No.1-9 完成した薬
満月が、森を青白く照らしていた。
その光を、ちぎれた雲が少しずつ覆いはじめている。
窓の隙間から忍び込む夜気はすっかり冷たく、湿った土の匂いを運んできた。
「……ふぅ。これで、完成」
仕上げたばかりの薬瓶を、ことりと机へ置く。
あとは、明日あの子が取りに来るのを待つだけや。
本の下から紙とペンを引っ張り出して、明日の自分へメモを書いた。
「ノアって子に、薬を渡すこと…っと」
書き終えたメモを薬瓶へ貼りつけて、出入り口近くの机に置いておく。
明日の俺は、これを見て、ああそうかと頷くはずだ。
顔も声も、何ひとつ思い出せんままで。
「……あ、この本」
ふと、傍らに積まれた医学書が目に入った。
昼間、あの子の妹の病を調べるのに使ったやつ。
何気なく手に取って、開く。
ひらいたページには、あの流行り病の記述が並んでいた。
「……」
彼に見せたのは、ここまで。
その先のページを、さらに捲っていく。
たどり着いた文献の最後に、ひとつの一文があった。
「──……死に至る病、ねぇ」
ゆっくりと医学書を閉じて、椅子へ深く腰かける。
天井をぼんやり仰いでから、ぱちんと両手で頬を打った。
「さーてと。次は、自分の薬やな」
ぽつりと零しながら、薬品へと手を伸ばした。
*.
それから、どれくらいの時間が経ったんだろう。
机の上には使い終えた薬瓶が散乱して、ランプの火も、随分小さくなっていた。
空の瓶を脇へ避け、走り書きした調合式の紙を、ぽいと放り投げる。
「んん…よし」
手元のビーカーを取り上げて、細いガラス棒でかき混ぜる。
とろりとした液が遅れて渦を巻き、立ちのぼる匂いが、蜜みたいに甘ったるく鼻に残った。
きっと、この忘却の薬も、あと少しで、完成する。
治る。治ったら──。
「ふふ。ぱーてぃ……か」
顔を真っ赤にして約束をくれた、あの子の顔を思い出す。
ビーカーの液体を、フラスコへ静かに注ぎ合わせる。
「楽しみやなぁ」
その時。
フラスコの液体が、淡く、色を変えた。
「っ、え」
ふっと、音が遠のいた。
虫の声も、ランプの炎が爆ぜる音も、何ひとつ、耳に届かない。
ただ、灯りとは違うその輝きだけが、目の前で揺れている。
「──で、きた」
滲む視界の中、両手を伸ばして、フラスコをすくい上げる。
硝子越しの光が、頬を、ほのかに照らした。
ガタンッ!!!
「──……ぁ」
手の中のフラスコへ落ちていた視線が、のろりと、持ち上がる。
乱暴に開かれた玄関の扉。床を踏み鳴らす靴底が、一直線に近づいて来て、机の向こうへ、影が差した。
「……ノア?」
顔を俯かせたその姿に、ようやく、声が出た。
妹が心配やと、帰っていったはずなのに。なんで、戻って来たんだろう。
「そうや、俺の名前、分かったで! 手袋しとったから気づかんかったんやけど、掌に直接書いてあってな! それに、ほら、やっと完成したんよ! これでぱーてぃ、が───」
まくし立てた声が、ふいに、止まる。
「名医さん」
昼間とは、まるで別人みたいな声だった。
直後、あの子の体が、背後の何かに、ぐんっと引き戻された。
俯いていた顔が跳ね上がって、首が、不自然に仰け反る。
──バァンッ!
「え」
乾いた破裂音が、部屋の空気を真っ二つに裂いた。
耳の奥が、じん、と痺れる。
視界の上で何かが弾けて、撃ち抜かれた天井から、木片と白い粉がぱらぱらと降り注いだ。
「──いひひ。こんな辺鄙な場所に、医者がいたとはねぇ」
低く、粘ついた笑い声が、暗がりから這い出てくる。
その手の刃が、ノアの喉元へ、ぴたりと当てられた。
皮膚に触れるか触れないかの距離で、刃先が、揺れている。
息が、止まった。
「動くなよ。こいつの首と胴、繋いだままでいてほしけりゃあ──大人しく、しとけ」
「……っ」
喉の奥で、あの子が、声を殺している。
刃を避けようと顎を上げたまま、固まって、動けずにいる。
見開かれた目に、じわりと涙が盛り上がって、睫毛の先で、震えていた。
「ここら一帯の、金になる薬草。殆ど回収しちまったからなぁ」
ノアを挟むように、その奥から、もうひとりの男が進み出てくる。
手には、拳銃。
その反対の腕に、小さな身体が抱えられていた。
力なく垂れた手足が揺れ、苦しそうな呼吸が、漏れている。
きっと、あの子が。ノアの妹。
「─なるほど、なぁ」
男たちは、ニタニタと楽しげに笑った。
「ここにある薬も薬草も、全部寄越しな。そうすりゃ、命だけは見逃してやるよ」
持ち上げられた銃口。引き金にかかった指は、いつでも動かせる位置にある。
ノアの喉元に当てられた刃が、わずかに食い込んで、赤い線が滲む。
手の中のフラスコを握りしめた。
「──随分、元気な患者がいたもんやな」
吊り上げた口の端の裏で、奥歯が、ぎり、と軋んだ。




