境界区・狭間
第二十八区画「奥坑」の測量護衛は、予定より一日早く終わった。
採掘業者が無許可で掘り進めた坑道群を、事後に認定した区画。
その奥の、地図にない三本の坑道の入口に、企業連合の測量班が杭を打ち終えたのが、昼過ぎだった。
「帰りの便、取れてません」
仮設の拠点で、アイシアが端末から顔を上げた。
「欠航です。メビウスの社用機、三便とも」
ルヴィリアは、ディヤウスの銃身を布で拭く手を止めた。
「理由は?」
聞かなくても、ルヴィリアは次にアイシアが放つであろう言葉を予測していた。
「辰砂予報です。今夜から明朝にかけて、高空の磁気上昇。それと」アイシアは、画面を切り替えた。「鬼火帳の更新です。第十九区画と第二十二区画で、旧軍の高射砲の残骸が三基、新しく撃ち始めました。三基とも、高度八千まで届く型です」
チルダが、仮設の机の上で工具を片付けながら、ため息をついた。
「空の鬼火が目を覚ましたら、社用機は飛ばないもんね。一機落ちたら、保険がひどいことになる」
「次の便は」
「三日後です。予報が外れれば、ですが」
ルヴィリアは、布を置いた。
「陸で帰る」
アイシアが、すぐに別の画面を開いた。
地図だった。戦闘区の赤い区画の真ん中を、一本の細い線が、新都まで貫いていた。
「灰街道ですね」
「そうだ」
*
灰街道は、戦闘区を貫く、境界区の回廊だった。
もとは、旧陸軍の補給路だった。戦後、企業連合が、その道の両側の辰砂を掻き出し、鬼火を潰し、幅数百メートルの解放区として認定した。
どの企業の土地でもない。どの企業も通っていい。その代わり、どの企業も、自分の荷は自分で守る。
両側は、戦闘区のままだった。
「企業連の大手は、ほとんど空を使います。メビウスも」アイシアが言った。
「ですが、空は鬼火に狩られます。高射の残骸が一基目を覚ませば、その空域は数日間使えません。だから、中堅以下の企業は、多くが陸を使います。採掘の機材、食料、医薬品、回収した廃材。新都と、戦闘区の奥の拠点を結ぶ荷の、半分以上が、この道を通っています」
「半分以上」クローザーが、ダイダラを抱えたまま言った。
「空は、高いですから」
「陸は、安いの?」
「安い代わりに、狙われます」
アイシアは、地図の上の、いくつかの赤い印を指した。
赤い印は、灰街道の上に、点々と並んでいた。この半年の、襲撃の記録であった。
「鬼火もありますが、基本的には残党です」アイシアが言った。
「戦闘区の、侵食率の低い場所に住み着いた、大戦の残党の一部が、陸の車列を叩いています。空の荷には、手が届きませんから」
コラプスが、地図を覗き込んだ。
「空は、鬼火が狩って。陸は、人が狩るんだね」
ルヴィリアは、地図の上の赤い印を、しばらく見ていた。
「次の宿場で、車列に混ぜてもらう」
*
灰街道の九番宿は、夕暮れに着いた。
宿場といっても、建物は少なかった。古い旧軍の兵舎を改装した宿泊所が一棟。
給油所。修理場。それから、広い駐車場。そこに、いくつもの企業の車両が、所属ごとに固まって停まっていた。
採掘機材を積んだ大型の運搬車が六台。荷台に黒い防水布をかけた、食品会社の冷蔵車が四台。
白い車体に青い鳥の印を描いた、医薬品の輸送車が二台。
それから、錆びたトレーラーに、廃材を山のように積み上げた回収業者の車両が三台。
「……あ」
チルダが、錆びたトレーラーの方を見て、声を上げた。
トレーラーの荷台の上で、首の太い大男が、荷を縛る縄を引いていた。その下で、まだ若い作業着の男が、縄の端を押さえていた。
「ゴウダさん!」
大男が、荷台の上から振り返った。
「……チルダか? なんでこんなところに」
