必要がないときでも」
「……それ、昔の癖」
「知っています」
チルダは、無意識に、左の肩口を指先でなぞった。
ルヴィリアは、それを見ていた。何も言わなかった。
その夜、店を閉めたあとで、チルダは作業台の向こうのルヴィリアに訊いた。
「ねえ、ボス。さっきの、『なら、いい』って」
「何だ」
「ボス、支部長のこと、あんまり好きじゃないでしょ」
「事業家としてはな。兵器屋としては、その限りではない」
「でも、支部長が先に乗ったって聞いたら、それでいいって」
ルヴィリアは、ディヤウスの銃身に布を当てたまま、しばらく黙っていた。
「大戦のころ、前線には、書類からそのまま出てきたような兵器が送られてきた」
チルダは、手を止めた。
「誰も撃ったことのない銃。誰も走らせたことのない車輌。前線で初めて引き金を引いて、初めて弾が詰まることを知る。その一回で、部下が死んだ」
ルヴィリアは、布を置いた。
「あの男は、人を数字で見る。新たな大戦の火種を埋め、収穫を待つ」ルヴィリアは言った。
「だが、自分の売り物は、自分の手で撃つ。武器商人としては、まともだ」
チルダは、しばらく、ルヴィリアの顔を見ていた。
「……それ、褒めてる?」
「半分だ」
*
企業連合の試験場は、新都の北の境界区にあった。
第一区画「正門」に接する、広い荒れ地だった。
戦後、旧軍の演習場の跡を企業連合が買い取り、各社の新しい機材を試すための場所にした。
荒れ地の北の端には、白い杭が並んでいた。その向こうが、第一区画。鬼火はほぼ掃討済みで、戦闘区の中では最も穏やかな区画だった。
荒れ地の手前に、白い天幕がいくつも並んでいた。
各社の天幕。その前に、それぞれの車輌が、覆いをかけられて停まっていた。
チルダは、蘇芳の半歩後ろを歩いていた。
いつもの作業着ではなく、蘇芳に言われて着てきた、Dollsの制服の上着だった。肩には、いつもの工具袋。
「……それは、置いてこいと言ったはずだが」
「置いてきたら、落ち着かないの」チルダは、工具袋を背負い直した。
「局長の腕と同じ。外したら、落ち着かないでしょ」
蘇芳は、自分の機械の右腕を、ちらりと見下ろした。
「……外したことはない」
「でしょ」
レセプションの開始は午後からだった。午前中の試験場には、まだ各社の技術員しかいなかった。
荒れ地の奥の周回路から、低い唸りが聞こえてきた。
白い車輌が一台、土煙を上げて走っていた。覆いのない、継ぎ目のない白い車体。側面に、シアンの発光線が一本。
「……あれ」
「ウルカヌスだ」蘇芳が言った。「支部長が、最後の試運転をしている」
ウルカヌスは、周回路の曲がり角に差しかかった。
曲がる手前で、車体がわずかに揺れた。ハンドルを切るのが、半拍だけ遅い。曲がりきったあとで、車体の尻が、少しだけ外へ流れた。
チルダは、それを見ていた。
「……下手」
「人間だからな」
「でも、ちゃんと曲がってる」
ウルカヌスは、尻を流したまま、それでも周回路から外れずに、次の直線へ出た。
もう一周して、ウルカヌスは天幕の前に戻ってきた。
運転席の乗降口が開いた。降りてきたのは、背の高い男だった。灰色のシャツの袖を、肘までまくり上げていた。上着は着ていなかった。色の薄い髪が、少しだけ額に落ちていた。
アゴルディだった。
技術員が、すぐに駆け寄った。アゴルディは、手にした端末に何かを打ち込みながら、早口で指示を出した。
「旋回の応答、まだ速すぎます。人形の反応速度に合わせすぎている。人間の手は、半拍遅れる。その半拍のあいだに、車体がこちらの意図より先に曲がってしまう」
「ですが、支部長、Dollsの運用記録では」
「人形だけに試運転を任せておいては、必ず綻びが出ます」アゴルディは、端末から顔を上げなかった。「この車輌は、Dollsの一号車のあと、企業連合の各社に売ります。運転するのは、人間です。ハンドルに、指一本分の遊びを残してください。人間が切り遅れても、車体が待ってくれる分の遊びを」
技術員は、うなずいて、走っていった。
アゴルディは、そこで初めて顔を上げた。
