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No.1-8 甘い薬と、冷たい刃

 冷えた夜気のなか家路をたどると、暗い廊下の奥に、灯りがぽつりと滲んでいた。

 森の匂いの染みついた身体で、僕はその温もりへ滑り込む。


「ただいま、ハル……ごめんね、遅くなって」

「ケホ、お帰りなさい、お兄ちゃん」


 ベッドの上のハルが、嬉しそうに、ぱっと身体を起こす。

 駆け寄ろうとしたんだろう。勢い余って、膝の絵本が、ぱたりと床へ落ちた。


「絵本、落ちたよ」

「わ、ごめんなさい」


 慌てて手を伸ばすハルより先に、僕はしゃがんで拾い上げる。


「ハルは、その本がほんとに好きだね」

「だって、半分お魚さんで、可愛いんだもん」


 そう言って笑う頬は、やっぱりまだ少し白くて、胸の奥がちくりと痛んだ。

 布団へ絵本を戻すと、ハルがそっと、僕のズボンの裾を引く。


「お兄ちゃん、喉乾いた」

「そっか。ホットミルクでいいかな?」

「うん」

「…あ、その前に」


 ゆっくりと腰を落とし、抱えていた紙袋を膝の上で開く。

 取り出した小瓶を、ハルの目線までそっと近づけた。


「ほら、お咳の薬、もらってきたよ」

「おくすり?」


 首を傾げる妹の手に、小瓶を握らせてあげる。

 顔をぐっと近づけて、中の錠剤を不思議そうに覗き込んだ。


「にがいやつ?」

「ううん。なんと、甘いやつ」

「えっ、やったぁ…!」


 幼い頬をぱっとほころばせて笑うハルに、僕は小さく息をついた。


「赤くて、きれーなお薬だねぇ」

「ふふ、ご飯の後に飲もうね」


 空になった紙袋を、くしゃりと畳もうとして、手が止まる。

 まだ、わずかな重みが、底に残っていたのだ。


「…なんだ?」


 覗き込むと、底のほうに、小さな瓶がもう一つ残っていた。

 よく見れば、子どもの落書きみたいな字で、メモまで添えられている。


 ───足の なんこう薬 お大事に。


 不格好な字のメモに、つい頬をゆるめながら、軟膏の瓶に指をかけた。その時だった。

 ちゃぽん、と中で何かが揺れて、僕は思わず手を止めた。


 おかしい。軟膏が、揺れるはずがない。


 嫌な予感に、そろりと瓶を引き出した。


 ラベルの下で、とろりとしたピンク色の液体が、ぬらりと光っている。

 軟膏でもなければ、傷を治すものでもない。どう見たって───これは、びや


「お兄ちゃん? そのおくすりは、捨てていいの?」

「うん、捨てて大丈夫。ただのゴミだから」


 いったいどうやったら、こんなものを取り違えるんだ。

 どうせ、調合しながら別のことに気を取られていたんだろう。


「まったく……」


 なんだっけ。こういう医者を指す言葉が、あった気がする。

 腕は確かなのか怪しい、どこか抜けた医者。みたいな。


 ああ、そうだ。


「………ヤブ医者」


 爆発的な出会い、しかり。

 芸術的包帯、しかり。

 左足がちゃんと治りかけているのを差し引いても──あの人が名医なのか、そうでないのか。いまいち、判断に困る。


「やぶの、おいしゃさん?」

「あ、いや。何でもないよ」


 いけない。思ったことが、つい口から漏れていた。

 僕はこほんと咳払いをして、話を変える。


「明日、またちょっと出かけてくるね」

「え……なんでぇ?」

「ハルの大切なお薬、もらいに行くんだよ。だから、お留守番になるけど──」


 その言葉を聞いた途端、ハルは身を小さくして、視線を落としてしまった。


「ごめんなさい、お兄ちゃん」


 今にも消えてしまいそうな、細い声。