「帰りの便が欠航したの。陸で帰る」
ゴウダは、荷台から飛び降りた。地面が少し揺れた。
「Dollsが陸か。そりゃあ、珍しい。……おい、ケンタ、挨拶しろ。ジャンク屋の、チルダちゃんだ」
「知ってますよ。いつも行ってるじゃないですか」若い男が、縄を押さえたまま頭を下げた。
ゴウダは、チルダの後ろのルヴィリアを見て、少しだけ背筋を伸ばした。
「……店の、留守番の子から聞いたぞ。三割で手を打たされた。あの子、あんたの店の子か」
「コラプスだよ」チルダが、後ろを振り返った。「この子」
コラプスが、チルダの後ろから顔を出した。
「三割」
ゴウダは、しばらくコラプスを見ていた。それから、腹を抱えて笑った。
「本人か! いやあ、参った。あの子、四割と言ったら、ボスに言いつけるって言うんだ。ボスってのは、あんたか」
「そうだ」ルヴィリアが言った。
「なら、言いつけられなくてよかった」
*
車列の取りまとめは、採掘機材の運搬車を率いる、カナエ鉱業の護衛隊長だった。
尾形という、四十代の男だった。古い防弾服の上に、企業の腕章を巻いていた。歩き方と、目の配り方が、元兵士のものだった。
「メビウスの人形が、陸の車列に混ざると」
尾形は、ルヴィリアの耐磁ジャケットと、肩のディヤウスを、一度ずつ見た。
「歓迎はしますが、灰街道には灰街道の決まりがある。それを守ってもらいたい」
「聞こう」
尾形は、指を三本立てた。
「一つ。どの企業も、自分の荷は自分で守る。よその荷を守るのは、頼まれたときだけだ」
「二つ。撃っていいのは、回廊の中だけだ。回廊の外は戦闘区だ。外へ逃げた相手を、追って撃つな。追えば、鬼火と磁気で、こちらが死ぬ」
「三つ」尾形は、少しだけ声を落とした。「回廊の外に落ちた荷は、拾わない。どの企業も、そういう契約で保険をかけている。落ちた荷は、戦闘区のものだ」
ルヴィリアは、尾形を見た。
「残党は、それを知っているな」
尾形の目が、わずかに動いた。
「……知っています。故に厄介なのです」
「勝たなくていい」ルヴィリアは言った。
「荷を、回廊の外へ落とせばいい。それで、荷は自分たちのものになる」
尾形は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりとうなずいた。
*
その夜、宿泊所の食堂は、いくつもの企業の人間で混み合っていた。
カナエ鉱業の護衛たち。食品会社の運転手たち。医薬品の輸送車の、白い制服の女が二人。回収業者のゴウダとケンタ。それぞれの企業の人間が、それぞれの卓に固まって座っていた。
Dollsは、食堂の隅の卓に座った。
「ここ、企業ごとに、ちゃんと分かれて座るんだね」チルダが言った。
「自分の荷は、自分で守る。食堂でも、そういうことだろう」
アイシアが、医薬品の輸送車の二人を見ていた。
「白鷺製薬です。戦闘区の奥の、採掘拠点の診療所に、薬を届けた帰りです。帰りの荷は、新都の病院向けの、精製前の薬の原料」
「詳しいな」
「積荷の申告書は、宿場の端末に全部載っています」アイシアは言った。
「半年分の襲撃記録と、照らし合わせました」
「何か出たか」
アイシアは、端末をルヴィリアの方へ向けた。
「襲われた車列の荷は、採掘機材、食料、廃材、いろいろです。ですが、回廊の外へ落とされた荷だけを数えると」
画面に、数字が並んだ。
「七割が、医薬品です」
ルヴィリアは、画面を見つめた。
それから、食堂の向こうの、白い制服の二人を見た。
「……車列の荷の中で、白鷺の車が一番、狙われるということだな」
「はい」
クローザーが、ダイダラの照準から目を上げた。
「残党、病気の人がいるの?」