蘇芳と、その半歩後ろのチルダを見た。
「スオウ局長。それと」アゴルディは、ほんの少しだけ目を細めた。「チルダ。Type-LI、製造番号TILDA-04」
「……はい」
「今日の運転手ですね。結構です」アゴルディは、まくり上げた袖を、ゆっくりと下ろした。
「あなたの運転の記録は、この車輌の設計に、たくさん使わせていただきました。その上に、私の下手な運転の記録を、少しだけ混ぜてあります」
にべもなく、アゴルディはそう言った。
チルダは、何と答えていいか分からなかった。
アゴルディは、シャツの胸ポケットから白いカフスを取り出して、袖口に留め直した。
「午後の試走の前に、一度乗っておきなさい。私の混ぜた遊びが、あなたの邪魔になっていないかどうか、知りたい」
アゴルディが天幕の奥へ消えたあとで、チルダは小声で言った。
「……支部長、さっき、自分で『下手』って言った」
「言ったな」
「自分で分かってるんだ」
「分かっているから、乗るんだろう」蘇芳は言った。
「自分が下手に運転して、それでも曲がれる車でなければ、売れないと」
チルダは、周回路の、ウルカヌスが尻を流した曲がり角を見ていた。
「……ちょっと楽しそうだった」
「本社の噂は、半分は本当だ」
一番手前の天幕は、黒曜警備保障のものだった。
覆いの外された車輌は、黒く、低く、滑らかだった。都市の治安用に作られた、鎮圧車。表面には艶のある黒い装甲が貼られ、継ぎ目は細い線になって、ほとんど見えなかった。
「夜叉、と言います」天幕の前の案内係が、にこやかに言った。「新都の夜間警備用です。静音で、市街地の狭い路地にも入れます」
チルダは、夜叉の装甲の縁を、指の腹でなぞった。
「……これ、どこから開けるの」
「整備は、弊社の工場で行います」
「ふうん」
チルダは、それ以上は何も言わずに、次の天幕へ歩いた。
二番目の天幕の前で、チルダの足が止まった。
角張った車輌だった。箱を積み重ねたような車体。四隅に太い支柱。分厚い装甲板が、一枚ずつ、大きなねじで車体に留められていた。ねじの頭が、装甲の縁に沿って、規則正しく並んでいた。
天幕の中から、見覚えのある顔が出てきた。
「……人形の、運転手か」
尾形だった。古い防弾服の上に、カナエ鉱業の腕章。灰街道の、狭間で会ったときと同じ格好だった。
「尾形さん!」
「なんで、お前がここにいる」
「メビウスの車の、試走係」チルダは、尾形の後ろの車輌を見上げた。「これ、カナエの?」
「轍だ」尾形は、車輌の装甲を、拳で軽く叩いた。「灰街道を走るための車だ。陸の車列の、護衛用」
チルダは、装甲板のねじを、一本ずつ数えていった。
「八本。……装甲一枚、ねじ八本で外れる」
「外れる。壊れたら、その場で外して、替える」尾形は言った。
「灰街道で壊れたら、工場には戻れない。狭間で止まったら、その場で直すしかない。だから、全部、ねじで留めた。設計の連中は、見た目が悪いと文句を言ったがな」
チルダは、轍の装甲を、両手で撫でた。
「……いい子」
尾形が、眉を上げた。
「何だって?」
「いい子だね、って言ったの。この車」
尾形は、しばらくチルダを見ていた。それから、短く笑った。
「変わった人形だ」
天幕の並びの中ほどで、杖をついた老人が、二人を待っていた。
葛城だった。企業連合の理事。細い体を、仕立ての良い上着に包んでいた。
「蘇芳くん。それと、Dollsの……」
「チルダです」
「チルダくん」葛城は、杖を持ち替えて、上着のポケットから、小さな缶を一つ取り出した。銀色の、甘缶だった。「これを、ルヴィリアに渡しておいてくれ。今日は来ないと聞いたのでな」
チルダは、甘缶を受け取った。
「渡しておきます」
「あれは、甘いものを食べると、少しだけ顔が変わる」葛城は、薄く笑った。「見てやってくれ」
それから、葛城は、天幕の奥の白い車体の方へ、杖の先を向けた。
「アゴルディくんは、今朝も乗っていたかね」
「乗っていました」蘇芳が言った。
「そうか」葛城は、杖を突き直した。
