芯と枝
夕方のジャンク屋は、いつも少しだけ騒がしい。
チルダは作業台で、乾物屋の老人が持ち込んだ二台目のラジオを開けていた。
カウンターの内側では、コラプスが釣り銭を数えている。店番を任されてから、数え方だけは誰よりも速くなった。
店の奥の長椅子では、クローザーが端末に覆いかぶさっていた。画面には錆鉄の盤。
大戦時のボードゲームを電子上で再現した、陣取りゲームである。
〈ルミナ〉の対局室で、相手の名前は「灯籠」。
「……むかつく」
「負けてる?」チルダが顔を上げずに訊いた。
「負けてない。悩まされてるだけ」
作業台の向こう端で、ルヴィリアはディヤウスの銃身を拭いていた。
布を動かす手を止めずに、店の扉の方へ目をやった。
扉が開いて、中央区まで買い出しに行っていたアイシアが入ってきた。いつもなら挨拶から始める彼女が、何も言わずにまっすぐ作業台の前まで来た。
「指揮官。統括から、直通です」
ルヴィリアは布を置いた。アイシアの差し出した端末を受け取る。
『ルヴィ』
蘇芳の声は、いつもより一段低かった。
「統括」
『第十四区画の中継倉庫が落ちた。十四番だ。一時間前、武装集団に制圧された。物流部の職員が、丸々中に残っている』
カウンターの内側で、コラプスが釣り銭を数える手を止めた。クローザーが端末から顔を上げた。
「規模は」
『二十前後。名乗りは「メガリス」。統制は粗い。倉庫の監視映像を見る限り、ほとんどが銃の持ち方も知らん子供だ』
蘇芳は、そこで一度、言葉を切った。
『だが、歩哨の立て方が旧軍だ。射線の取り方もな。誰かが、ちゃんと教えている』
ルヴィリアは、短く息を吐いた。吸気孔の奥で、冷えた空気が回った。
「要求は」
『まだだ。だが、時間の問題だろう。十四番には、精製前の辰砂の封缶が四十本ある。それが向こうの手の中だ』
「了解しました。出ます」
『頼む』
通信が切れた。
ルヴィリアは、ディヤウスを肩に掛けて立ち上がった。
チルダはもう、ラジオの裏蓋を閉めて、工具袋を引き寄せていた。
コラプスは釣り銭の箱に蓋をして、店の札を「本日閉店」に裏返している。
クローザーは、端末の盤面を一度だけ見下ろした。
「……灯籠に、中断するって送っておく」
「送れ」
「投了じゃないから」クローザーは念を押した。「中断だから」
「分かっている」
アイシアが扉を開けた。外では、もう武装車輛が唸っていた。
武装車輛は、新都の北の外れから戦闘区へ出た。
第一区画「正門」を抜けると、道路の街灯が途切れる。
窓の外が、少しずつ赤みを帯びた闇に変わっていく。
荷台の中央の机に、アイシアが映像を広げた。
十四番の倉庫に残っている監視カメラのうち、まだ生きている七台の映像だった。
「物流部の内部回線から入りました。向こうはカメラの存在に気づいていますが、全部は潰しきれていません」
映像の中で、若い男たちが倉庫の敷地を歩き回っていた。
旧式の小銃を、杖のように肩に担いでいる者。銃口を下に向けて引きずっている者。物陰で煙草を回している者。
「十六、十七……」チルダが、指で数えた。「若いねぇ。これ、ほとんど十代でしょ」
「持ち方がひどい」クローザーが言った。「あれ、撃ったら自分の肩が壊れる」
アイシアが、別のカメラに切り替えた。
倉庫の屋根の角。給水塔の陰。積み上げた資材の隙間。どこにも人の姿は映っていない。
「こちらは、何も映っていない区域です。ただ」
アイシアが映像を重ねた。三つの空白の地点から、それぞれ線を伸ばす。線は、倉庫の正面の搬入路で交わった。
「この三点から、搬入路全体が射線に入ります。素人が偶然に選べる配置ではありません」
ルヴィリアは、その三本の線を、しばらく黙って見ていた。
「狙撃が一。重火器が一。残りの一点は、たぶん指揮だ」
「三人?」コラプスが訊いた。
「芯は、二人か三人だろう。残りの十七、八は、数合わせだ」
ルヴィリアは、映像の中の若者たちと、空白の三点を見比べた。
「下っ端は素人。だが、芯に手練れがいる」
それから、荷台の中を見回した。
作業着のまま工具袋を抱えたチルダ。
端末を膝に乗せたアイシア。
ダイダラの銃身に頬を寄せているクローザー。マスクの束を首から下げたコラプス。
「……奇しくも、こちらも同じ条件だな」
一拍、間があった。
「ちょっと待って」チルダが言った。「素人って、誰のこと」
「私は副官です」アイシアが言った。
「わたし、新しいだけで、弱くはないよ」コラプスが言った。
クローザーは、何も言わずにダイダラの照準を覗いていた。自分は勘定に入っていないと分かっているときの、静かな顔だった。
