No.1-7 完成しない薬
薬草を手に入れた僕たちは、森を抜けて、名医の家へと戻ってきた。
陽はだいぶ傾いて、窓から差し込む光が、赤みを帯びはじめている。
その光が机をなぞり、並んだ薬瓶の影を、長く床へ伸ばしていた。
「それじゃ、パパッと調合するから、そこ座って待っとき」
部屋に入るなり、名医は白衣の袖を捲り上げる。
そのまま鼻歌まじりに、てきぱきと道具を並べはじめた。
その背中を、僕は椅子に座る気力もなく見つめる。
森を往復した足は、もう鉛みたいに重いのに、名医の動きには、疲れの気配すらない。
「あの…名医さん。お疲れじゃないんですか?」
「お? 平気やで」
「……体力、化け物すぎません?」
「森の薬草採りで、足腰鍛えとるからな!」
あっけらかんと笑う横顔は、近くをひと回りしてきた、みたいに涼しい。
この人、本当は医者じゃなくて、この森に棲みつく化け物とかじゃないだろうか。
そんな失礼な考えが頭をよぎって、僕は小さく首を振った。
「名医さん、何か手伝えること、ありますか?」
「ええよええよ。ノアは、ちょっと休みや」
「でも」
「ハルちゃんの薬は、この名医に任せとき」
そう言って彼は、匙をこちらに見せつけるように掲げ、どこか得意げに口元を緩めた。
「それじゃあ……お言葉に、甘えさせてもらいます」
全部任せるのは申し訳ないけれど、僕は帰りもまた、森を歩かなきゃいけない。
ありがたく、近くの椅子に腰を下ろした。
「あ…」
何気なく視線を巡らせた先で、机の上のフラスコに、目が留まる。
透明な液体が、かすかに揺れていた。
確か、これが──。
「…記憶が消えない、薬……なんですよね?」
目を覚ましたばかりの彼は、記憶も真っ白だったはずなのに、迷わずこの薬の元へ辿り着いていた。
それだけで、どれほど大切なものか、分かる気がした。
「せやで。もう少しで完成する予定やな。長い苦労が報われる…らしい」
ま、今の俺は、その苦労を少しも覚えとらんのやけどね。
なんて、乾いた冗談を口にしながら、彼はアルコールランプに火を灯した。
「…薬の調合って、時間かかるんですね」
「この薬は、ちょっと特別やからなぁ」
このフラスコの中で揺れる、わずかな液体。
それが完成するまでに、彼はいったい、どれだけの時間を過ごしてきたんだろう。
眠れば、その日の苦労ごと忘れて。
翌朝にはまた、何も知らない顔で、同じ薬を作りはじめる日々を繰り返す。
「……でも、やっと──治るんよ」
独り言みたいな、声だった。
嬉しいはずなのに、その響きは、どこか泣いているみたいで。
ああ、この人も。
医者だとか、名医だとか。そんなものの前に。
──病に向き合う、一人の人間なんだ。
「っ、名医さん! 治ったら、パーティしましょう!!」
何かせずにいられなくて、気づけば身体が動いていた。
「え、え、え? ぱーてぃ……?」
「妹と僕と、名医さんで。完治パーティ、です!」
言い切って、はっと我に返る。
手のひらに、名医の手の感触。いつの間にか、両手で握りしめている。
「い、いや、そそそその、名医さんが良ければ! ぼ、僕、料理が得意なので!」
弾かれたように手を離して、二、三歩あとずさる。
顔から火が出そうで、僕は思わず、両手で頬を押さえた。
「んふふふふ。ノア」
「は、はい…?」
「ありがとうな」
「…いえ、約束ですよ」
ぎこちなく目をそらして、僕はこほんと咳払いをした。
ふと顔を向ければ、楽しげに口元をゆるめた名医が、匙を手に調合へ戻ろうとして。
薬草へ伸ばしかけた手が、ふいに止まった。
「どうかしたんですか?」
「いや…なんか、忘れとることがあると思ってな」
「忘れてること?」
首を傾げながら、まっすぐに射抜くような瞳が、僕を捉える。
「ノアに、言わなんことが、あった気がするんよ」
「え゛」
心臓が、いやな音を立てた。
妹の病気のことだろうか。それとも、強盗(未遂)のことか。
どちらにしても、ろくな話じゃない。
「ま、まぁ、無理に思い出さなくても」
「んー…いや、でもなんか、大事なことやったような」
包帯の頭を掻き、こてんと首をひねる。
けっきょく思い出せないまま、彼は石臼の葉をごりごりと擦り潰しはじめた。
「はっくしょん! ッうわ、けほっ、けほ!」
派手なくしゃみと一緒に舞い上がった白い粉を、名医は自分でまともに吸い込んでいた。
咳き込みながら、ぱたぱたと手で空気を払う。
危なっかしいというか、器用なのか不器用なのか、よく分からない人だ。
「大丈夫かな……」
本当、いろんな意味で。
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玄関先に立つと、橙色の空が広がっていた。
ひやりとした外気が、頬を撫でる。
「あー……その……完成せんで、すまんなぁ」
頭を掻きながら謝る名医は、ばつが悪そうに、口元をへの字に曲げていた。
薬を調合し終える前に、帰らなきゃいけない時間が来てしまったのだ。
病気の妹を、これ以上ひとりで家に置いておくわけにはいかない。
「そんな謝らないでください。薬草が見つかったのも遅かったですし、仕方ないですよ」
名医は少しだけ眉を下げると、白衣のポケットへ手を入れる。
ごそごそと中を探ったあと、小さな紙袋を取り出した。
「これは?」
「咳止め。よう効くやつが、ちょうどあってな」
「わ、ありがとうございます」
「飲むのはご飯食べた後がえぇけど、酷い時はいつ飲んでも大丈夫やから」
彼はふっと表情を緩めて、紙袋をそっと差し出す。
壊れ物みたいに両手で受け取って、僕は胸の前で、それを大切に握りしめた。
「それと、明日の俺に。薬取りに来た、って言ってな」
「…ぁ」
「ちゃんと、分かるようにしておくから」
───明日の名医さんは、もう、僕のことを知らない。
忘れる相手だから、傷つけても構わないと思った。
その罰だ。僕がこの人にしたことごと、今日は無かったことになる。
声が震えてしまわないように、込み上げるものを飲み込む。
僕は唇を引き結んで、深く頭を下げた。
「本当…ありがとうございます…!」
「ふふ、自分、何回ありがとうって言うんや」
覚えていてもらえなくてもいい。今このときだけは、ちゃんと感謝を伝えたかった。
顔を上げると、名医がやわらかく目を細めて笑っていた。
「それじゃあ、ノア。ハルちゃんも、お大事に」
「はい…さようなら」
「うん。さようなら」
足を前へ踏み出すたび、名医さんの家が、少しずつ遠ざかっていく。
夕暮れの森は、いつもより静かだった。
鳥の声も、虫の音も、何ひとつ聞こえない。
ただ、僕の足音だけが、やけに大きく響いていた。