「西から来た連中の中で、あやつは信用できる。自分の店の品を、自分で食ってみる男だ」
ルヴィリアと似たような事を言いながら、葛城は次の天幕の方へ歩いていった。
*
メビウスの天幕は、一番奥にあった。
他社の天幕の倍ほどの大きさだった。白い天幕の中央に、白い覆いをかけ直されたウルカヌスが、巨大な影になってうずくまっていた。
午後になると、天幕の前に人だかりができた。企業連合の各社の人間。理事たち。記録係。
その中心に、アゴルディが立っていた。灰色の上着を着直し、袖口から白いカフスが覗いていた。午前中に袖をまくり上げていた男とは、別人のようだった。
「皆さま」
アゴルディの声は、よく通った。こちらの言葉を、こちらの人間より正確に話す。母音の終わりに、わずかに西の訛りが残っていた。
「メビウス・テクノロジーズ仙京支部は、本日、新型戦闘車輌を発表いたします。その名は、ウルカヌス」
技術員たちが、覆いを引いた。
白い覆いが、ゆっくりと滑り落ちた。
午前中に見たはずなのに、チルダは、また息を呑んだ。
白かった。
ナノテックスーツと同じ、継ぎ目のない白。車体の表面が、一枚の殻のように、前から後ろまで途切れずにつながっていた。装甲の境目も、ねじの頭も、どこにもなかった。車体の側面に、細いシアンの発光線が一本、前から後ろへ走っているだけだった。
車体の上に、長い砲身が一本、静かに横たわっていた。
「ウルカヌスは、西の古い神話の、鍛冶の神の名です」アゴルディが言った。「炎と鉄を司る神。我々は、仙京の戦場で鍛えられたこの車輌に、その名を与えました」
アゴルディは、ウルカヌスの白い車体に、手のひらを当てた。
「本車輌は、企業連合の特記戦力、メビウス所属・Dollsの運用記録をもとに設計されています」
人だかりの中から、低いざわめきが起きた。
「そして」アゴルディは、少しだけ声を落とした。「この車輌は、私が二十周走らせ、主砲を六十発撃ちました。人形にしか扱えない車輌を、皆さまにお売りするつもりはありません」
ざわめきが、笑い声に変わった。誰かが、「支部長、また撃ったのか」と言った。
アゴルディは、薄く微笑んだだけだった。
チルダは、ウルカヌスの側面に並ぶ、五つの乗降口を見ていた。
運転席。その後ろに、砲手席。砲手席の照準器は、ダイダラの照準器と同じ形をしていた。電子戦席。端末の配置が、アイシアがいつも膝の上に置いている端末と、同じ角度だった。
それから、四つ目の席。車体の外に向かって、小さな吸気口が一つ、開いていた。
「……コラプスの、席だ」
チルダの呟きは、誰にも聞こえなかった。
最後に、指揮席。運転席のすぐ斜め後ろ。壁から、三歩の位置。
チルダは、自分の左の肩口に、指先を当てていた。
発表が終わると、各社の人間が、ウルカヌスの周りに集まった。
チルダは、人の輪から少し離れて、ウルカヌスの車体の後ろへ回った。
車体の後部。整備の点検口があるはずの場所。指の腹で、白い表面をなぞっていく。継ぎ目を探して。ねじ穴を探して。
なかった。
どこにも、なかった。
「……あの」
チルダは、近くにいたメビウスの技術員に声をかけた。
「これ、どこから開けるの」
技術員は、にこやかに答えた。
「開ける必要は、ありません。整備は、すべて本社の工場で行います。炉心の交換も、装甲の修復も」
「戦闘区で、壊れたら?」
「回収車で、工場まで運びます」
「灰街道の、狭間で壊れたら?」
技術員は、少しだけ笑顔を固くした。
「……メビウスの車輌は、空路で運びますので」
チルダは、何も言わなかった。
白い車体から、指を離した。
それから、自分の左の肩口を、もう一度、指先でなぞった。
「チルダ」
背後から、蘇芳の声がした。
蘇芳は、ウルカヌスの白い車体を見上げていた。機械の右腕を、体の脇に下ろしたまま。
「どうだ」
「……きれい」チルダは言った。「すごく、きれい。継ぎ目が、一個もない」
「それは、褒めているのか」
チルダは、少しだけ考えた。
「半分」
蘇芳は、何も言わなかった。
チルダは、蘇芳の右腕を見た。機械の腕。肩のところで、肉と金属がつながっている。