「戦の、だ」ルヴィリアは言った。「銃を撃って、人を倒す。それの玄人は、ここに二人しかいない」
「二人って、ボスとクローザー?」
「そうだ」
チルダは、不満そうに唇を曲げた。それから、少し考えて、肩をすくめた。
「……まあ、それは、そう」
午後九時を回ったところで、全周波数に声が流れた。
『メビウス・テクノロジーズに告ぐ』
男の声だった。若くはない。言葉の区切り方が、無線に慣れた人間のものだった。
『こちらはメガリス。第十四区画中継倉庫を占拠した。職員と、辰砂の封缶四十本を預かっている』
アイシアが、声の発信源を探る。指先が端末の上を走った。
『要求は一つ。第十一区画の採掘権を放棄しろ。あそこには人が住んでいる。お前たちの重機が入れば、俺たちの家は崩される』
チルダが、顔を上げた。
「団地だ」
『期限は、明朝四時。それまでに放棄の公示がなければ、封缶を開ける。十四番は、倉庫ごと赤くなる』
通信が切れた。
荷台の中が、しばらく静かになった。
「……第十一区画の採掘権、先月の入札でメビウスが落としてます」アイシアが言った。
「侵食率が中程度で、ちょうど掘り頃だと判断されたんでしょう」
「住んでる人がいるのに?」コラプスが訊いた。
「戦闘区の住民は、表向き住んでいないことになっています」
ルヴィリアは、窓の外の赤い闇を見ていた。
「四時、という数字に、意味があるはずだ」
アイシアが、すぐに耐磁端末の中の辰砂予報を開いた。
「……あります。明朝四時、第十四区画、磁気上昇。予報は中規模です」
「磁気が上がる時刻に合わせて、期限を切ったか」
「どうして?」
「通信が乱れる。こちらの機械も鈍る。向こうは、旧式の、機械の少ない装備だ。磁気が上がって困るのは、こちらの方が多い」
ルヴィリアは、ディヤウスの銃身に手を置いた。
「それに、封缶がある以上、EMPは撃てない。倉庫の近くでは、ディヤウスは使えない」
「つまり」クローザーが、照準から目を離した。「撃てる玄人は、一人だけ」
「そういうことだ」
クローザーは、ダイダラを抱え直した。
「じゃあ、狙撃の手練れは、あたしの番だね」
*
午後十一時。武装車輛は、十四番の倉庫から二キロ手前の尾根で止まった。
尾根の上からは、倉庫の灯りが見えた。廃墟の中に一つだけ、整った白い光。メビウスの物流網の、中継地点の一つ。採掘区から運び出された辰砂の封缶が、ここで一度積み替えられて、新都の精製ラインへ向かう。
コラプスが、尾根の縁に膝をついた。マスクを外して、吸気孔から深く息を吸う。
一度。二度。
「……ガンオイル。古いやつ。たくさん」
「何人分だ」
「二十、ないくらい。十八か、十九」コラプスは、目を細めた。瞳の奥で、シアンが揺れていた。「それと、汗。怖がってる人の汗。若い匂い」
「芯の方は」
コラプスは、もう一度、息を吸った。
「……三つ、違う匂いがある。怖がってない人の匂い。一つは、高いところ。給水塔の方。もう一つは、倉庫の、正面の左。油が多い。重たい機械の匂い」
「三つ目は」
「倉庫の中。……古い義手の匂いがする。蘇芳の腕と、似てる」
ルヴィリアは、何も言わなかった。
「辰砂は」
「封缶の匂いは、薄い。まだ、閉まってる」
チルダが、望遠鏡を覗いていた。倉庫の前を歩く若者たちの手元を、一人ずつ見ていく。
「……あの子たちの銃、旧陸軍の三八式改。うちの店にも、二丁ある。動くやつは」
チルダは、一人を指さした。「あれと、あれ。それから、奥の背の高い子。残りは、たぶん撃っても三発目くらいでドカン。おそらくそこら辺に転がってたやつそのまま、手入れしてない」
「数えたのか?」
「売り物の見立てと同じだよ」チルダは望遠鏡を下ろした。
「どれが動いて、どれが動かないか。見れば分かる」
アイシアは、車輛の荷台で、倉庫の内部回線をたどっていた。
「人質の位置、確認しました。事務所棟の二階。六人とも生きています。見張りは、若い男が二人だけ」
「封缶は」
「倉庫の奥の保管区画です。……起爆装置が付いています。旧陸軍の規格の信号が、一つだけ出ています。でも、これは」
アイシアが眉を寄せた。
「無線ではありません。手元のスイッチから、有線でつながっています。私の妨害では、止められません」
「握っている人間がいる、ということだな」
「はい」
ルヴィリアは、倉庫の方を見た。古い義手の匂い。倉庫の中。
「クローザー」
「うん」
クローザーは、もう尾根の岩の陰に伏せていた。ダイダラの銃身を、岩の割れ目に沈めている。
「給水塔の狙撃手を、止められるか」