「分からない」
ルヴィリアは言った。「だが、薬を欲しがる理由は、だいたい一つだ」
*
車列は、明け方に九番宿を出た。
先頭に、カナエ鉱業の装甲車。その後ろに、採掘機材の運搬車が六台。食品会社の冷蔵車が四台。白鷺製薬の輸送車が二台。最後尾に、ゴウダの錆びたトレーラーが三台。
Dollsの物々しい戦闘車輛は、白鷺の二台のすぐ後ろについた。
尾形は、出発前に、それを見て眉を寄せた。
「頼まれていないぞ」
「頼まれていない」ルヴィリアは言った。
「ここが、一番撃ちやすい位置だというだけだ」
尾形は、何か言いかけて、やめた。
灰街道は、九番宿を過ぎると、少しずつ細くなっていった。
道の両側に、戦闘区の赤が迫ってきた。錆びた鉄骨。赤く染まった廃墟。崩れかけた旧軍の陣地。回廊の幅は、数百メートルから、二百、百五十と、だんだん狭まっていく。
回廊の端には、企業連合が立てた、白い杭が並んでいた。杭の内側が回廊で、外側が戦闘区。
杭と杭の間に、線は引かれていない。だが、杭の外側の地面は、打ち捨てられた辰砂粉末に染まっていた。
「……侵食率、外は中くらい」チルダが、輸送車の窓から外を見ていた。
「杭の一本外側から、色が変わってる」
「境界区は、掻き出した場所だからな。掻き出していない場所との差が、そのまま色に出る」
昼前、車列は「狭間」に差しかかった。
灰街道で、一番回廊の幅が狭い場所だった。旧軍の補給路が、二つの丘の間の切り通しを抜けていく。回廊の幅は、そこだけ八十メートルしかない。両側の丘の斜面は、どちらも戦闘区だった。
「鬼火帳です」アイシアが言った。「左の丘に一基、右の丘に一基。どちらも旧軍の機関砲の残骸。左は回廊の方を向いていません。右は」
「向いている」
「はい。ただ、射程の端です。車列の上を、斜めに撃ち越す角度になります」
コラプスが、輸送車の窓を少しだけ開けて、鼻先を出した。
吸気孔から、深く息を吸う。
一度。二度。
「……ガンオイル」
ルヴィリアは、ディヤウスを膝の上に引き寄せた。
「何人だ」
「十、より多い。十五、くらい。両方の丘に、分かれてる」コラプスは、目を細めた。
「手入れしてる銃の匂い。毎日、ちゃんと。……団地の子たちとは、違う。怖がってない」
「芯ばかり、ということか」
「うん。たぶん、みんな、慣れてる人」
ルヴィリアは、通信を開いた。
「尾形。狭間に、待ち伏せがいる。両側の丘に、十五」
一拍、間があった。
『……どうして分かる』
「匂いだ」
また、一拍。
『止まれば、狭間の真ん中で囲まれる。抜ける』
「それでいい。突き進め」
最初の一発は、右の丘からだった。
先頭の装甲車の前輪の前で、地面が弾けた。威嚇だった。装甲車は止まらなかった。そのまま、狭間の切り通しへ突っ込んでいく。
二発目と三発目が、ほとんど同時に来た。
右の丘の機関砲の鬼火が、低い唸りを上げて撃った。
誰の命令でもない砲弾が、車列の上を斜めに撃ち越して、左の丘の斜面に落ちた。その砲声に重ねて、右の丘から、正確な二発。
採掘機材の運搬車の三台目の、右の前輪が撃ち抜かれた。
運搬車が、大きく右へ傾いた。回廊の右端の、白い杭の方へ。
『三号車、タイヤをやられた!』
『止まるな! 引きずってでも走れ!』
尾形の怒鳴り声が、通信に響いた。
「……鬼火の砲声に、合わせて撃ってる」クローザーが言った。
「十四番の狙撃手と、同じ手だ」
「同じ人?」
「違う。だが、同じ教本だ」
ルヴィリアは、輸送車の天井の扉を開けて、上半身を出した。
右の丘の斜面。赤く染まった岩の陰。そこから、こちらを狙っている銃口が、少なくとも三つ。
「クローザー。右の丘の、鬼火の拍を取れ」