上着の袖の縁から、接合部の金属の輪が、わずかに覗いていた。
「局長。その腕の継ぎ目、雨の日、痛む?」
蘇芳は、チルダを見下ろした。
「……痛む」
「知ってる」
チルダは、自分の左肩に、手のひらを置いた。
「あたしも昔、痛かった。両腕と、左の脚と、首の後ろ。雨の日は、全部」
蘇芳は、長いあいだ、黙っていた。
「今は」
「今は、痛くない」チルダは言った。
「継ぎ目が、なくなったから」
チルダは、肩から手を離した。
「でも、指が、まだ探しちゃうの。ないのに」
蘇芳は、自分の右腕の、肩の接合部を、左手で一度だけ押さえた。
「……そうか」
それきり、二人は何も言わずに、白い車体を見上げていた。
*
午後の試走が始まった。
試験場の荒れ地に、白い杭で囲まれた周回路が組まれていた。荒れ地を一周し、北の杭を越えて、第一区画「正門」の縁を少しだけかすめて、また荒れ地に戻ってくる。戦闘区の、ほんの入口。
最初に、黒曜の夜叉が走った。静かで、速かった。音もなく荒れ地を滑り、正門の縁の廃墟の間を、黒い影のように抜けていった。
次に、メビウスのウルカヌスだった。
チルダは、運転席に座った。
座席が、体に吸いつくように合った。ペダルの位置。計器の配置。全部が、最初から、自分のために作られていた。
ハンドルだけが、少し違った。
握って、軽く左右に揺すってみる。指一本分だけ、ハンドルが、何も伝えずに動いた。その先で、ようやく、車輪に力が伝わった。
「……遊び、ね」
『チルダ、聞こえますか』
耳元の通信に、アイシアの声が入った。待機室からの、遠隔の接続だった。
「聞こえる」
『足回りと制御の設定、チルダ用に組んであります。旋回の前の、軽いブレーキの癖も、入れてあります。ただ、ハンドルの遊びだけは、触れませんでした。支部長の指示で、固定されています』
「うん。今、触った」
『外しますか? 統括の許可があれば、今からでも』
チルダは、ハンドルを握ったまま、少しだけ考えた。
「……いい。このままで」
指揮席に、蘇芳が乗り込んできた。機械の脚を折り畳むようにして、狭い席に体を収めた。
「局長も乗るの?」
「観察役だ」蘇芳は、指揮席の計器を見回した。「……この席は、ルヴィのための席だな」
「分かる?」
「壁から、三歩だ」
チルダは、前を向いた。
アクセルを、踏んだ。
ウルカヌスは、重いのに、軽かった。
踏み込めば、踏み込んだぶんだけ、車体が前へ出た。
旋回の前に、一度だけ、軽くブレーキを踏む。ウルカヌスは、それを待っていたかのように、向きを変える準備をした。
ハンドルを切る。
指一本分、何も起きなかった。
その一瞬、チルダの指が、ハンドルを握り直した。ほんのわずかに、遅れた。人間の手が、半拍遅れるのと同じように。
それでも、ウルカヌスは、曲がった。チルダの意図より先に曲がるのではなく、チルダの手が追いつくのを待ってから、滑らかに向きを変えた。
「……あたしの、運転だ」
チルダは、ハンドルを握ったまま呟いた。
「でも、全部じゃない」
「何がだ」蘇芳が訊いた。
「この車、あたしの癖を全部知ってる。でも、ハンドルのところだけ、あたしじゃない人の手が入ってる」チルダは、前を見たまま言った。「今朝の、下手な運転の人の手」
蘇芳は、指揮席で、小さく息を吐いた。笑ったのかもしれなかった。
周回路の北の杭を越えて、正門の縁に入った。荒れ地の土の色が、少しだけ赤みを帯びた。崩れた鉄骨。錆びた旧軍の陣地の跡。その間を、ウルカヌスは白い影になって抜けていった。
車体の外の吸気口から、空気が流れ込んでくる計器の数字が、少しずつ変わっていった。辰砂の濃さ。磁気の強さ。コラプスがいれば、鼻で読む数字だった。
一周して、荒れ地に戻った。
天幕の前で、人だかりが拍手をしていた。その中で、アゴルディが、拍手もせずに、手元の端末に何かを書き込んでいた。それから、顔を上げて、運転席のチルダを見た。
チルダは、ウルカヌスを停めた。
ハンドルから、手を離した。
指が、少しだけ、震えていた。