「止める」クローザーは、照準を覗いたまま答えた。「でも、少し時間がかかる。あの人、まだ一回も顔を出してない」
「一回も、か」
「最初に、倉庫の警備員を一人撃ってる。物流部の記録だと、そのとき、すぐ横の鬼火も撃ってる」
アイシアが、すぐに鬼火帳を開いた。
「十四番の鬼火……あります。倉庫から西に四百メートル。旧軍の自走砲の残骸。発砲間隔は、不規則、と記載されています」
クローザーは、照準から目を離さないまま、少しだけ口の端を上げた。
「不規則じゃないよ、たぶん」
*
鬼火が撃った。
西の暗闇で、赤い光が一つ跳ねた。
少し遅れて、腹の底に響く音。自走砲の残骸が、もう誰もいない方角へ、誰の命令でもなく弾を撃ち出していた。
「……一回目」
クローザーが数えた。
アイシアが、輸送車の集音器で音を拾い、時刻を刻んでいく。
二回目。三回目。四回目。
「間隔は、四十一秒、四十二秒、十三秒、四十一秒」アイシアが読み上げた。「鬼火帳の記録では、不規則です。でも、これは」
「長いのが三つ、短いのが一つ」クローザーが言った。「繰り返してる。砲の中で、何かが一回だけ空回りしてるんだ」
「鬼火帳には、そう書いていません」
「書いた人は、一晩中ここで聞いてないから」
クローザーは、照準の中の給水塔を見ていた。
「でも、あの人は聞いてる。ずっと前から。たぶん、何年も」
五回目。長い間隔。
その砲声に重なって、尾根の岩が、クローザーの頭の右で弾けた。
岩の欠片が、頬をかすめた。ナノテックスーツの肩に、細かい砂が降った。
「クローザー!」
「平気」クローザーは、身じろぎもしなかった。「……上手い」
砲声に重ねて撃てば、発砲の音も光も、鬼火のものに紛れる。どこから撃ったか分からない。それだけではなかった。
「あの人、スコープ使ってない」クローザーが言った。「この辺、磁気で光学系がずれるから。鉄の照門と照星で、二キロ近くを当ててくる」
「当てて、いないぞ」
「わざと外した」クローザーは、低い声で言った。「あたしが見えてる、って教えてきたんだ。……盤の上で、一手目に、隅を取られた感じ」
ルヴィリアは、伏せたまま言った。
「勝てるか」
クローザーは、すぐには答えなかった。
「灯籠」と打つとき、クローザーは、相手の手を三手先まで読む。
だが灯籠は、ときどき、読みの外から手を打ってくる。だから、六勝六敗のままなのだ。
「……拍は、もう分かった」クローザーは言った。「長いのが三つ、短いのが一つ。あの人は、短いのには合わせない。間に合わないから。長い方の、どれかで撃つ」
「どれだ」
「分からない。だから」
クローザーは、ダイダラの照準を、給水塔の陰の、ある一点に固定した。
「短い方で、あたしが撃つ」
アイシアが息を呑んだ。
「十三秒の方で、ですか。そこだけ、あの人は撃ってこない。だから、あの人はそこで顔を出す。次の長いのに合わせて、構え直すために」
「十三秒あれば、十分」
六回目。長い。
七回目。長い。
八回目。長い。
クローザーの指は、動かなかった。
九回目。短い。
鬼火の砲声が、西の闇を割った。その音が消えきる前に、ダイダラが一度だけ鳴った。
給水塔の陰で、小さな金属の音がした。
それきり、十回目の砲声に、狙撃は重ならなかった。
「……当たった?」コラプスが訊いた。
「銃の機関部」クローザーは、照準を覗いたまま言った。「あと、たぶん右手の指が二本。命は大丈夫。もう、撃てない」
アイシアが、集音器の音量を上げた。給水塔の方から、かすかに、女の声がした。
誰に向けたものでもない、ひとりごとだった。
『……若いのに、いい腕だ』
クローザーは、それを聞いて、照準から目を離した。
「ねえ、指揮官」
「なんだ」
「あの人と、終わったら、もう一局やりたい」
ルヴィリアは、少しだけ口の端を緩めた。
「終わったらな」
*
午前一時。ルヴィリアとコラプスとチルダは、倉庫の東の側溝を伝って、敷地の中へ入った。
アイシアは輸送車に残り、倉庫の通信を半分だけ妨害した。全部を潰せば、中の指揮官は異常に気づいて、スイッチに手をかけるかもしれない。だから、若者たちの持っている安物の無線だけを、雑音で埋めた。
「みんな、仲間と話せなくなってる」コラプスが、側溝の中で鼻を動かした。
「怖い匂いが、強くなった」
「それでいい。素人は、声が聞こえなくなると、自分の持ち場から動かなくなる」
「動いたら?」
「そのときは、お前の鼻の出番だ」
側溝の出口で、コラプスが手を上げた。
すぐ先の積み荷の陰に、若者が一人いた。小銃を胸に抱えて、震えながら、壊れた無線機を何度も叩いている。