「もう、取ってる」
クローザーは、輸送車の後部の銃座に、ダイダラを据えていた。
「長いのが二つ、短いのが一つ。……でも、あの人たち、十四番の人より、雑。拍の、ちょっと後ろで撃ってる」
「当てられるか」
「当てられる。でも」
クローザーは、照準を覗いたまま、少しだけ言葉を切った。
「あの人たち、回廊の外にいる」
ルヴィリアは、右の丘の、白い杭の列を見た。
狙撃手たちは、杭の、さらに外側にいた。戦闘区の中に。
二つ目の決まり。撃っていいのは、回廊の中だけだ。
「……向こうも、決まりを知っている」
「どうする、指揮官」
ルヴィリアは、一瞬だけ考えた。
「回廊の中に向けて撃ってくる銃口は、撃っていい。撃つのは、銃だけだ。人は撃つな。外へ逃げたら、追うな」
「了解」
ダイダラが、短い拍に合わせて、一度吼えた。
右の丘の岩の陰で、小さな金属の音がした。銃口が一つ、消えた。
狭間の真ん中で、車列が詰まった。
右の前輪を撃ち抜かれた三号車が、回廊の右端の杭の手前で傾いたまま、のろのろと進んでいた。その後ろの運搬車と冷蔵車が、三号車を避けきれずに、速度を落としていた。
白鷺の二台は、その真後ろだった。
左の丘から、撃ってきた。
今度は、狙いが違った。
白鷺の一号車の、荷台の留め具。二発、三発。荷台の後ろの扉の蝶番が、弾けた。
扉が、半分開いた。
荷台の中の木箱が、揺れた。
「……荷を、落としに来てる」チルダが言った。
白鷺の一号車は、回廊の左端を走っていた。左の杭まで、十メートルもない。荷台から木箱が転がり落ちれば、そのまま斜面を転がって、杭の外へ出る。
杭の外に落ちた荷は、拾わない。
「アイシア」
「はい」
「向こうの無線を、拾えるか」
「もう、拾っています」アイシアは、端末を膝の上で開いていた。「ただ、通常の言葉ではありません。数字と、短い符丁の組み合わせです。旧陸軍の、前線用の符丁だと思います」
「流せ」
輸送車の中に、雑音混じりの声が流れた。
『……二の三、鷺の一、扉、半。四の一、続けて留め。五の二、鉄の三、押せ。杭まで五』
ルヴィリアは、その声を、黙って聞いていた。
符丁の意味は、全部分かった。
二番隊の三番目の射手が、白鷺の一号車の扉を半分開けた。四番隊の一番目が、続けて荷の留め具を撃て。五番隊の二番目が、採掘機材の三号車を、杭まで押し出せ。杭まで、あと五メートル。
少佐の記憶の中にある、前線の言葉だった。
「……指揮官?」
「左の丘に、射手が四。右に、三。残りは、斜面の下の陣地で、杭の外へ荷を引き込む役だ」ルヴィリアは言った。
「三号車を杭の外へ押し出して、それで回廊を塞ぐ。後続を止めて、白鷺の荷を落とす。そういう段取りだ」
チルダが、目を見開いた。
「……今の、全部分かったの」
「昔、使っていた言葉だ」
*
ルヴィリアは、通信を開いた。
「尾形。三号車を、杭から離せ。左へ寄せろ。右の杭の外へ押し出されれば、後ろが全部止まる」
『……左に寄せたら、白鷺の車とぶつかる』
「ぶつけていい。白鷺の車を、左の杭から引き離せる」
通信の向こうで、尾形が、一瞬だけ黙った。
『……三号車、左へ切れ! 白鷺の一号に、寄せろ! 押し合え!』
三号車が、傾いたまま、左へ切った。白鷺の一号車の右側に、運搬車の巨体が寄っていく。金属がこすれる音。白鷺の一号車が、押されるようにして、左の杭から離れた。
二台が、並んで、もつれるように走り始めた。
その瞬間、白鷺の一号車の、半分開いた荷台の扉から、木箱が一つ、こぼれ落ちた。
木箱は、地面に叩きつけられて、跳ねた。二度。三度。左の斜面の方へ転がっていく。
杭まで、八メートル。