三番目に、カナエの轍が走った。
運転席に、カナエの若い試験員。その隣の席に、尾形が乗っていた。
轍は、遅かった。夜叉のように静かでも、ウルカヌスのように滑らかでもなかった。
角張った車体を揺らしながら、荒れ地をまっすぐに、力ずくで進んでいった。
それでも、止まらなかった。
北の杭を越えて、正門の縁に入った。
チルダは、ウルカヌスの運転席から降りて、天幕の前で轍を見送っていた。蘇芳が、その隣に立っていた。少し離れたところに、アゴルディがいた。
轍が、正門の縁の、崩れた旧軍の陣地の横を通りかかったときだった。
陣地の奥で、何かが光った。
赤い光が、一つ、跳ねた。
一拍遅れて、腹の底に響く音が、荒れ地を渡ってきた。
轍の右の前輪の横で、地面が弾けた。
天幕の前の人だかりが、静まり返った。
「……鬼火」チルダが言った。
「正門の鬼火は、掃討済みのはずだ」蘇芳の声は、低かった。
「ほぼ、でしょ」チルダは言った。「ほぼ、なの。全部じゃない」
陣地の奥の赤い光が、また跳ねた。
今度は、轍の車体の後ろに当たった。後部の装甲板が、一枚、弾け飛んだ。轍は、大きく傾いて、陣地の横の窪みに、右の車輪を落とした。
止まった。
鬼火の、射線の真ん中で。
『尾形さん! 尾形さん、応答してください!』
カナエの天幕の通信係が、叫んでいた。
雑音のあとで、尾形の声が入った。
『……生きてる。二人とも無事だ。だが、駆動が切れた。右の車軸の、継ぎ手が折れてる。動けん』
『脱出は!』
『外に出たら、撃たれる。中にいれば、装甲がもつ。……だが、何発もつかは、分からん』
陣地の奥で、赤い光が三度目に跳ねた。轍の側面の装甲板に、砲弾がめり込んだ。装甲板が、ねじごと歪んだ。
チルダは、もう走っていた。
ウルカヌスの運転席に、飛び込んだ。
「チルダ!」
蘇芳が、指揮席の乗降口に手をかけていた。
「降りて、局長!」
「降りん」
蘇芳は、機械の脚を折り畳んで、狭い席に体をねじ込んだ。
「お前一人で、行かせる理由がない」
砲手席の乗降口が、開いた。
乗り込んできたのは、アゴルディだった。
灰色の上着を、もう脱いでいた。脱いだ上着を、天幕の前の地面に投げ捨ててきたらしかった。
白いカフスを外して、シャツの胸ポケットに押し込みながら、背の高い体を、狭い砲手席に折り畳んだ。
「支部長」蘇芳が言った。
「この砲を一番撃っているのは、私です」アゴルディは、照準器に目を当てた。
「六十発。スオウ局長よりも、クローザーという人形よりも、多い」
チルダは、一瞬だけ、後ろを振り返った。
アゴルディは、もう袖をまくり上げていた。
チルダは、前を向いて、アクセルを踏んだ。
『チルダ、何をしているんですか』
耳元で、アイシアの声がした。
「轍の前に、ウルカヌスを入れる。盾にする」
『……了解しました。鬼火の拍を、拾います』
アイシアの声の後ろで、別の声が割り込んできた。
『拍、もう取った』クローザーだった。待機室の、アイシアの隣にいるのだった。
『長いのが二つ。短いのが一つ。長いのは三十八秒、短いのは十一秒。今、長いのの二つ目が終わったところ』
「次は、短いの?」
『そう。十一秒が来るよ』
ウルカヌスは、荒れ地を突っ切った。北の杭を越えて、正門の縁へ。崩れた鉄骨の間を、白い車体が抜けていく。
『チルダ』今度は、コラプスの声だった。『外の吸気口、ちゃんと開いてる。……辰砂の匂い、陣地の奥が、濃い。鬼火の中で、辰砂が溜まってる。だから、目が覚めたんだと思う。今日、ナノエーテルの車が、たくさん走ったから』
「……あたしたちが、起こしたってこと」
『たぶん』
砲手席で、アゴルディが、小さく言った。
「記録しておきます」
鬼火が、撃った。
短い方だった。十一秒。砲弾は、ウルカヌスの左の装甲に当たった。
車体が、大きく揺れた。
だが、白い殻は、割れなかった。シアンの発光線が、一瞬だけ強く光って、また元の明るさに戻った。
「……硬いな」
チルダは、ハンドルを切った。指一本分の遊びのあとで、ウルカヌスが向きを変えた。