コラプスは、音もなく、その背後に回った。
若者が振り向いた。
銃口が、コラプスの胸に向いた。ガタガタと震えていた。
「う、動くな!」
コラプスは、動かなかった。瞳の奥で、シアンがゆっくりとマゼンタに傾きかけた。
「それ、安全装置、かかったまま」
若者は、反射的に自分の銃を見下ろした。
その一瞬で、コラプスの手が銃身をつかんでいた。
引き抜くでもなく、ただ、横に向けた。若者の指は、引き金にかかったままだった。だが、銃口はもう、誰の方も向いていなかった。
「……あ」
若者の膝が、崩れた。
それを確認したコラプスは、若者の手から銃をゆっくりと引っこ抜いた。
ルヴィリアが、積み荷の陰に入ってきて、若者の前にしゃがんだ。
十六か、十七。痩せていて、作業着の袖が、手首の上で擦り切れていた。
「名前は」
「……トキサカ」
「団地の者か」
トキサカは、ゆっくりとうなずいた。
「久我さんが、言ったんだ。メビウスの倉庫を押さえれば、採掘権を取り下げさせられるって。手当も出すって。団地の、みんなのために」
「久我、というのが、倉庫の中にいる男か」
「……曹長だった人だ。戦争のとき。団地の、まとめ役で」
チルダが、コラプスの手から、そっと小銃を抜き取った。
ボルトを引いて、薬室を覗き込む。
「……あんた、この銃で撃ってたら、三発目で暴発してたよ。薬室に赤錆。辰砂が食ってる」
トキサカは、何を言われているのか分からない顔で、チルダを見上げた。
「他の子のも、半分くらい同じ。久我って人は、知ってたのかな」
「……知らない、と思う。久我さんは、自分の銃しか手入れしないから」
ルヴィリアは、しばらく、トキサカの擦り切れた袖を見ていた。
「トキサカ。お前に、一つ頼みがある」
「……なに」
「無線が通じなくなって、みんな怖がっている。お前は、団地の連中の顔を、全部知っているな」
「知ってる。……ちっちゃいころから」
「一人ずつ、声をかけて回れ。銃を置いて、北の道から団地へ帰れ、と。誰にも撃たれない。私たちは、お前たちを撃ちに来たんじゃない」
トキサカは、目を見開いた。
「……逃げたら、久我さんが」
「久我は、俺が引き受ける」
コラプスが、少し驚いた顔でルヴィリアを見た。一人称が、いつもと違っていた。ルヴィリア自身は、それに気づいていないようだった。
トキサカは、しばらく黙っていた。それから、震えの残る足で、立ち上がった。
「……北の道」
「そうだ。灯りの消えた方じゃない。団地の、灯りのある方だ」
トキサカは、もう一度うなずいて、積み荷の陰を出ていった。
その背中を見送りながら、チルダが小声で言った。
「ボス、今、『俺』って言ってた」
「……言ったか?」
「言ってた」
ルヴィリアは、何も答えずに、倉庫の方へ向き直った。
午前二時。若者たちは、一人、また一人と、持ち場を離れていった。
アイシアが、残りのカメラで数を数えた。
「残り、四人です。いえ、三人。……若い子は、事務所の見張りの二人だけになりました」
「芯の方は」
「倉庫の正面の左、重火器の位置から、一人が動きました。こちらへ向かっています」
コラプスが、鼻を上げた。
「油の、重たい匂い。来る」
*
男は、倉庫の角を曲がって現れた。
背は高くない。だが、肩が異様に厚い。
旧陸軍の重機関銃を、台座ごと抱えていた。弾帯が、肩から腰へ二重に巻かれている。
「若いのを散らしたのは、お前らか」
男の声は、低く、乾いていた。
「番場だ。久我の、昔の部下だよ」
番場は、重機関銃の銃口を、まっすぐルヴィリアに向けた。
「戦争の時から、ずっと、あいつの後ろで撃ってきた。若いのが逃げたなら、俺がその分を撃つだけだ」
ルヴィリアが半歩、前に出ようとした。
その前に、コラプスが出た。
「ルヴィリアは、中」
「コラプス」
「わたし、この人の匂い、嫌いじゃない」コラプスは、番場から目を離さずに言った。
「油の匂い。ちゃんと、毎日手入れしてる人の匂い。でも、だから、ルヴィリアは中に行って。この人とは、わたしがやる」
番場が、眉を上げた。
「嬢ちゃん、それは、人形が言う台詞じゃないな」
「人形じゃないよ」コラプスは言った。「コラプス。Dollsの、五番目」
ルヴィリアは、一瞬だけ迷った。それから、チルダの肩を叩いた。
「行くぞ」
二人が倉庫の側面の扉へ消えるのと同時に、重機関銃が火を噴いた。
コラプスは、走った。
吸気孔が、全開になった。普通の機体の一・八倍の空気を吸い込み、冷却回路に叩き込む。胸の奥で、残灰を燃やす炉が唸った。
瞳が、シアンからマゼンタへ移った。