 俯いた肩は痛々しいほど薄くて、握った服の裾が、きゅっと白く張りつめていた。


「な、なんでハルが謝るんだ? ハルは、何も悪くないだろ?」

「だって……わたしが、お兄ちゃんを、いっぱい大変にしてるから」

「大丈夫だよ。全然、大変じゃない」

「……でも」

「ハルがいてくれるだけで、お兄ちゃんは十分なんだ」


 堪らなくなって、僕はその小さな身体を、ぎゅっと抱きしめる。


 守りたい。


 たとえ何を犠牲にしても、この子だけは。

 たった一人、残された大切な家族だから。


「おにい、ちゃ……っ、けほ、ゲホッ! ゲホッ!!」

「ハル……!」


 僕は慌てて腕をゆるめ、その背をさすった。


「っ……ぅ」


 呼吸が少し落ち着いたところで、ハルを近くの椅子に座らせる。

 咳止めの瓶から一粒取り出し、水と一緒に差し出した。


「ほら、お薬だよ」

「っ、ん……」


 コップを支えてやると、ハルはこくり、と薬を飲み込む。

 浅い息を繰り返していた肩が、少しずつ、穏やかに上下していった。


「きっと、お咳が出るから、悲しい気持ちになるんだよ」

「うん」

「お薬飲んで、ご飯いっぱい食べて、沢山寝たら、きっと元気になるからね」


 こくんと頷くハルの頭を、そっと撫でる。


「先にホットミルク作るね。ご飯も、すぐ準備するから」

「…おてつだい、していい?」

「ありがとう。でも、大丈夫だよ」


 ハルに微笑みかけて、僕は台所へ向かう。

 鍋にミルクを注いで火にかけると、ほどなく、甘い匂いが立ちのぼってきた。

 その鍋を見守りながら、夕食の野菜でも刻もうと収納棚を開けて──手が、止まる。


 いつもの場所に、ナイフがない。


「あ」


 数秒遅れて、思い出した。

 懐へ手を差し入れると、硬い刃の感触が、布越しに指先へ触れる。

 森へ持ち出したまま、だったのだ。


 こんなものを忍ばせたまま、妹を励まして、看病をしていたのか。

 我ながら、苦笑がこぼれる。


「……ほんと、何やってんだろ」


 その時。コンコン、と玄関を叩く、やけに丁寧な音がした。


「あ、お客さんかな?」

「わたし、おてつだいするよ!」

「待って、ハル」


 止めるより早く、ハルは椅子を鳴らして立ち上がる。

 その勢いで机に肩がぶつかり、咳止めの瓶が、かたん、と倒れた。

 ぱたぱたと玄関へ駆けていく背中を追おうとして、転がりかけた瓶に、僕は手を伸ばす。

 掴み上げたそれの、中の錠剤を、じっと見つめた。


「……効くと、いいけど」


 瓶をそっと机へ起こしてから、僕も廊下へ向かう。

 先に駆けていった背中を追って、一歩、踏み出して──足が、止まった。


 静かすぎる。


 あんなに賑やかだったはずのハルの気配が、ふつりと消えていた。

 廊下の奥が、やけに暗く、深く見える。


「……ハル?」


 返事が、ない。

 胸騒ぎに急かされるまま、暗い廊下の先へ目を凝らす。


 灯りの届かない玄関に、何かが、横たわっていた。

 ぐにゃりと折れ曲がった、小さな影。

 それが妹だと気づいた瞬間、血の気が引いていく。


「ハル!」


 駆け寄ろうとした足が、縫い留められたように、止まる。


 倒れた妹の、すぐ傍。

 開け放たれた玄関の闇から、見慣れない靴先が、ぬっと覗いていた。

 その隣に、もうひとつ。


 誰だ。


 考えるより早く、伸びてきた腕が、僕の口を乱暴に塞いだ。


「いひ。──やぁっと、見つけたぜぇ」


 耳元で、湿った笑い声が、ぞろりと滑った。


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