轍と、陣地の奥の鬼火の間に、白い車体を滑り込ませた。
停めた。
鬼火の射線は、もう、ウルカヌスの白い殻にしか届かなかった。
「二人とも、車輛の中にいて」
チルダは、運転席の乗降口を開けた。
「どこへ行く」蘇芳が言った。
「轍を、直す」
「外へ出れば、撃たれる」
「ウルカヌスの陰にいれば、撃たれない」チルダは、工具袋を肩に掛けた。「それに、轍は、ねじで直る子だから」
砲手席から、アゴルディの声がした。
「何分、必要ですか」
チルダは、振り返った。
「……三分。ねじ八本外して、継ぎ手替えて、また八本締める」
「では、三分、鬼火にはこちらを見ていてもらいましょう」アゴルディは、照準器から目を離さなかった。
「黙らせる必要はありません。轍から目を逸らさせればいい」
『支部長』クローザーの声が、通信に入った。
『照準、右に半目盛り、ずれて見えるはず。それ、あたしの癖。右に半目盛り、引いて撃って』
「知っています」アゴルディは言った。「あなたの癖に合わせる前の照準で、私は四十発撃ちました。合わせたあとで、二十発。半目盛りは、私の目では、右ではなく、少し下に見えます」
通信の向こうで、クローザーが黙った。
「下に半目盛り、引きます」
チルダは、ウルカヌスの陰から、轍の方へ走った。
轍の車体の下に、潜り込んだ。
右の車軸。駆動の継ぎ手が、根元から折れていた。
チルダは、工具袋を開けた。
継ぎ手を覆う装甲板を、外す。ねじ八本。一本ずつ、緩めていく。轍は、全部、ねじで留めてあった。設計の連中が見た目が悪いと文句を言った、ねじの頭が並んでいた。
一本。二本。三本。
頭の上で、ウルカヌスの砲が鳴った。
鬼火の陣地の手前で、地面が弾けた。アゴルディの一発目だった。
鬼火が、撃ち返した。砲弾は、ウルカヌスの白い殻に当たった。轍には、届かなかった。
『こっちを向いた』アゴルディの声が、通信に入った。わずかに、息が弾んでいた。
四本。五本。六本。
『長いの、一つ目。あと二十秒』クローザーの声がした。
七本。八本。
装甲板が、外れた。
折れた継ぎ手が、むき出しになった。チルダは、工具袋の底を探った。
いつも入れている、規格の古い継ぎ手の予備。ジャンク屋の在庫。旧軍の規格の、大戦前の部品。
旧区画の渡りから仕入れた、辰砂に食われていない古い金属。
轍の駆動は、旧軍の規格だった。
「……合う」
チルダは、折れた継ぎ手を外して、予備をはめ込んだ。
頭の上で、ウルカヌスの砲が、二度目に鳴った。
陣地の奥で、赤い光が、一度だけ大きく膨らんだ。
それから、消えた。
『……当たりました』アゴルディの声がした。
『二発目』クローザーが言った。『あたしなら、一発』
『知っています』アゴルディは言った。『ですから、人間が二発目で当てられるように、作らせました』
通信の向こうで、クローザーが、もう一度黙った。
それから、小さく言った。
『……それ、ずるい』
『それが物を売るという事です』
チルダは、轍の下で、継ぎ手の締め具を工具で回しながら、少しだけ笑った。
締まった。
装甲板を、戻した。ねじを、一本ずつ、締めていく。
八本目を締め終えた。
チルダは、轍の車体の下から這い出した。
轍の運転席の扉を、拳で叩いた。
「尾形さん! 継ぎ手、替えた! 動くよ!」
扉が、内側から開いた。尾形が、顔を出した。
額から、一筋、血が流れていた。
「……何をした」
「継ぎ手、替えたの。旧軍の規格の、古い予備」チルダは、工具袋を叩いた。「轍、ねじ八本で開いたから。ねじで留めてくれた設計の人に、ありがとうって言っといて」
尾形は、しばらくチルダを見ていた。
それから、運転席の若い試験員の肩を叩いた。
「出せ」
轍が、唸った。
窪みに落ちた右の車輪が、ゆっくりと回り始めた。土を噛んで、車体を押し上げる。角張った車体が、揺れながら、窪みから這い出した。
轍は、走った。遅く、力ずくで、まっすぐに。北の杭を越えて、荒れ地へ戻っていった。
チルダは、その後ろ姿を、しばらく見送っていた。
それから、ウルカヌスの白い車体に、手のひらを当てた。