重機関銃の弾が、足元のコンクリートを削っていく。コラプスは、それを追い越すように、横へ、横へと跳んだ。
番場は、上手かった。弾をばら撒かない。コラプスが跳ぶ先を読んで、短く、正確に撃ってくる。肩口を一発がかすめた。ナノテックスーツが裂けて、その下で、赤銀のナノエーテルが一筋、滲んだ。
「速いな」番場が言った。「だが、真っ直ぐだ」
次の連射が、コラプスの跳ぶ先を塞いだ。
コラプスは、跳ばなかった。
その場で、足を止めた。番場の銃口が、一瞬だけ、コラプスのいない空間を撃ち抜いた。
その一瞬で、コラプスは、地面を蹴っていた。前へ。真っ直ぐ、番場へ。
番場が銃口を戻すより早く、コラプスの手が、重機関銃の銃身をつかんだ。
焼けた鉄が、手のひらのスーツを焦がした。コラプスは、構わずに、銃身を上へ押し上げた。弾が、夜空へ抜けていく。
「……っ」
番場が、銃を捨てて、腰の拳銃に手を伸ばした。
コラプスは、その手首を押さえた。力は、それほど込めなかった。ただ、動かせない角度で、押さえた。
二人は、しばらく、そのまま止まっていた。
「……毎日、手入れしてるんだね」コラプスが言った。「この銃。油の匂いで、分かる」
番場は、荒い息のまま、コラプスを見上げた。
「戦争が終わってから、ずっとだ。他に、やることがなかった」
「団地で?」
「団地でだ」
コラプスの瞳が、ゆっくりと、マゼンタからシアンに戻っていった。
「じゃあ、帰って、また手入れしたらいい」コラプスは言った。
「この銃、いい銃だよ。わたしでも、分かる」
番場は、長いあいだ、何も言わなかった。
それから、拳銃から手を離した。
*
倉庫の中は、冷えていた。
天井の高い保管区画。
パレットとスチールラックに、封缶が並んでいた。腰ほどの高さの、鈍い銀色の筒。
四十本。その一本一本の蓋に、細い線が這っていた。線は床を伝って、区画の中央に集まっていた。
その中央に、男が一人、木箱に腰掛けていた。
五十代の半ば。白髪の混じった短い髪。旧陸軍の野戦服を、繕い直して着ている。左腕は、肩から先が、黒ずんだ金属の義手だった。
その義手が、小さな握りの装置を握っていた。
「……四時までは、まだあるぞ」
男は、顔を上げずに言った。
「久我だな」
「そうだ」久我は、ゆっくりと顔を上げた。ルヴィリアを見て、それから、その後ろのチルダを見た。「メビウスの人形か。噂は聞いている。特記戦力、だったか」
「Dollsだ」
「名前なんかどうでもいい」
久我は、義手の中の装置を、少しだけ持ち上げてみせた。
「これは、旧陸軍の四二式起爆管だ。握っている間は、何も起きない。手を離せば、四十本の封缶の蓋が、全部吹き飛ぶ。俺の左手は義手だ。疲れない。眠らない。四時まででも、四日でも、握っていられる」
チルダが、ルヴィリアの背後で、小さく息を呑んだ。
「若いのを、帰したそうだな」
「帰した」
「余計なことを」久我は言った。だが、その声に、怒りはなかった。
「……いや。礼を言うべきなのかもしれん。あいつらに銃を持たせたのは、俺だ」
「なぜ持たせた」
「数が要った。メビウスに、こちらは本気だと見せるためにな。だが、撃たせるつもりはなかった」
「撃てば、暴発していた。あいつらの銃は、半分が辰砂に食われていた」
久我は、目を閉じた。
「……そうか」
ルヴィリアは、一歩、前に出た。
壁から三歩。封缶の列と、久我の間に、自分の体を置く位置。
久我が、目を開けた。
「その立ち位置」
「何だ」
「壁から三歩。守るものと敵の間に、自分を挟む」久我は、ルヴィリアの足元を見ていた。「旧陸軍の、第七機動群の教本だ。俺はあそこの連中とは何度か一緒に動いた。あの隊の指揮官は、いつもそこに立った」
ルヴィリアは、何も答えなかった。
「人形に、教本を読ませたのか。メビウスは」
「……そうだ」
ルヴィリアは、それだけ言った。
「採掘権の話をしよう」
久我が言った。
「俺たちには、団地しかない。戦争が終わって、新都に戻らなかった連中が、あそこに集まった。辰砂を手で掻き出して、侵食率を下げて、人が住めるようにした。十五年かかった」
「知っている」
「メビウスの重機が入れば、一月で全部、崩れる。台帳上、あそこには誰も住んでいないことになっているからな」
「私には、採掘権を動かす力はない」
「分かっている」久我は、静かに言った。
「メビウスの人形ごときに交渉の権限なんか、ありはしない。だから、俺は四時を待っている。四時になって、公示がなければ、手を離す」
「封缶が開けば、お前も死ぬ」