コラプスが、輸送車の扉を開けていた。
「コラプス」
「行く」
コラプスは、地面に飛び降りた。吸気孔が、全開になった。瞳が、シアンからマゼンタへ移った。
左の丘から、コラプスを狙って撃ってきた。足元の地面が、三度、弾けた。コラプスは、跳ばなかった。真っ直ぐに、木箱へ走った。
木箱が、杭の手前で、斜面の段差に引っかかって止まった。
杭まで、一メートル。
コラプスの手が、木箱の縁をつかんだ。
その向こうで、杭の外の斜面から、男が一人、身を起こした。
男は、五十を過ぎていた。灰色の野戦服。片方の脚が、膝から下、古い義足だった。手に、拳銃を持っていた。銃口は、コラプスではなく、木箱に向いていた。
杭を挟んで、二人は向き合った。
コラプスは、木箱の縁をつかんだまま、動かなかった。
男も、動かなかった。
杭の内側と、外側。一メートルの距離。
「……その箱を、離せ」男が言った。
「離したら、落ちる」
「落ちれば、俺たちのものだ」
コラプスは、鼻を動かした。男の匂いを、吸い込んだ。
「……薬の匂いがする。あなたから。古い、包帯の匂い」コラプスは言った。「誰か、怪我してるの」
男の顔が、わずかに歪んだ。
「人形には、関係ない」
背後から、ルヴィリアの声がした。
「コラプス、今は箱を離すな!」
ルヴィリアが、杭の内側に立っていた。ディヤウスは、肩に掛けたままだった。銃口は、下を向いていた。
男は、ルヴィリアを見た。耐磁ジャケット。シアンの瞳。
「……さっきの、回廊の動かし方。お前か」
「そうだ」
「三号車を、鷺の一に寄せた。あれは、こっちの符丁を聞いていなければ、できん動きだ」男は、ルヴィリアを睨んだ。
「人形が、前線の符丁を読むのか」
「読める」
「どこで覚えた」
ルヴィリアは、答えなかった。
男は、しばらく、ルヴィリアを見ていた。それから、ほんの少しだけ、口の端を歪めた。
「……答えないか。まあいい」
狭間の両側で、銃声が止んでいた。
クローザーが、右の丘の射手の銃を、三つとも撃ち落としていた。
左の丘の射手は、二人がまだ残っていたが、撃つのをやめていた。杭の内側と外側で向き合っている男を、見ているのだった。
車列は、狭間を抜けかけていた。先頭の装甲車は、もう切り通しの向こうに出ていた。三号車と白鷺の一号車も、もつれ合ったまま、杭から離れていた。
残っているのは、杭の手前の、木箱一つだけだった。
「宇津木だ」男が言った。
「この辺りの、街道衆のまとめ役をやっている」
「街道衆」
「灰街道の両側に住んでる連中のことを、企業の連中がそう呼ぶ。俺たちが名乗ったわけじゃない」
宇津木は、拳銃を下ろした。だが、手からは離さなかった。
「その箱の中身は、熱冷ましと、化膿止めだ。白鷺の、精製前の原料。俺たちの集落には、それを薬にできる、元の衛生兵がいる」
「病人がいるのか」
「冬の前だ。毎年、熱が出る。子供から、先に倒れる」
コラプスが、木箱の縁をつかんだまま、ルヴィリアを見上げた。
ルヴィリアは、宇津木を見ていた。
「白鷺に、買いに行けばいい」
「売ってくれると思うか。台帳に載っていない集落に。企業の診療所は、企業の社員しか診ない」宇津木は、乾いた声で言った。「だから、落とす。落ちた荷は、戦闘区のものだ。企業の決まりだ。俺たちは、企業の決まりの中でしか、生きられない」
ルヴィリアは、しばらく、何も言わなかった。
背後で、足音がした。尾形だった。装甲車から降りて、走ってきたのだった。その後ろに、白鷺の白い制服の女が一人、ついてきていた。
尾形は、杭の内側の木箱と、杭の外側の宇津木を見て、立ち止まった。
「……人形。その箱は、回廊の中だ。白鷺の荷だ」