左の側面。鬼火の砲弾を、三発受けた場所。白い殻には、傷一つ、残っていなかった。
「……あんたも、いい子だよ」
チルダは、小さく言った。
「開けられないけど」
*
天幕の前に戻ると、人だかりが、ウルカヌスを取り囲んだ。
拍手が起きていた。歓声も。各社の人間が、白い車体の、鬼火の砲弾を受けた場所を覗き込んでいた。傷一つない白い殻を、口々に褒めていた。
アゴルディは、砲手席から降りてきた。シャツの袖をまくったまま。額に、汗が一筋、光っていた。地面に投げ捨てた上着を、技術員が慌てて拾って差し出した。
アゴルディは、それを受け取って、腕に掛けた。着なかった。
「最高の実演でした」アゴルディは、蘇芳に言った。
「台本にない、本物の戦闘区での実演です。鬼火の砲撃を三発受けて、無傷。主砲は、人間の手で、二発目で当たった。これ以上の宣伝は、どれだけ金をかけても作れません」
「轍が撃たれた」蘇芳は言った。
「ええ」アゴルディは、端末を見た。
「注文の問い合わせが、もう三社から来ています。カナエからも、一件」
蘇芳は、眉を上げた。
「カナエが、ウルカヌスを」
「いいえ」アゴルディは、端末から顔を上げた。「カナエは、ウルカヌスの装甲板を、轍に貼れないかと訊いてきました。ねじで」
アゴルディは、人の輪を抜けて、チルダの前まで歩いてきた。
チルダは、ウルカヌスの車体の後ろで、白い殻に手を当てていた。
「チルダ」
「……はい」
「轍は、何分で直りましたか」
「三分。ちょっと超えたかも」
「ウルカヌスなら、三分では直りません」アゴルディは言った。
「回収車を呼び、工場まで運び、本社の技術員が開ける。三日かかります」
チルダは、何も言わなかった。
「あなたは、ウルカヌスの後ろで、何を探していたのですか。発表のあとで、技術員に訊いていましたね」
「……開け口」チルダは言った。
「点検口。継ぎ目。どこにもなかったから」
アゴルディは、ウルカヌスの白い車体を見下ろした。
前から後ろまで途切れない、一枚の殻。
「人形だけに試運転を任せておいては、必ず綻びが出ます」アゴルディは言った。
「ですが、今日、私は人形に教わりました。兵器には、人間が運用する場合の遊びが必要です。そして、人間が直す場合の継ぎ目も」
チルダは、目を瞬いた。
「次の型には、点検口を一つ、付けさせましょう。現場の工具で開けられるものを」アゴルディは、端末に何かを打ち込んだ。
「灰街道を陸で走る企業にも、売れるようになる」
「……それ、商売の話?」
「全部、商売の話です」
アゴルディは、端末をしまった。それから、ほんの少しだけ、口の端を動かした。
「それに、自分で開けて、中を見てみたい」
アゴルディは、腕に掛けた上着を持ち直して、天幕の方へ歩いていった。
その背中は、来たときより、少しだけ機嫌が良さそうに見えた。
チルダは、しばらく、その背中を見ていた。
「……ほんとに、ぶっ放したいだけかも」
カナエの天幕の前で、尾形が、額の傷に包帯を巻かれていた。
チルダが近づくと、尾形は顔を上げた。
「……人形」
「チルダ」
「チルダ」尾形は、言い直した。
「借りが、二つになった。狭間と、今日と」
「狭間のは、あたしじゃないよ。ボスと、コラプスと、榊さん」
「今日のは、お前だ」
尾形は、包帯を巻き終えた額に、手を当てた。
「メビウスの支部長が、砲手席に乗ったのを見た」尾形は言った。
「売る側の人間が、自分の売り物に乗って撃つのは、初めて見た」
「支部長は、いつもそうなの」
「そうか」尾形は、轍の、歪んだ側面の装甲板を見た。ねじごと歪んだ、一枚の板。「……カナエの設計の連中にも、見せてやりたかったな」
チルダは、轍の装甲板を、指の腹でなぞった。継ぎ目。ねじの頭。歪んだ縁。
「替える前に、その歪んだ板、うちの店に回して」
「何に使う」
「ジャンク。直して、売る」チルダは、にっと笑った。「鬼火の砲弾を受けた、轍の装甲。いい値段つくよ」
尾形は、声を出して笑った。それから、額の傷を押さえて、顔をしかめた。
*
帰りの車の中で、蘇芳は、窓の外を見ていた。