「団地が崩されれば、どのみち、俺たちは行き場がない」
ルヴィリアは、久我の義手を見ていた。
そのとき、傍らのチルダから通信が入る。
『……ボス』
『なんだ』
『あの義手。多分だけど、旧陸軍の初期型。うちの店に、肘から先が一本、ある』
チルダの声はジャンクの見立てをするときの、平らな声だった。
『あれ、耐磁処理、されてない。戦時中の規格だから。関節の駆動系が、むき出しの鉄』
ルヴィリアは、振り返らなかった。
『続けろ』
「いちいち待ってても意味ないよ。四時に、ここら辺一帯の磁気が上がる。中規模。アンタの義手の関節は、磁気が上がると、勝手に動く。痙攣するの。指が、開く」
チルダは一歩踏み出し、ルヴィリアに送った通信の内容を、そのまま久我にも言った。
保管区画の中が、静かになった。
久我が、自分の左手を見下ろした。
「……何だと」
「あんた、知らなかったんだね」チルダが言った。
「戦争のときは、こんな奥まで辰砂が来てなかったから。義手の持ち主は、磁気の強い区画には入らなかった。だから、誰も知らない。でも、うちの店に来る義手は、だいたい、そこが壊れて来る」
久我は、長いあいだ、自分の義手を見ていた。
「……四時に、俺の手は、開くのか」
「開く」
「俺が、離そうと決める前に」
「そう」
久我は、笑った。乾いた、短い笑いだった。
「……要求も、交渉も、関係なしか」
*
午前三時四十分。
アイシアの声が、通信に入った。雑音が、もう混じり始めていた。
『指揮官。磁気の上昇が、予報より早まっています。……あと十分ほどで、ピークに入ります』
「人質は」
『クローザーが外の見張りの二人を……銃だけ撃ち落としました。二人とも、もう逃げました。番場さんが、事務所から職員を出してくれています。コラプスと一緒に』
「番場が」
『はい。……コラプスが、頼んだそうです』
ルヴィリアは、久我を見た。久我は、黙って、それを聞いていた。
「チルダ。あの起爆管、止められるか」
「四二式なら、安全栓がある」チルダは、もう工具袋を開けていた。「握りの、裏側。抜けたピンを、もう一回差し込めば、手を離しても起爆しない。でも、ピンを差すまで、握りが閉じたままじゃないとだめ。開いたら、終わり」
「何分かかる」
「近くに行ければ、三十秒。でも」
チルダは、久我の義手を見た。
「その三十秒の間に、磁気が来たら、指が開く」
ルヴィリアは、自分のジャケットの襟に手をかけた。
ネイビーの、耐磁ジャケット。シアンの裏地。
それを、脱いだ。
「……ボス?」
ルヴィリアは、久我の前まで歩いていった。久我は、動かなかった。
ルヴィリアは、ジャケットで、久我の左腕を、肩から指先まで、きつく包んだ。袖を義手に巻きつけて、裾で握りの装置ごと覆った。
「何を」
「耐磁だ」ルヴィリアは、包んだ義手の上から、自分の両手で、久我の義手を握った。「これで、お前の手は、四時に開かない」
「お前は」
ルヴィリアのナノテックスーツが、むき出しになっていた。白い、継ぎ目のない表面。その下で、ナノエーテルの循環が、シアンにかすかに光っていた。
「私の体は、少し鈍るだけだ」
「……人形のくせに」
「チルダ」
「行く」
チルダが、久我の脇に膝をついた。
ジャケットの裾を少しだけめくって、握りの裏側を覗き込む。
工具の先端で、安全栓の穴を探った。
*
赤の嵐が来た。
最初は、音だった。倉庫の鉄骨が、低く、長く唸った。天井の照明が、一斉に瞬いた。
ルヴィリアの視界に、ノイズが走った。
白い砂嵐のような、細かい乱れ。
耐磁ジャケットのない体の中を、磁気が素通りしていく。
冷却回路の流れが鈍り、ナノエーテルの循環が、ほんの少しだけ、重くなった。
手の中で、久我の義手が、震えた。
ジャケット越しに、関節の駆動系が、勝手に動こうとしているのが分かった。
耐磁の生地が、その大半を受け止めている。だが、全部ではない。
ルヴィリアは、握る手に、力を込めた。
「……開くな」
小さな声だった。誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
「あと、十秒」チルダが言った。工具の先端が、穴の縁を探り続けていた。
「ピンの溝が、錆びてる。……もうちょっと」
視界のノイズが、濃くなった。
ルヴィリアは、目を閉じた。見えなくても、握ることはできる。
暗闇の中で、ずっと昔の声がした。自分の声だった。だが、今の声ではなかった。もっと低く、もっと掠れた、男の声。
――全員、灯りのある方へ帰れ。俺も帰る。
「……入った」
チルダの声がした。
小さな、金属の噛み合う音。