「分かっている」
「なら、回収しろ。それで、終わりだ」
ルヴィリアは、尾形を振り返らなかった。
杭の手前の、木箱を見ていた。杭まで、一メートル。
杭の内側にあれば、白鷺の荷だ。杭の外側にあれば、戦闘区のものだ。
そのたった一メートルが、灰街道の決まりのすべてだった。
白鷺の制服の女が、尾形の後ろから、一歩出た。
まだ若かった。二十代の半ば。胸の名札に、青い鳥の印と、「榊」という名前があった。
「……その箱の中身、熱冷ましと化膿止めの原料です。この人の言うとおり」
尾形が、振り返った。
「榊さん」
「新都の病院向けの、追加の分です」榊は、木箱を見つめていた。「一箱足りなくても、新都の病院は、誰も困りません。在庫があります」
「それは、白鷺が決めることだ」
「私が、白鷺です。この車列の、白鷺の責任者は私です」
榊は、杭の手前まで歩いてきた。コラプスの隣に、しゃがんだ。木箱の縁に、手を置いた。
それから、宇津木を見上げた。
「……落ちた荷は、拾えないんです。私たちの契約では」
宇津木は、黙って、榊を見ていた。
「でも、まだ落ちていない荷を、落とすかどうかを決めるのは」榊は、少しだけ声を震わせた。
「私の、仕事だと思います」
榊は、コラプスの手を、そっと木箱から外した。
それから、木箱を、両手で、杭の外へ押した。
木箱は、斜面の段差を越えて、杭の一メートル外側の、赤い地面の上で止まった。
戦闘区の、ものになった。
*
誰も、何も言わなかった。
尾形は、長いあいだ、榊の背中を見ていた。それから、深く息を吐いて、帽子を脱いで、頭を掻いた。
「……報告書には、荷崩れで一箱落ちた、と書く」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。俺は、見ていなかった」
宇津木は、赤い地面の上の木箱を見下ろしていた。それから、拳銃を腰に戻して、木箱を、義足でない方の足で、自分の方へ引き寄せた。
「……一箱で、冬は越せん」
「分かっています」榊が言った。
「だが、一箱あれば、子供の分は足りる」
宇津木は、木箱を肩に担いだ。義足が、赤い地面に、深く沈んだ。
それから、ルヴィリアを見た。
「人形。お前の符丁の読み方は、旧陸軍の、第七の連中の癖だった」
ルヴィリアは、何も答えなかった。
「第七は、帰った連中が多かったと聞いている」宇津木は言った。「俺の隊は、ほとんど帰らなかった。帰っても、俺たちの灯りは、どこにもなかったからな」
「……知っている」
宇津木は、眉を寄せた。
それから、何も訊かずに、背を向けた。木箱を担いで、赤い斜面を、ゆっくりと登っていった。
左の丘の射手たちが、それに続いた。右の丘の、銃を撃ち落とされた射手たちも、斜面の向こうへ消えていった。
クローザーが、輸送車の銃座から、照準を覗いたまま言った。
「指揮官。宇津木って人の背中、撃てるけど」
「撃つなっ」
「……知ってた」クローザーは、照準から目を離した。
「一応、訊いただけ」
「あれは、もう戦闘区のものだ」
*
車列は、日が傾く前に、灰街道の終点に着いた。
新都の北の外れの、企業連合の検問所。そこで、各企業の車両が、所属ごとに散っていく。カナエ鉱業の運搬車は北の倉庫へ。食品会社の冷蔵車は中央区の市場へ。白鷺製薬の二台は、新都の病院へ。
ゴウダのトレーラーは、検問所の脇で、荷の縄を締め直していた。
「いやあ、今日は肝が冷えた」ゴウダが、荷台の上から言った。
「狭間で止まったら、うちの廃材なんか、真っ先に杭の外へ押し出されてるところだった」
「廃材なんか狙われないよ」チルダが言った。「落としても、向こうも要らないから」