新都の白い光が、近づいてきた。
チルダは、助手席で、手帳を開いていた。元ネタの手帳だった。今日の頁に、何行か、書き込んでいく。
《夜叉:継ぎ目、細い線だけ。開け口なし。工場送り》 《轍:ねじ八本。装甲一枚ずつ外れる。現場で直せる。いい子》 《ウルカヌス:継ぎ目なし。ねじ穴なし。開けられない。鬼火三発、傷なし。盾になる。ハンドルに指一本の遊び。いい子。でも、今はまだ開けられない》
チルダは、ペンを止めた。
最後の行の、「今はまだ」の四文字を、しばらく見ていた。
「……局長」
「なんだ」
「支部長、ほんとに点検口、付けると思う?」
「付けるだろう」蘇芳は、窓の外を見たまま言った。
「あの男は、自分で言ったことは、自分の手で確かめる。それだけは、確かだ」
「ボスも、同じこと言ってた。武器商人としては、まともだって」
「ルヴィらしい言い方だ」
チルダは、手帳を閉じた。
「一号車は、あたしが運転するんだよね」
「お前か、ルヴィだ」
「あたしが、運転する」チルダは言った。「あの子、あたしの癖を全部知ってるし。ハンドルのところに、支部長の手が入ってるのも、悪くない」
蘇芳は、窓から目を離して、チルダを見た。
チルダは、自分の左の肩口を、指先でなぞっていた。
「……継ぎ目がない体って、楽なんだよ。痛くないし、手入れもいらない」チルダは言った。
「でも、自分で開けられない。壊れたら、誰かに任せるしかない」
「ああ」
「あたし、それ、知ってるから。あの子のこと、ちゃんと見てあげられると思う。点検口が付くまでは」
蘇芳は、長いあいだ、何も言わなかった。
それから、機械の右腕を、自分の膝の上に置いた。肩の接合部の、金属の輪が、袖の縁から覗いていた。
「……雨の日は」蘇芳は言った。「この継ぎ目が痛むたびに、まだ自分で開けられる体なのだと思うことにしている」
チルダは、目を瞬いた。
それから、少しだけ笑った。
「それ、いいね」
店に戻ったのは、夜だった。
作業台の向こうで、ルヴィリアがディヤウスの手入れをしていた。
カウンターの内側で、コラプスが釣り銭の箱を閉めていた。
奥の長椅子では、別働のクローザーとアイシアが、待機室から持ち帰った試走の記録を、端末で見返していた。
「支部長、二発目で当てた」クローザーが、不満そうに言った。
「あたしの癖、右じゃなくて下に見えるって。自分の目で、引く方向、直してた」
「すごいじゃん」チルダが言った。
「すごくない。ずるい」クローザーは、端末を睨んだ。
「人間が二発目で当たるように作ったって。それじゃ、あたしが一発で当てても、あんまり偉くない」
「偉いと思います」アイシアが言った。
「一発目で当てる人がいるから、二発目で当てられるように作れるんです」
クローザーは、黙った。それから、少しだけ機嫌を直したような顔をした。
チルダは、作業台の上に、葛城の甘缶を置いた。
「ボス。葛城閣下から。今日来ないって聞いたから、渡してくれって」
ルヴィリアは、甘缶を見下ろした。
「……そうか」
「あと、甘いもの食べると、ボスの顔が少し変わるから、見てやってくれって」
ルヴィリアは、手を止めた。
チルダは、作業台に頬杖をついて、じっとルヴィリアの顔を見ていた。
ルヴィリアは、甘缶を手に取って、作業台の引き出しにしまった。
「今は食べない」
「えー」
「お前が見ているからだ」
チルダは、声を立てて笑った。それから、少しだけ真面目な顔になった。
「ねえ、ボス。支部長、今日、砲手席に乗ったよ。上着、地面に投げて」
「記録で見た」
「次の型に、点検口付けるって」
ルヴィリアは、ディヤウスの銃身に、布を当て直した。
「なら、いい」
その夜、チルダは、作業台の隅で、元ネタの手帳を清書した。
最後の行まで書き写して、ペンを置いた。「今はまだ開けられない」。その四文字だけ、少しだけ丁寧に書いた。
それから、左の肩口に、指先を当てた。
継ぎ目のない、なめらかな表面。そこには、何もない。昔は、あった。
指は、そこを、ゆっくりとなぞった。