「安全栓、入ったよ。ボス。もう、離しても大丈夫」
ルヴィリアは、目を開けた。
視界のノイズは、まだ残っていた。
その向こうで、久我が、ジャケットに包まれた自分の義手を見下ろしていた。
ルヴィリアは、ゆっくりと、手を離した。
久我の義手が、ジャケットの中で、一度だけ痙攣した。
握りの装置が、指の間から滑り落ちて、床に転がった。
何も起きなかった。
四十本の封缶は、鈍い銀色のまま、並んでいた。
磁気のピークは、二十分ほど続いた。
ルヴィリアは、封缶の列の前に座り込んでいた。
チルダが、その肩に自分の作業着をかけた。耐磁ではない。ただの、油の染みた布だった。
「ボス、目、見えてる?」
「半分」
「半分は見えてないの」
「時間が経てば戻る」
久我は、木箱に腰掛けたまま、ジャケットに包まれた左腕を膝の上に置いていた。
「……一つ、訊いていいか」
ルヴィリアは、顔を上げた。
「さっき、お前は、若い連中に『灯りのある方へ帰れ』と言ったそうだな。番場が、トキサカから聞いたと」
「言った」
「戦争の終わりに、ラジオで、同じ言葉を聞いた」久我は、天井の、瞬きの止んだ照明を見上げた。
「慰問の放送だった。どこかの部隊の指揮官の声でな。『全員、灯りのある方へ帰れ。俺も帰る』。俺たちは、塹壕の中で、それを聞いた」
ルヴィリアは、何も言わなかった。
「俺は、帰らなかった。新都の灯りは、俺たちのための灯りじゃないと思った。だから、団地に残った。灯りは、自分たちで点けることにした」
久我は、ルヴィリアの方を見た。
「帰らなかった者がどうなったか、お前は知らんだろう」
ルヴィリアは、少しだけ、間を置いた。
「……知っている」
久我は、眉を寄せた。
ルヴィリアは、それ以上、何も言わなかった。
言葉を足すことも、説明することもしなかった。ただ、まだ半分ノイズの残る目で、久我を見ていた。
やがて、久我は、目を逸らした。
「……妙な人形だ」
*
夜明けの前に、蘇芳から通信が入った。
『ルヴィ。どうなった』
「職員、全員無事。封缶四十本、損壊なし。メガリスの主犯、久我。狙撃手一名と重火器手一名を確保。いずれも負傷・磁気欠損のみ」
『若い連中は』
ルヴィリアは、一拍だけ置いた。
「現地で解散させました」
通信の向こうで、蘇芳が、小さく息を吐いた。
『……報告書には、そう書け』
「了解しました」
『それからな。第十一区画の採掘権だが』
ルヴィリアは、黙って待った。
『放棄はできん。企業連合の入札だ。私の権限の外にある。だが、着工の時期なら、戦術対策部門の安全評価で動かせる。……一季、ずらす。それが、私にできる戦闘区への譲歩だ』
「一季」
『その間に、団地の連中が、どこかへ移れるように。あるいは、台帳に載るように。どちらにせよ、私の仕事ではないがな』
「……統括」
『なんだ』
ルヴィリアは、少しだけ、言葉を探した。
「ありがとうございます」
蘇芳は、しばらく、何も言わなかった。
『礼は、私じゃない。お前が、四時まで手を握っていたからだ』
通信が切れた。
*
輸送車の荷台で、クローザーは、給水塔から下ろされてきた狙撃手を見ていた。
ニレ、と名乗った女だった。五十を過ぎている。右手の指が二本、包帯で固定されていた。足元に、機関部の砕けた古い小銃が置かれていた。
「スコープなしで、二キロ」クローザーが言った。
「お前さんもだろう、機械の嬢ちゃん」ニレは、包帯の手を膝に置いたまま言った。
「あの鬼火の、短い拍で撃ってくるとはねぇ。十五年、あの砲の音を聞いてきたが、短い方で撃とうと思ったことは、一度もなかった」
「間に合わないから?」
「間に合わないからさ」
「あたしは、間に合う」
ニレは、声を出して笑った。
「生意気な」
「ねえ」クローザーは、少しだけ身を乗り出した。「錆鉄の盤、知ってる?」
「……知ってるが」
「指が治ったら、一局、打って」
ニレは、クローザーを、しばらく眺めていた。それから、包帯の手で、自分の膝を軽く叩いた。
「指が治るまで、待ってな」
*
その日の昼過ぎ、ジャンク屋の扉には、まだ「本日閉店」の札が下がっていた。
作業台の上に、ネイビーのジャケットが広げられていた。
久我の義手を包んでいたせいで、裏地のシアンに、古い機械油の染みが残っていた。
チルダが、それを布で叩きながら、ため息をついた。
「落ちないね、これ。旧陸軍の油、しつこいんだよ」
「構わん」
ルヴィリアは、作業台の向こうで、ディヤウスの銃身を拭いていた。目のノイズは、もうほとんど消えていた。