「そりゃあ、そうか」ゴウダは、また腹を抱えて笑った。「要らないものは、安全か。ジャンク屋と、同じだな」
「ジャンク屋は、要らないものを要るものにする商売だよ」
「言うねえ」
ケンタが、トレーラーの運転席から顔を出した。
「チルダさん、また店、行きます。親方が、今度は二割で手を打つって言ってました」
「言ってない!」ゴウダが怒鳴った。
尾形は、検問所の詰所の前で、報告書を書いていた。
ルヴィリアが近づくと、顔を上げた。
「……人形。一つ、訊いていいか」
「何だ」
「あんたは、最初から、あの箱を落とさせるつもりだったのか」
ルヴィリアは、少しだけ、間を置いた。
「いや」
「じゃあ、なぜ、杭の手前で、何もしなかった」
「決めるのは、私ではなかった」
尾形は、ペンを止めた。
「白鷺の荷だ。白鷺が決めることだ」ルヴィリアは言った。「あなたが、そう言った」
尾形は、しばらく、ルヴィリアを見ていた。それから、短く笑った。
「……自分の荷は、自分で守る、か」
「灰街道の決まりだ」
尾形は、報告書に目を戻した。
《狭間にて、街道衆の襲撃。死傷者なし。三号車、右前輪損傷。白鷺製薬一号車、荷崩れにより一箱、回廊外へ落下。規定により、回収せず》
「次も、陸で帰るのか」尾形が訊いた。
「空が飛べなければな」
「そのときは、また白鷺の後ろにつけ。頼まれなくても」
「頼まれなくても、そこに立つ」
尾形は、ペンを走らせながら、小さくうなずいた。
その夜、ジャンク屋の作業台の上で、アイシアが報告書の下書きを打っていた。
「指揮官。灰街道の襲撃記録、半年分。回廊の外へ落とされた荷の七割が、医薬品です。この数字、統括への報告に、入れますか」
「入れろ」
「……街道衆の集落に、病人がいることも、ですか」
ルヴィリアは、ディヤウスの銃身を拭く手を止めた。
「数字だけ入れろ。理由は、統括が読み取る」
「分かりました」
カウンターの内側で、コラプスが、自分の手を見下ろしていた。木箱の縁を、つかんでいた手だった。
「ねえ、ルヴィリア」
「なんだ」
「あの箱、わたし、離さなかった」
「離さなかったな」
「でも、榊さんが、押した」コラプスは、手のひらを握ったり開いたりしていた。「わたし、離さなくて、よかったのかな」
ルヴィリアは、少しだけ考えた。
「お前が離さなかったから、榊は、自分で押すことができた」
コラプスは、目を瞬いた。
「お前が離していたら、箱は落ちていた。誰も決めないまま、決まりのとおりに、戦闘区のものになっていた」ルヴィリアは言った。
「お前が杭の手前で持っていたから、白鷺の人間が、自分の荷を、自分で決められた」
コラプスは、しばらく、自分の手のひらを見ていた。
それから、その手を、カウンターの上に、そっと置いた。
「……そっか」
奥の長椅子で、クローザーが端末の盤面を開いていた。
「指揮官。宇津木って人、狙撃手は、十四番のニレさんより、下手だった」
「そうか」
「でも、符丁は、上手だった。あれ、全部分かったの、すごい」
「昔の言葉だ」
「あたしにも、教えて。灯籠と打つとき、符丁で話したら、勝てるかも」
チルダが、作業台の向こうで、吹き出した。
「盤で符丁使っても、灯籠ちゃんには通じないでしょ」
「通じないから、勝てる」
「それ、ずるいって言うんだよ」
ルヴィリアは、ディヤウスを作業台に置いた。
窓の外は、白い光の街だった。
その北の外れから、灰街道が、戦闘区の赤い闇の中へ、一本の細い線になって伸びている。両側に、白い杭。
杭の外に、街道衆の集落。台帳に載っていない、自分たちで点けた灯り。
その灯りの一つに、今夜、一箱分の薬が届いている。