コラプスが、カウンターの内側で、釣り銭を数え直していた。数え終わってから、顔を上げた。
「ねえ、ルヴィリア」
「なんだ」
「番場さんの銃、いい匂いだった」
「そうか」
「団地に、帰ったかな」
「帰っただろう」
アイシアが、作業台の端で、報告書の下書きを打っていた。
「指揮官。『若い連中は現地で解散させた』……この一文、本当にこれだけで良いんですか」
「統括が、そう書けと言った」
「……分かりました」アイシアは、少しだけ微笑んだ。「では、そのように」
奥の長椅子では、クローザーが端末の盤面を開き直していた。
「灯籠に、中断、解除って送った」
「勝てそうか」
「分からない」クローザーは、盤面を見つめた。「でも、さっきより、拍が読める気がする」
チルダは、ジャケットを叩く手を止めた。
それから、作業台の向こうのルヴィリアを、じっと見た。
「ねえ、ボス」
「なんだ」
「で、結局、誰が素人だったの」
ルヴィリアは、ディヤウスを拭く手を止めなかった。
「戦の素人は、お前たちだ」
「やっぱり」
「だが」
ルヴィリアは、布を置いた。
鼻で敵の数を数えたコラプス。
銃を見ただけで、どれが暴発するかを言い当てたチルダ。
鬼火の拍を聞き分けたアイシア。
義手の、むき出しの関節を知っていたのも、チルダだった。
「あの倉庫で、四時に手を開かせなかったのは、戦の玄人じゃない」
チルダは、目を瞬いた。
「向こうの芯は、手練れだった。だが、向こうは、素人を数合わせにしか使わなかった。……こちらは、そうしなかった。差は、それだけだ」
チルダは、しばらく、黙っていた。
それから、ジャケットを丁寧に畳んで、ルヴィリアの前に置いた。
「油の染み、そのうち味になるよ」
「そうか」
ルヴィリアは、畳まれたジャケットの上に、手を置いた。
それから、作業台を、指先で二回、軽く叩いた。
とん、とん。
チルダは、それを聞いて、少しだけ笑った。
新都の人間が「本社」と呼ぶ中央区の塔は、正式には、メビウス・テクノロジーズ仙京支部の本部棟だ。
本当の本社は、海の向こうにある。西の大陸の、辰砂のない街に。
その塔の最上階で、仙京支部本部長のアゴルディは、窓を背にして報告書を読んでいた。
丸眼鏡をかけた、背の高い男だった。
色の薄い髪を後ろへ撫でつけ、仕立ての良い灰色の上着の袖口から、白いカフスが覗いていた。
こちらの言葉を、こちらの人間より正確に話す。ただ、母音の終わりに、わずかに西の訛りが残っていた。
窓の外では、新都の夜景が、辰砂の灯りで白く光っていた。夜を安全にした会社の、夜だった。
机の前に、蘇芳が座っていた。
「職員、無事。封缶四十本、損壊なし」
アゴルディは、報告書の頁を、指先で一枚めくった。
「結構です。物流部も、精製部も、喜ぶでしょう。十四番は、明日の午後には再稼働できる」
「ですな」
「主犯の三名は、生きて確保。負傷のみ」アゴルディは、もう一枚めくった。
「それから、これです。『若い連中は、現地で解散させた』」
アゴルディは、その一文の上で、指を止めた。
「解散。……面白い言葉を選びますねぇ、あなたの人形は」
「報告書の文面は、私が指示しました」
「でしょうね」
アゴルディは、報告書を机に置いた。
その横に、もう一枚の書類があった。
第十一区画の着工時期の変更申請。安全評価の欄に、蘇芳の署名があった。
「着工を、一季延期。理由は、戦術対策部門の安全評価による、と」
「残党の集落が、区画内に残っています。重機を入れれば、また同じことが起きる」
「ええ。起きるでしょう」
アゴルディは、椅子の背にもたれて、窓の外へ目をやった。
「スオウ局長。私は、西の本社から、この街の数字を良くするために来ました。そして、この街の数字というのは、とても単純です。辰砂が掘れれば上がる。掘れなければ下がる」
「承知しています」
「武器を持って倉庫を占拠した人間が、生きている。その人間に銃を持たされた若者が、二十人近く、自分の家に帰った。彼らの家は、一季後に、我々が崩す」
アゴルディは、薄く笑った。笑ったというより、口の端が少しだけ動いた。
「生かしておけば、新たな火種になるものを」
本部長室の中は、静かだった。空調の音だけが、低く流れていた。
蘇芳は、しばらく、何も言わなかった。
機械の右腕を、体の脇に下ろしたまま、窓の外の白い夜景を見ていた。
その灯りの外側に、戦闘区の赤い闇が広がっている。団地の、自分たちで点けた灯りも、その中のどこかにある。
それから、蘇芳は、静かに口を開いた。
「ですが、それで新たな武装が売れるという事でもある」
「違いない」




